【気づき】「”気づいてるだけ”に留まる」「エゴが○○って言ってくる」と気づいたら、もうそれだけなんです。だから、エゴが何を考えていようが、何を言っていようが関係なく、「気づいてるだけ」なんです。

体感・気づき・方法論
質問さん
質問さん

自己観察についての質問ですが、例えば、デブな人がいたとして、その人を見て「デブだ」って思ったときに「今、デブって思った」と気づくことは、気づくほうも思考だから、それは「自己観察のフリ」になっているのでしょうか?

達人さん
達人さん

「エゴ・思考」、特に「不足」の方向に向いてる思考は、大体の場合は、無意識に思考を垂れ流しているんですけど、ちょっと意識的になってみるだけで、「あ、今、○○って思った」とか気づけますよね。
その「ちょっと意識的になってみた感じ」というのは、さっきまでの「無意識の思考の垂れ流し状態」から、パッと飛び出した状態なんですね。

何かを気づいたときの事を思い出してもらえるとわかると思うんですけど、
「気づき」っていうのは、一瞬の、純粋でクリアな、夜空で一瞬ピカッと光る雷のような、直感的なひらめき」みたいなものなんですよね。
本当は「あ」くらいに一瞬のものですけど、それを言葉で表現すると「あ、今、○○って思った」となりますよね。

「今、○○って思った」というのは思考なんじゃないか」っていう疑問ですが、まず、よっぽど深い意識の覚醒状態にでもならない限り、ある程度の認識能力はなくなりません。
完全に意識が覚醒した状態になると、「こんにちは」といわれても、ただの音にしか聞こえないし、
そのことばを言った人が誰であるか、人間であるかどうかすらも、認識出来ないでしょう。
ちょっと思考停止しただけでそんな状態になってしまったら、日常で困ることばかりでしょう。
普通に思考を停止して別の領域の感覚を垣間見る程度なら、信号を判断して、ちゃんと渡ることも出来ますし、慣れてくれば、簡単な受け答えの会話くらいなら出来ます。

話を戻しますが、その一瞬の気づきがあった瞬間というのは、「無意識の思考の垂れ流し状態」から抜け出した瞬間なんですね。
それは「自己観察のフリ」だとか、「自己分析」だとか言われてますけど、瞬間的に思考の外側に飛び出すことができても、「気づき」というのは、本当に一瞬のことなので、
殆どの場合は、次の瞬間には思考の中に戻っているんですね。
一瞬光った後は、元の暗闇なんです。

だから「気づく」ところまでは出来ていても、その後に、思考や判断が入ると、「気づいたけど苦しい」とかになってしまうんです。
「気づいたけど・よくわかりません」と思ってしまうのは、気づいた後に何かしてるんです。
気づいたエゴに対して、判断や分析をしようとするエゴと同化してるんです。

私は、別の領域に意識があるときは「気づいてるだけでいい」と言っていますが、逆を言えば、別の領域では「気づくことしか出来ない」んです。

「エゴが○○って言ってくる」と気づいたら、もうそれだけなんです。
そこで、そのエゴをどうこうしようと思わないんです。
その思考が自分を苦しめている思考だな」ということに気づいたとしても、「その思考はよくない思考だ」という「判断や分析が出来ないので、ただ「そうなんだな」という感じしかないんです。
だから、エゴが何を考えていようが、何を言っていようが関係なく、「気づいてるだけなんです。

その「気づいてるだけ」というところに「留まり続けるのは、今までの習慣にはなかったことなので、意識的にそこにいようとしないと、どうしても思考のほうに戻ってしまいます。
そして、「気づいたけど苦しい」とか、「どうにかしなきゃ」とか、エゴのほうにいってしまうんですね。
でも、「エゴに気づけたから、私は自己観察してる」と思っているのだと思うんですけど、「それは違いますよ」ってことです。

エゴと同化してるときは、主観になってます。
主観で「苦しい」といってるときは、観察になっていません。
だから「自己観察してるけど苦しいです」というのは、「客観視してるけど苦しいです」っていってるようなものなので、「それは自己観察できてないよ」っていうことなのです。

だから、自己観察という意味では、「エゴに気づいた意識」のほうが大切だということなんですね。
そこが、主観でなく、客観視できる場所です。
そこに意識の焦点を合わせてとどまっていれば、エゴがどんなことを言ってても、「苦しい」と感じることはないんです。

それと、気づいただけで、観察しないで終了しているときは、「あ、今、○○って思った」と気づいただけで、その「気づいた意識」には気づけていないです。
一瞬気づいても、「気づいただけでいいらしいけど、それが何なのか」っていう感じなんだと思うんですけど、「気づいた意識」のほうに意識をおくから、観察できる位置にいられるのであって、そこにいるから「気づくだけでいい」という言い方をしてるんですが、一瞬気づいただけのことを「観察した」とは言わないです。

もちろん、一瞬気づいただけでも、いらない思考だから、その思考を取り下げようとするなら、それはそれで、気づいたことを有効に活用できるので、いいと思います。
ですが、これは正確には「自己観察」じゃありませんよね。
私はメソッドとして、体系的に「自己観察メソッド」を説いているつもりはないので、自分のやりやすいように、別の領域の視点で観察するなり、エゴの領域で思考を取り下げるなり、その時々で、適当にするのが一番いいと思っています。

あと、「自己観察」にこだわりすぎな感じがします。
その「エゴに気づいた意識」に気づいたら、そこが別の領域だから、「そこを頻繁に感じるようにするといいよ」っていうのが、元々のお話だったんですよ。

というのも、意識的に別の領域に意識があれば、「自己観察しようとしなくても、不足の思考をしたときに、「あ」と気づいて、自然に調和的な思考に移行するんですよね。
なので、別の領域を感じることを増やしつつ、何かしないといられないエゴがあるなら、自己観察したらいいんじゃないかなって思うんです。

人それぞれ、やりやすいところから始めるのがいいと思うし、エゴから見れば、「自己観察しよう」というほうがやりやすく見えるんだろうけど、
それでループに嵌っているのなら、「別の領域に意識をおく」ことのほうが早いかもしれません。 

108以外質疑応答【5】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1311180098/
619 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/08/30(火) 11:31:39 ID:psg5Ebes0

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