自己観察をしている時に浮かんでくる「言葉」が、別の領域、「観察者の視点」から発せられたものなのか、個体としての自分、「エゴ」のものなのか、わからない時があります。
例えば、「カレー食べるといいよ」、「そろそろ部屋を片付けなきゃ」、そういう言葉が浮かんできて、それに従って行動して「生活しているわけですが、そんな個体を「ただ観察する視点にいればいいってことだよね」と思っていると、「あれ、この言葉は、この思考は誰のものなのかな、本来の自分のものじゃないならば、従わなくていいのかな」となって、思考が始まってしまって、何をすればいいのかわからなくなる時があります。
「無」の感じになると、日常生活がままならなくなってしまうような感じがしますが、私は自己観察に向いてないのでしょうか。
別の領域は、「言葉」や「思考」が発生する前の領域だというように、私は認識しています。
別の領域は、「ゼロ地点」とか、「無」とか、「無限」とか、「今」という言い方もします。
頭に浮かんでくる言葉に「あれこれ反応したり、捕らわれている時点で、それは「エゴ」なんじゃないでしょうか。
個人的には、五感や感情を味わうために、エゴを楽しむために「生まれてきたんだと思っています。
「カレー食べたいなあ」、「ああ、美味しいなぁ」、「部屋を片付けなきゃ」、「綺麗になった、気持ちいいなぁ」というのは、たしかにエゴだけど、それでいいんです。
「エゴが悪い」とか、「常に無になれ」とかではないと思いますよ。
そもそも、エゴを無くすなんて絶対できないし、私達はエゴを楽しむ為に生まれてきたんです。
ただ、私達はエゴを、完全に「自分」だと思い込んでいるわけです。
そうではなくて、「エゴは本来の自分のほんの一部なんだよ」ということです。
それを思い出すため、あるいは実感するために、「エゴとは別の領域」、つまり、「言葉や思考が発生する前の、無であり、何でも生み出す「ゼロ地点」に浸りましょう」ということを、達人さんは仰りたいんじゃないでしょうか。
「アファと自己観察の両立は可能なのか」っていう事だけど、そもそも自己観察はメソッドではなく、あくまでも「本来の在り方」な訳で、アファとは全く別ものです。
「アファをする事で潜在意識に届いて叶う」っていう効果はあると思うけど、「それが心地よいならすればいいし、そうじゃないならしなくていい」っていう事になると思います。
「○○している自分を観察する」というところまでは皆やってると思います。
でもそれって」、フォーカスしてるのは、結局「○○してる自分」なんだよね。
多分みんな」このあたりで躓いてるんだと思います。
「観察している側」の立ち位置を、もっと意識してみたらどうでしょうか。
その立場から、どんどん湧いてくるエゴを観察してみてください。
「今日の仕事のこと」、「過去の傷ついた恋愛のこと」、「それに反応する感情はどんな感じだろうか、ざわざわするだろうか、イライラするだろうか」などです。
そしたら、「はい、これで自己観察はおしまい」、そんな感じで「最初はいいと思うよ。
それから、色々と気づくことが増えていくと思う。
私は、「探していたものは、探されていたものだった」っていう言葉が、自己観察のまとめで印象に残っていますが、最初わからなかったけど、本当にその言葉に尽きるなっていう感じです。
自己観察スレ3
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1455679954/l50
826 : 幸せな名無しさん :2018/05/24(木) 02:29:58 EyphN6oA0