【気づき】「キャンバスの自分に気づく」自己観察がある程度進んでいくと、思考が自分ではないことがわかってきます。よく言われていることですが、思考が「絵具」で、本当の私が「キャンバス」です。

体感・気づき・方法論
達人さん
達人さん

自己観察がある程度進んでいくと、思考が自分ではないことがわかってきます。
よく言われていることですが、思考が「絵具」で、本当の私が「キャンバス」です。
それと同様に、感情や「肉体感覚も、絵具であるということが「わかると思います。

「キャンバスの自分」というのは、いわゆる「大いなる私」です。

キャンバスの自分でいることが非常に楽であり、安心感があります。
思考は、瞬間・瞬間、キャンバスに湧いては消える「絵具」であり、キャンバス自体に色をとどめておくことはできません。
願望による執着や・苦しみなどの不足が全て「絵具だった」ということがわかり、安心・充足に包まれるのです。

この「大いなる私」である、安心・充足から生まれる思考、つまり「意図」には、不足がまとわりつきません。
不足は、観察されると「キャンバスにとどまれずに、手放されて行くのです。
そして「意図」は、そのまま「意図」として「実現に向かうでしょう。

ここまでが、実現ありきの自己観察になります。
ここまで辿りついていない人は、まずは、このことがわかるようになってください。

自己観察では、簡単に言うと、「わからない」という思考自体を「ポイするんです。
そのあとに残ったものがキャンバスなんです。
たとえば、「それってどういうことなの」という思考も「ポイするんです。

さらにいってしまうと、これらの経験の全てが、絵具なんです。
「キャンバスを発見したぞ、大いなる自分がわかったぞ、不足が絵具だったとわかったぞ、安心・充足を感じたぞ」という、これらの経験も全て」、「思考」・「考え」に過ぎないのです。
まだ夢の中にいて、「夢から醒めたら夢だった」みたいなものです。
でも、ここまでこれた人は、願望達成なんて、もうどうでもいい人たちばかりだと思います。

だから、「願望達成」と「自己探求」というのは、ある程度分けて考えたほうがいいです。

自己探求中に「キャンバスに気づくと、充足に包まれます。
その中で、起こる意図がバンバン叶うことがあるでしょう。
不足が観察されて、手放された先に残るのは「充足」だけです。
なぜなら、意図を邪魔するものがないからです。

だから、それに気づいた人が、自己探求の方向で、願望達成を説明し出すと厄介なんです。
それを聞いた人は、難しく感じるし、自己探求のことなのか、願望達成のことなのか、訳がわからなくなります。

簡単に言うと、キャンバスが叶えているんじゃないんです。
「キャンバスを見つけてハッピーだ、自分は世界だったんだ、やったー」という夢を、エゴが見ているから「叶うんです。
エゴの認識が、「私=世界」という、「万能な私」になれたからこそ、叶うようになったんです。
だからそれは」、アファメーションと同じようなものなんです。

質問さん
質問さん

意図」というのは、充足に包まれた時に勝手に湧いてくるものなんでしょうか。

達人さん
達人さん

いえ、意図は普段も湧いています。
でも、色々と理由を付けて、その意図を曲げちゃっていますよね。
その「理由」というのが、よく言われているように「記憶」ですから、「バッサリと切っていい思考」なんです。

質問さん
質問さん

私は、ただただ「楽になりたくて自己観察を続けて、最近充足に包まれる事が多くなったのですが、願望を持つ事に違和感を感じています。
「もう少し余裕のある生活が出来るようになるといいなぁ」というように、意図をした瞬間に、不足を前提にしてしまっているような感じがしています。

達人さん
達人さん

わかります、私もそんな時がありました。
そういうときは、「不足を支えているんじゃないだろうか」という思考だけを「バッサリと切れればいいんですけど、そもそも思考自体を邪魔に感じているのかもしれませんね。
だから、思考全てを「バッサリと切ってしまっていいと思いますよ。
そうすれば、自然と「意図」だけを残して、不足を手放している状態になると思います。

自己観察スレ3
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1455679954/l50
334 : 幸せな名無しさん :2017/02/22(水) 00:38:38 KG9GUBEU0

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