719さん、今幸せですか?
穏やかで、満たされてます。
現実は、様々な事がありますが、常に穏やかにいます。
呼吸をしただけで、満たされるようになったときは、満たされるようになるもんだなーと、自分でも可笑しかったです。
なるにたどり着く過程は、自分を知っていく作業だと思いました。
自分を知ること=自由になるということでした。
不安を感じる私も、他者と比べて焦る私も、気に入らない人物がいる私も、望んでない現状も全て完璧だと、今にいる瞬間を増やしました。
完璧認定も、最初は大変な事もありますが、少しの間続けてみてください。
そしてご自分の内面の変化を感じてみてください。
また、もう少し余裕が出てきたら、悪いと言われる感情を感じきってください。
あぁ私、あいつの事大っ嫌いだな、よし、嫌いを感じきるぞという感じで。
どんな感情もあなたなので、この世にそれ以上大切な事なんてないんです。
感情を感じきるのは、今にいる事。
感情を感じきるのは、自分を感じる事です。
私は現実が怖いよ、振り回されっぱなし。
わたしも現実怖いですよ、
自ら進んで選びませんが、怖いと思ったときは、遠慮なく感じきってます。
現実ではまだなっていないことを認めつつも、内面でなる、って感じで良いのでしょうか?
内面と現実は全く関係ありませんので、内面で叶った事を、現実を見て叶ってない認定にするのは、注意が必要です。
これは、ない世界にいて、頭の中での妄想になってしまいます。
もしくはなった振りメソッドです。
たとえば、外国に旅行したとします。
中東のある国でトランジットをすることになり、
飛行機の出発まで空港内を散策したら、私たち観光客以外の空港職員は全て男性でした。
あなたの目に映る光景の中には、現地人は男性しかいません。
その時、この国に女性はいないと認識しますか?
しませんよね、見なくてもこの国のどこかに女の人がいると思いますよね?
ということは、目の前の現実に見えないからと言ってないを認める必要はないんです。
わざわざ、ないと認めてから、なるをする必要はない。
目の前の現実を無視して、内面でそのままなるをしてください。
現実に余計な判断や認定をしないことです。
淡々と過ごしてください、でも感情を抑えろってことじゃないですよ。
そして、現実に叶ってないを探さなくていいんじゃないでしょうか、
これも選択です。
内面に虹をつくって、現実の雨を見る。
私は現実の雨空を見ながら、内面へ意識を向けたら、虹が目の前へ広がります。
これ凄い事でも何でもなく、ただの選択です。
内面と現実のどちらを見るか、人間は1つしか見れません。
でも、目の前の現実の雨が自動的に選択された時、雨だと思うだけです。
現実は雨で現実に虹なんてないことを認めるけど、内面では虹を見てる自分だなとかは思いません。
虹を見るそして、雨を見る、
その2つを関連づけず、心のままに満たされます。
現実にない世界だと認める必要はありますか?
内と外をごちゃ混ぜにしない事です、そして、何を自分は選択するかです。
現象化についてですが、現象化は気になりますよね。
現象化がなきゃ、意味ないじゃんって思いますよね。
私も現象化は気になりますよ、でも気にならないのも事実です、
(二元論です)。
記憶は消せないので、自動的に刺激という反応が出てきます。
でも自我があるなら当たり前なので、それに抗いません。
現象化、するかなぁ、して欲しいな、でもしなくてもいいかで済むんです。
私も現象化を気にして気にして、死にそうになってたのにいつの間にか不思議ですね。
そして、あ、私叶ってたんだったと思い出すというか、よしまたなるしようと軽くやってました。
なるの世界が意味分からないときも、意味分からないけどなるしようと何回もしてたなと思い出しました。
今はもう現実を見て叶ってないとたまーに思っても、そのすぐあとにん、叶ってないって何だ、違和感すごい、叶ったよもうとなりました。
今は自分の選択した世界以外の認識に違和感を持つようになりました。
そうしたら、自分がなったことさえ忘れてて、時々驚きます。
(それは、なるを解除した意味ではなく、なったのが自然すぎて忘れるんです。)
こういうことを正直に書いて、混乱させるかなとも思ったんですが……、
なるとか既にあるとか叶ってたを理解してても、仙人ではないので自我は出てきます、でも抗わないんです。
お、刺激、やっぱり、刺激は楽しいなと思ってます。
叶ってないと思っても、叶ったに絡めないんですよね。
だから、現実に変な認識を持たず、ジャッジせず、感じきってください、とお勧めしてます。
これをする事は今にいること。つまりすごく簡単に言えばなるにとって、切っても切れないものは今にいるかもしれないです。
それは、現実の対処方法が今にいるだからです。
今にいるもなるも、メソッドじゃなくて、心理ですもんね。
世界中の教えなどは、この2つに行き着くと思います。
そして現実においての行動ですが、内面でなったとしても、現実でその願望に向けて行動はしてもいいですし、しなくてもいいです、
それぞれ関連づけずに、好きにしたらいいじゃないのかなとおもいます。
餓死寸前なのに内面でお腹がいっぱいなら、それでいいということか、というような事については、私なら餓死する前に現実で、何か食べます。
それが内面でのステーキじゃなくても、目の前の、現実の芋を食べます。
現実で目標を達成するべき事は全てやります。
座して死を待つ、なんて事はしません。
しかし、内面で満腹なのに、現実は餓死なんておかしいとは絡めません。
内面の世界、現実の世界それぞれで、今を感じながら、選択し、そして独立し合って願いを叶えてもいいじゃないですか?
そして生きながらえて、ステーキも必ず食べます。
ですが、目の前のお芋を食べる事は妥協でも何でもなく、おいしくお芋をいただきます。
お腹も心も満たされます。
そしてこれが自愛でもあるんです。
当たり前にあるモノに満たされる、これが自愛ですし、ある世界だし、満たされる事です。
呼吸しただけで満たされる、その境地です。
そこへいけば、認識なんて変わってある世界です。
なるには自愛もとても手助けになるので、ぜひぜひお試しください。
それにステーキ食べた私になったんだから、餓死して死ぬわけがなく、ステーキへと現実も展開されていきます。
私がダイエットをしたときの、気持ちの変化のくだりですが、何のための食事制限、筋トレなんだと思った後も、筋トレしたり、食事制限したりしていました。
それはただ、したいからしてました。
でも内面の痩せた私には、何にも絡めていません。
本当に今楽しいから、やっておこうと思ってやってました。
目の前の事を味わい尽くすというモノです。