どうやら私は私を愛しきれていなかったようです、出来事に対してはどういう気持ちでいたらいいのですか、どうやって愛していけばいいんだろう。
出来事と、きみがきみを愛する事は一切関係ないだろ?
きみは無償の愛に包まれた事があるか?
どんなきみでも愛される。
きみが存在しているだけで愛される。
もし世界が私だとすると、何でこんな酷い仕打ちをするのかな
きみは、愛の代償として何を期待していた?
世界に愛を与える代わりに愛を期待していたのだろ。
自分=世界は結果だ。
だからきみはきみに集中しろと言っているんだよ、きみときみだけで愛し合えと。
きみはずっと愛する代わりに、愛される事を望んでいた。
最初はそれでもいいが、それは無償の愛といえるか?
助けてください、痩せたいのに食べ過ぎてしまいます
もう絶対に痩せられない、この姿で生きていかなくてはならないとしたらどうする?
私だったら諦めて開き直って生きていくかな。
オシャレするとかね。
太っててもオシャレで自分に自信がある奴って魅力的だよ
そうだろ、願望によって苦しめられているように見える、そんなの可笑しいだろ。
ならば彼女は願望がない方が幸せじゃないか?
痩せたいのは、幸せになりたい、今より自分を好きになりたいからだろ。
縋っているその唯一の手段を捨てたら、もっと楽に簡単に幸せになれると思うがね。
今ある状況で、今ある限られたものの中で、思い切り幸せになる。
例えば遊園地があるとする。遊具には客を取り込む魅力はない。
しかし、新しいイベントをする金も、新しいアトラクションを導入する金もない。
このままでは潰れてしまう。何かを導入はできない。
今のままで客を呼び込むには、楽しんでもらうには、どうしたらいい、きみならどうする?
遊園地は今のきみの環境だ。
新しいアトラクションやイベントは、きみが欲しいものだ。
環境が変われば客が入る、楽しんでもらえるのは当たり前だ、しかしそれは出来ない。
今のままで人生を楽しむ工夫はあってもいいんじゃないか?
今のままできみを愛するんだ。
痩せたい彼女に限らず、叶っていないからといって、どうして今幸せになろうとしない?
今ある限られたものは不本意なものかも知れない。
しかし、まずは一旦それは諦めろ。
今あるものはそれだ。
ならば何故今その限られたものの中で、思いっきり楽しもうとしないんだ?
ブランコが欲しいといって嘆いても、滑り台しかないんだ。
何故滑り台で思いっきり楽しもうとしないんだ?
飽きたなら何故楽しむ工夫をしないんだ?
ブランコがあったらいいなと思っても構わない。
しかしせっかくある滑り台で楽しまない理由にはならない。
それって結局、願望を諦めさせようとしてるの?
そうだよ、まず諦めろ。
幸せになった後からもう一度考えろ。
本当に必要だったのかという事をだ。
その反応できみはしがみついている事が分かったよ。
別に今のままでも良いけど味気ない、ガッカリと感じてしまう。
楽しむ工夫を放棄して世界に依存するな
楽しむ工夫ってなに?
滑り台なら逆さになって滑ってみたりだ。
より楽しむゲームだと思っているよ。
遥か昔、受験勉強なんかは呪文を覚えていると思っていた。
テストは戦いだ、RPGが好きだったからな、遊びだったんだよ。
PS3で遊びたいって願ったら、今ある竹トンボで我慢しろって言われるようなもんだ
竹トンボも面白い、極めろ
試練に耐えるようなものか
違う、試練に耐えてなんかない、全てを楽しんでいるんだ。
本気で遊びなんだよ、耐えろなんて言っていない。
竹トンボしかきみには一生ないから、それで楽しめと言っている。
きみにはまだ無理かもな、無理するな、そのうち分かる、お金がなくても楽しめ
楽しめる自信がありません、どうしたらいいですか?
楽しむのに自信が必要なのか、楽しめなければ方法を間違えている。
きみの楽しみかたはきみしか知らない。
ただ「楽しむぞ」という意図は持ち続けろ。
100%毎瞬楽しむ必要はない、ただざっくり今を楽しめ。
未来に期待して今を疎かにしない、今を味わうんだ
一生竹トンボという言葉に敏感に反応した人、恐怖や拒絶を感じた人、今のきみは竹トンボだ、一生今のきみだったとしたら許せないのか?
竹トンボでも愛せると思うのですが、竹トンボで遊んだあとはPS3でも遊びたいです
それはまだ竹トンボ極めてない状態でPS3がほしいっていっているだろ?
極めてから考えろ、極めてから改めてPS3が欲しいか遊びたいか考えろ。
間違いなく答えは今と違う、だから竹とんぼを極めろ。
一生竹トンボしかないと決めても、叶ったり叶わなかったりだから、実際そうなるとは限らんよ。
だが「いつか竹トンボ以外で…」、と「いつか」にばかり目がいって、今不幸なら意味がない。
まあこちらも叶ったり叶わなかったりだがな。
今楽しんだ方がいいよ。
竹トンボに不満な人は、不満からPS3を得ても、今度はPS3に不満を覚えるよ
特に竹トンボの話は、願望を渇望し、苦しんでいた頃と比べて認識が変わっていないと受け入れられない。
「PS3が欲しい」と暴れまくっても手に入れることはできるし、手に入らないこともある。
暴れまくっていたら、それも選べない。
しかし暴れまくって手にしたものは、対極がセットだ。
幸せと失う恐怖のセット、実際また、失い渇望するループ、分離だからな、仕方ない。
手に入れる方法は散々色んな人が書いた、出来ないと言い訳をして、きみがやらないだけだ。
誰もが一生竹トンボかもしれないという恐怖に蓋を閉めている。
それでも楽しもうと思った人、再配達は来ないよ、受け取ったんだ、お疲れ。
竹とんぼを受け入れられなかった私はじっくり自愛します…、楽しもうとしても時々空しくなるんだよなあ。
まだきみに楽しむ気がないだけだ。
楽しめないきみも許せ、楽しむ事も許してやれ
叶えるために「既にある」を適用できない人が、叶えるために自愛するんじゃないの?
それは継続しないんだよ、はじめは「叶えたいため」だったがそこが変わったんだ。
本人達は変えようなんて微塵も思わないし、変わった事にも気付かない。
しかし、分離は有限、変わるのは必然だ。
何度も言うが、自愛自体が「既にある」と同じ属性だ。
その愛は無償の愛、愛のようなものではないよ。
最近いきなり髪の毛が細くなってものすごく抜けてしまいます。
今は髪の抜ける私でも愛してるよと話しかけていますが、あまり受け入れられないです。
条件付きの愛は愛じゃないよ。
ただ丸ごとありのままの私を愛する、愛している、と言ってみろ
すごく悲しくて涙が止まらないです。
何故悲しいんだ、きみは愛されてないと思っているだけだろ、でもきみは愛されている。
自分でも分からないんです。
涙は出るけど嫌な気持ちじゃないので、本当は悲しいんじゃないのかも知れないです。
それが自愛だよ。