あなたは、なぜそこまで自分にはできないと思う?
過去に縛られすぎているからだよ。
限りなく過去に縛られない状態に近づけば近づくほど、人は自由になれる。
それは常に誰の言うことも聞かないということだ。
見るものは常に過去。
そこの情報を信じるということは、いかなる達人の言うことであれ、そこに束縛されるということ。
いい加減に束縛されるのをやめて自由を獲得しなければならない。
それが全知全能に限りなく近づく道。
常に疑い、束縛を緩めていくことだ。
まず、願い事は一切妥協しないことだ。
願いに妥協せず、ひたすら強く思えば必ず叶う。
途中で期間を区切らなければ、叶わない方がおかしいのだ。
潜在意識や思考の力に希望を抱くのなら、中途半端にはやらない方がいい。
やるなら徹底的にだ。
絶望の中からちゃんと形となって社会的に成功した人の共通点は何?
徹底的に熱意を持って貫いたことだろ?
彼らの特徴は毎日毎日時間があれば徹底的にやり続けたことだ。
変わりたいなら変わればいい。一日10万回の思考を気合で塗りつぶし続ければいい。
絶対に成功する、絶対に出来る、絶対に上手くいく、絶対に幸せに豊かに暮らす。
それを思い続ければいいだけだ。
物や人、地位や名誉を得たいなら、ただそれが出来る自分になればいい。
貴方が一番正しいと思うことをするんだ、間違いにはならない。
ネガだろうがポジだろうが、それをすべてねじ潰すぐらいに絶対の正しさを自分に持たせればいい。
方法はなんでもいいんだよ。
徹底的にそれをやって考えを変える、自信を持て。
私の言葉すら、何言ってんだこいつくらいの勢いで越えて行けばいい。
現実的に取れる行動がないというのは、ある意味大チャンスなんだよ。
つまりあなたが多を基準とせず、自分の人生を、自分の基準で生きることが出来るようになるかどうかが、ここにかかっているんだ。
現実的に取れる行動がない中で、あなたがそれは必ず出来るという認識になれれば、あなたはもはや想像し得る全てを手にすることができる。
普通、人の認識が変わるのは、現実的に取れる行動があり、そこに変化がみられる場合だ。
例えば自転車に乗れるようになりたいのなら、自転車に乗り、練習していく中で、実感とともに乗れるという認識が形成される。
私は、練習せずに出来るという認識になれ、といっているのだ。
普通に現実的対処をするよりもハードルが高いということを自覚しなければならない。
だから徹底的にやらなきゃダメなんだよ。
あらゆる方向性で絶対に妥協してはならない。
あなたはその願望が実現していない間も幸せであっていい。
また一方で、あなたは絶対にその願望を実現することができる。
あなたにとって一番いい形でだ。
だから、それが出来る認識であり続けるんだ。徹底的にやるんだ。
現実的に何もできない分、時間があいてる間は全精力をそこにつぎ込む熱意を持て。
不幸や孤独という概念を永遠にあなたの中から排除しろ、認識が変わるまでは。
頑張れ、やればできる。
上手くいっているかどうかが現実として確認出来ないからこそ、自分で選べる力がつくのだよ。
確認出来てしまったら、結局は現実に振り回される受身的な反応でしかないじゃないか。
あなたの妄想が現実なんだから妄想で終わるとかいう感覚はそもそもおかしい。
現実に現象化していないと嫌だ、という時点で、自分の心で選べていない。
映像に一喜一憂してどうするの。そんなんどうでもいいのだよ。
…むしろ、現象化しても喜べないし、そんなの当たり前
現実なんてものはあなたがたの妄想の残りカスなんだからぶっちゃけどうでもいいものなんだよ、意味なんてない。
どうしても叶えたい願いがあって、そのために潜在意識で頑張っておりますが、まだ叶ってませんよという妄想が見事に反映されてるわけだよ。
要はこの妄想が変わればいいだけの話なの。
私が徹底的にやれと言ってるのは何故かというと、現実を変えるために妄想を変えるのではなくて、(それだと意味がない)、現実が妄想で出来ていると確信するためにやるの。
めっちゃ叶えようともがくことで、変えたい・叶えようが反映されてるだけだと知れば、馬鹿馬鹿しくなって何もやらなくなるよ。正直現象化とかどうでも良くなるし、渇望とかは出来なくなる。
叶えようとかできなくなるし、変えようとか思わなくなる。
だってそれがそのまま現実になるわけだからね。
それが手放しであって何もしないってことなんだけど、それはあくまで確信を得た上での結果論であって、それをメソッドとして捉えても絶対にうまくいかないし、詭弁になるの。
だから徹底的にやるのが正解なわけ。
私が何故こうも詭弁、詭弁と繰り返すのか。
あなた方に現実から創造者としての力を取り戻させるためだ。
あなた方は現実に決して救われてはならない。
こういう言葉は誤解を招くが、現実に起こるどんな良きことも悪しきことも聖者の言葉も愚者の言葉も、そしておやじのいびきもあなたを惑わす敵なのだ。
それがどんなに優しく支えになる言葉であっても、あなた方は完全に自分で自分を救わなければならない。
私がなぜ、あらゆる願望に妥協せず徹底的にやれと言っているのか。
あなた方に創造者としての自覚と根拠の無い自信、抑圧なき欲を与えるためだよ。
あらゆる言葉に惑わされず、徹底的に自分の想像し得る全ての幸せと願望の実現を許すことで、現実に左右されない最強のわがまま存在である貴方が形成されていく。
私の言葉のみを信じて突き進めばいい。
そして最後には私の戯言を全て詭弁と、自ずから切り捨てるだろう。
その時、あなた方の完全なる自由は完成する。
ヒントというか、これが全ての答えなのだが、「既にある」の終着点は、現象化への期待がゼロとなる点だよ。
既にあるから現象化はなくても満足するのが当たり前なのだ。
これは難しいのだが、現象化には喜んではならないのだよ。
喜びという反応は出るだろうが、喜んではならない。
もちろんそれっぽく見える、うまくいってるフラグにもだ。
だから徹底的にやる必要がある。
徹底的にあなたの頭の構造を変えないと、これは難しい。
だからこそ、徹底的にやれと私は口を酸っぱくして言っているのだよ。
たとえ、この認識が甘い状態で中途半端に上手くいっても、また失うことを恐れるからだ。
なぜなら、うまくいくとかいかないとかいうのがそもそも現実ありきだからだよ。
世界に勝ち負けを見出すから、負けの恐怖と勝ち続けることにビビりまくらなければならなくなるのだよ。
一回頭の中をとんでもなくいかれた構造にしないといかんのだよ。
あなたが意中の人に、大好きって言われても動じず、もう二度と会いたくないと言われても動じずにいる心構えが必要なのだ。
いやいや、君が私を大好きなのは、君の心や行動、言葉が決めるんじゃないよくらいのものだ。
意中の人が現実世界でどうあろうが全く動じるな。
現実に一喜一憂してる時点でダメなんだよ。
今まで現実に忠実に、社会的に生きることを強いられてきた一般人は、凝り固まった頭の中をほぐすのは生半可な努力じゃ無理なんだ。
だから中途半端にやるならやめた方がマシ。
徹底的にやれる人しか無理なの。
だからこの世には一握りしか成功者がいないのだよ。
だから多くのスピリチュアリストが能書き垂れるだけで終わるの。
理屈がわかってもうまくいかないのはこのせい。
能書きはいいんだ、徹底的にやってあなた方の頭の中の構造を変えるしかないんだよ。
特定の誰かを尊敬したり、特定の言葉に力を持たせるな。誰かの信者になどなるな。
天上天下唯我独尊だよ。
励ますなら、己の大いなる熱意をもって自己を奮い立たせろ。
現実の私の言葉に頼るな、一人でやり切れ。
私はあくまであなた方に、自分で自分の人生を選び抜く力を持つきっかけを与えているに過ぎない。
人によってはそのきっかけは突然の天啓という形で訪れることもあるが、普通は徹底的にやるしかない。
あらゆる現実に主導権を渡さなくなれば、現象化など心からどうでも良くなる。それが自由だよ。
叶えるために徹底的にやること。
現実を変えたいならこれをやるべきだ。
現実に惑わされない力をつけるというのは、現実が全てあなたの味方となることを意味する。
あなた方を惑わすという意味では現実は全てあなたの敵だが、あなた方が持つべき認識は、現実は全て、常にあなたの味方であるということだ。
その認識を現実に惑わされずに持て、と言っている。
現実はあなたの味方だ。
現実は常に最高の状況をあなたに提供している。
その認識を現実の如何に関わらず持てということだ
信じるということはリアリティーを他に依存させる行為であり、疑うということはリアリティーを己に取り戻す行為なのだ。
矢を放ってから的に当たるんじゃない。
的に当たってから矢を放つのだから、外れるわけないんだよ。
それは百発百中ではない、百発成功という。
矢が当たることを信じるのは現実にリアリティーを依存させる。
矢が当たっていないことを疑うのは自らにリアリティーを収斂させる。
あなた以外に誰も、あなたにはそれがありませんと決める力はないのだよ。
他でもない、あなたが断定しているじゃないか、ないって。
まさにこの世界は、あなた方それぞれの認識で出来ていたのだよ。
願望の実現も、願望の実現に関わらない絶対の幸せも、全てを手にするだけの器があなたにはある。それでいい。
充足感を高めるというのわな、願望が実現しなくても幸せになるということだ。
一方、叶う確信を高めるというのわな、必ず実現するから幸せになるということだ。
よくわからないなら気にしないでいい。両方やるのがベストだからな。
徹底的にやるには徹底的にやればいいじゃないか。
強いて言うなら、やりぬく覚悟と貫き通す意志だ。
あなたの理想郷を見ようとする意思の強さがあるかどうかだ。
確信を高めつつ、充足感も得られる方法とは、
①、アファメーション。
必ず毎日行うこと。具体的な回数は特にないが、休日など暇な時は一日中だ。
延々とアファメーションをしろ。録音アファがおすすめだ。通勤通学中にも聞けるだろう。
何があっても絶対に毎日やれ。
②、超ネガ・ブレインダンプ。
あなたが日々の暮らしで抑圧させている鬱憤、怒り、憎しみ、絶望、恐怖、矛盾、理不尽、諸々全て、紙に書き殴る。
書き終わって気が済んだらその紙を燃やすなりするとなお良い。
できれば一日の終わりにその日の憂さをすべて書きなぐり、燃やせ。これも毎日。
③、自愛。
叶えるための手段はアファメーションがあるから、この自愛は本当に、あなたの思いや行動を全て許しまくる、ただそれだけのための自愛だ。
矛盾する思いを持つあなたも、どんなあなたもすべて尊い。
それを忘れないように、これは日常のあらゆるシーンで行うこと。
ブレインダンプで心を空にし、自愛で許可し愛する。
そうしてほぐれた心にアファメーションを浸透させるということだ。
潜在意識は魔法じゃない。
むしろな、物理的に何かをしないで確信をつけたり、充足感をえたりするのだから、最初は普通に生きるより、泥臭く愚直にやり抜く覚悟が必要なの。
徹底的にやれる人が少ないからこそ、この世に成功者は一握りなのだよ。
この分野が一般大衆にとっていつまでも眉唾なのはそのせいだ。
だから中途半端にやる奴は願望実現など諦めて普通に生きろといってる。
それはそれで幸せだよ。
逆説的だが、心の底から諦めることで安息を得、願望実現することもある。
(それを目的にしたら意味ないが)。
だが、それでも本気でやりたいというなら、優しい言葉に囚われるのは、あなたが力を奪われることと知りなさい。
結果を先に決める力。
それさえあれば、道中はただ楽しむものだよ。
道草を大いに楽しめばいい。
必ず得られるから、努力も悪くないし、辛くないだろ。
この必ず得られる確信こそが、アファメーションで得なければならないものだよ。
必ず得られる確信を得た後あなたが何をするかわかるかな?
今を生きはじめるんだよ。未来を憂いず、過去にも挫けずにね。
道中、すなわち今を楽しむこと、ただそれだけになる。
そして、あなたが本当に欲しかった充足感は、実はそこにあるんだ。
アファメーションはあなたに出来る確信を与えるもので、自愛はあなたに充足感を与えるものだ。
そしてブレインダンプは、アファによって浮き彫りになったネガティブを解消するためにやるものだ。
全ては内面を変えるのが目的であって、アファメーションをすること、ブレインダンプをすること、自愛をすることが目的ではないんだ。
あなたが満たされているならなんだっていいじゃないか。
外はあなたが満たされたから変わっていく、オマケのようなものだよ
あなたのその妄想が現実なのだ、忘れないように。
本来、外側などどうでもいいのだよ。
徹底的にやる
この言葉に悲壮感を感じる人も多いかもしれないな。
私が言ったことを思い出して欲しい。
あなたは願望が必ず叶うという確信または現象化に関わらない充足感を得る必要がある。
どちらか一方でも、両方でもいい。
とにかく、どちらかを得るために徹底的に妥協するなと言っているのだ。
アファを徹底的にやることに悲壮感があるなら自愛を徹底的にやればいいだろう。
私がオススメする方法はアファ、自愛、ブレインダンプだ。
世界=自分とか、一元論とか、客観的に証明のできないそういう詭弁はどうでもいい。
そういう理屈も結局は、得られる確信か、満たされることを目的とした知識でしかないからだ。
わたしは詭弁が嫌いなんだ。
詭弁というのは、あなた方の考えを変えるためのこじつけのことだ。
要はな、待っている間は叶わないというのは、不足感を活性化させる恐れがあるからであって、必ず得られることがわかっているのなら何の問題もないわけ。
待っているという状態自体には、何の問題もない。
それこそ通販の例えは適切だ。
だからとにかく確信を高めていけばいいのだ。
ちょっといいことが起こるとすぐそっちに気を取られて、また自分で選べなくなってしまうのはよくあることだ。
変わらず自分と向き合い続けること。
いいことがあっても悪いことがあっても、只管アファメーション、自愛、ブレインダンプ。
アファメーションや自愛、ブレインダンプは悪いことがあった時の精神安定剤じゃないんだよ。
それはあなたを根本から変えるものだ。
だからわたしは何度も何度も何度も徹底的にやれ、妥協するなといっているのだよ。
あなたの内面の問題だからあなたがやるしかないのだよ。
あなた方は水が毎日飲めることに特に執着も充足感もないだろう。
だからね、あなたがこれから実践していく中で、水への執着が薄くなって、結果的に水をあまり飲みたくなくなるかもしれない。
ただそれは、あなたが水に満たされているからこそ起こるものだよ。
頭なんておかしい方がいいんだよ。
一般的に言う頭のおかしくない人というのは、常識的であるということだろ?
常識的であるということは、常識という現実に振り回されまくることを言うんだよ。
常識はあなたを活かす綱でもあるが、あなたを縛る鎖でもある、うまく使うんだ。
別に人と喋ってる時は常識的なあなたで居ても構わないが、本当のあなたはいつだって常識をぶち壊す立場でいることだ。
常識というのは、あなた方が得た過去の知識であり、かつその中で当たり前となっていたことだ。
そんなものは潔く無視すること。
覚悟を決めて徹底的にやればいいのだよ。
覚悟を決めた人間はいつだって強い。
ほとんどの人は当たり前の事では決して満たされないし、満たされてやるもんか、ってなってるんだよ。
何が何でも無条件でなんか、満たされてやらないってね。
そんなの、うまく行くことをやめて諦めたみたいじゃないか。
そんなの馬鹿みたいじゃないかってね。脳内妄想じゃん、みたいな。
だからその受け皿としてのアファメーションなのだよ。
でもあなたは変わらず、なにがあっても満たされなきゃいけないの。それが自愛。
常に満たされるのは頭の構造を破壊せにゃならない。
叶う確信を得るのは頭の構造を破壊せにゃならない。
どちらも、内面を変える努力が必要。
がんばれ。
自愛をやらないのも自愛という詭弁もあるが、それは自愛じゃないよ。
自愛という言葉が誤解を与えるが、自愛は自分を自分で満たす、ということなんだよ、本当は。
だから、自愛をやらないというのは、絶対に自分で自分を満たしてなんかやらないという宣言だ。
これはつまり、私の幸せを完全に現象に委ねます、ということ。
これからも感情が現象に振り回されまくることを宣言してるようなものだ。
結局それじゃ、自分で人生を選べないんだ。
つまり、感情と現象という、本来は別個として存在するものをリンクさせるから自愛は嫌いだとかなるのであって、自愛とアファメーションを併用するのは、それぞれを自分が別個で創造できるようになるために行うのだよ。
現象が幸せを作るわけでもなく、幸せが現象を作るわけでもない。
幸せも、現象も、あなた方が別個で創造するものなのだよ。
自愛は自分で充足を創造してゆくこと。
アファメーションは自分で現象を創造してゆくことなのだ。
正直言うとな、自愛で満たされても別に願望が叶うわけじゃないんだ。
あなた方のネガティブとかポジティブは、別に現実に影響を与えない。
あなたが満たされたら現実も満たされるなんて嘘。
それこそ、通販なんだよ。
別に泣こうが喚こうがお日様に向かって祈祷をしようが必ず届くという認識があれば届く、ただそれだけのこと。
だが一方で、願望が叶っても別に満たされるわけじゃないんだよ。
それは刹那的なものなんだ。欲は尽きないから、次から次に願望が出てくる。
だから気分や感情と、得られる確信とは分けて得るべきなの。
その方が混乱もしないし、何に対しても不動の穏やかさを保てるでしょう。
そのための併用。
満たされたら必ずしも願望が叶うというわけではない、ということ。
自愛をやり、満たされたという状態があなた方にとって恒常的な真実になっていけば、現実も満たされる、だが、願望が必ず叶うわけではない。
※満たされるということに関連して、願望が叶うことはある。
願望が叶うのは、願望が叶う・もしくは叶っているということがあなたにとっての真実である場合。
ただ同時に、願望が叶っても必ずしも幸せであるとは限らない。
だから、両方とも自分で選べるようになるために、自愛とアファメーションを徹底的にやればいい、ということ。
ものを手にすることと満たされることは全く別だ。
あなた方は今すぐ満たされていいし、ものを手にして良い。
それをこの現実における真実として生きていいんだよ。
不思議なことに、多くの人はそれができなくなっている。
なぜわざわざ叶っていないとか満たされていないなんて認識を持つのだ?
それがそのまま現実を写すのに、そんなバカバカしいことする必要もないのだ。
意味がなさすぎるし、今叶っていないという認識を持つ必要性がゼロだ。
満たされていないという認識を持つ必要性も皆無だ。
本当はアファメーションも自愛も回り道なのだが、一回は回り道しないと自分が必死に実現や充足に抵抗していたことに気付けないのだ。
だから、わけがわからないならひたすら実践というのは正しい。
目に見えてるものに幸せがないのではなく、幸せかどうかは自分で決めるから、目に見えてるものには依存しないというのが正しい。
あなたが全部決めるの。
だから他人にあーだこーだいわれた時点で崩れるような認識じゃダメなの。
お前大嫌い、もう二度と顔見たくないとか言われても、君は私が大好きなんだよという現状認識がぶれない。それが根拠のない自信。
つまづくなら甘いだけ、中途半端なだけ。自分の認識に自信がないだけ。
だから、躓かないようになるまで徹底的にやるのだよ。
普通に生きてる人からすりゃ、危ない人に決まってるでしょ。
なんで危ない人じゃダメなの…。頭の構造を破壊するというのは、イカれろってことだよ?
クロカヨさん、豪さん、199さんとか、あんなのみんなアタマおかしいでしょ、君らから見たら。
別に叶えようとなんて(現象化させようなんて)これっぽっちもしてないんだよ。
叶っていることを現実における真実としているから、疑うも何も、自分が全てを決めるのだから、疑う対象がないのだよ。
アファメーションに限らず、メソッドはあなた方を固定して現象を変えるものじゃない。
ただ、あなたを変えるためのもの。
なのにあなた方は自分を固定したまま、現象を変えようとする。
変わるのが辛いから、とにかくしつこいの。あなた方は本当に変わろうとしない。
あなた方は変わらず、現象だけ変えようとしてる。その後に変わろうとしている。
あなたの内面であるこの世界に、そんな虫のいい話はない。
あなたはそのままで良くない。あなたが変われ、今すぐだ。
あなた方の真実の世界を、あなたが変わり、今ここに見るんだ。
アファメーションは真実の宣誓だ。魔法ではない。
その世界を全力であなた方が信じろ。
それが真実だ。
真実から目を逸らすな。
それがこの世界の真実だ。
ただ、あなたが変われ。
ただ、あなたが変わる覚悟を持て。
あなたがたった一人でこの世界の選択を担う時、それこそが無明を払い、真の自由を獲得する時だ。
その覚悟をつけろ。
全てを超越し、選択する意志を持つんだ。
メソッドはそれを助けるものだよ。
ちなみに、あなた方が変わった結果、現象が変わるとは言ってないからね。
変わらないとも言ってないけど。
現象が変わるとか、変わらないとかで判断するのならば、あなた方は変われていない。
依然として、自分を固定している。
あなたが自分で全て決めるんだ。
メソッドは、自分の現実に対する認識を変えるためのものであって、現実を変えるものではないわけだ。
メソッドで現実を変えようとするなら、自分の現実に対する認識からの逃避、すなわち現実逃避に他ならないということだ。
自愛だってアファメーションだって、簡単な話が、なりたいあなたで居るだけだよ。
なんで満たされてない、イライラする、願い事が叶わない、モテない、カネがないあなたでいるの?
誰もそんなことあなた方に強制してないんだよ。
あなた方が勝手に叶ってない満たされてない愛されてないって言ってるだけ。
自愛は、なりたい自分でいることを助けるもの。
アファメーションは、なりたい世界であることを助けるもの。
徹底的にやることに何の悲壮感もないだろ。
なりたい自分を徹底的に貫くんだから。それのどこが辛いのか。
それは叶えるためじゃないけどね。
なりたい自分、なりたい世界になってる時点で叶ってるんだから、叶える必要はないのだよ。
どんな状況にあっても、自分にとっての真実をぶれさせてはならない。
いついかなる時でも己を幸せにできる能力、己に実現を許す能力を目指すのが、自愛やアファメーションの最終到達点だよ。いついかなる時でも、既にあるだ。
上手くいった人は、現実ではなく、自分に向き合っただけだよ。
自分と向き合うのはちょっと苦しいことだけどね。
自分がそれまでずっと信じてきたものを疑うんだから、そりゃ苦しいんだよ。
人は簡単に信じるものを変えることはできない。それがどんなに素晴らしいものであってもね。
自愛で得るべきなのは、幸福や、安心、安全などの満たされた感情。
あなたはものや他人などがなくとも、その感情を得、そして浸れることを知るために行う。
自愛は願望を実現する手段ではない。前も言ったが、それは別。
願望に執着するなら別にアファメーションもやったほうがいい。
ただ、願望実現と自愛は関連付けないこと。
ブレインダンプも自愛も願望を実現する手段ではない。
それはシャワーで汚れを落とし、ゆっくり湯船に浸かって落ち着くようなものだ。
つねに流れ、流動し、巡り、一定のところに留まらないのが自然というもの
変わらないものなどない
そう見えるのだとすれば、気づいていないだけ
二度と全く同じ状態であるものなどない
全てが常に流動し、変化している
自分もその中の一つなのだと気づくことがはじまりだよ
満たされるという体験は、本当に些細なことでもいい。
どんな絶望的な状況でも、満たされるっていうことは忘れちゃならない。
舌は肥えちゃならん。
自愛の一環だけど、息を吸うごとに幸せやいい妄想を吸い込み、息を吐くごとに不幸や気になる過去・未来を吐き出してみるといい。
息をしているだけで幸せという領域を目指せるようにする。
どんな時でも自分を幸せに満たしてあげられる能力だよ。最強の自愛だ。
あなた方は人生に意味やかけがえのない何か、重要性を欲しているだろう?
人生を通して、何かを成し遂げたい、そう思うだろう。
それは実現している。
あなた方にとって、常に得られない大事な何かがあることによって、あなた方は人生に意味や希望、目標、目的、かけがえのない何かが実現している。
願望を叶え続けていたい、人生に意味や希望が欲しいのに、あなたにとって最大の意味を持ち、最大の目標たる一番の願望が完全に叶ってしまったら、どうだ?
それが当たり前になり、関心がなくなる。
あなたの人生から意味や希望、かけがえのない何かが失われることになる。
何かを叶えたいなんて思えなくなる。目標がなくなる。意味が失われる。目的がなくなる。
それを、あなた方は猛烈に嫌がっているだけだ。
…あなた方は、自分で猛烈に実現に抵抗している。
ただそれだけのことなんだよ。
あなた方が、一番叶えたい大きなこと。
それが叶ってしまったら…、人生に意味も希望もなくなる。望みを未来に持てなくなるんだ。
なぜなら、望みが既にあるから。既にあるものは、かつてどれだけ望んだものであろうが、関心などなくなることがよくわかってるから。
それが怖いんだよあなた方は。
夢に向かって、希望をもって、ボロボロになりながらも生きていたいんだ、あなた方は。
人生に意味を見出したい、何かを成し遂げたい、希望を持ちたい、大切な何かが欲しい、叶え続けていたい、欲望を満たしたい。
全部叶ってるよ?
だから、あなた方の一番大切にしたいものが、うまいところ手の届かない位置に置かれて、走り続けることになってるんだよ。
人参ぶら下げられて走ってるような馬と同じ状態なんだよ。
滑稽なことにその人参は自分でぶら下げている。
人参を得てしまったら、馬にとってはなぜか絶望する(=希望が叶う)からだ。
自作自演の願望実現ゲームだよ。
そんなのやめてとっとと叶えたいって?
なら、人生に意味や希望、大切な何かを見出すのをもうやめにすればいい。
そして実現すればいいのだよ。
もちろん、実現すればあなた方にとって、それはどうでもいいものになるよ?当たり前になるから。
当たり前になるのが怖いなら、どうでもいいものになるのが怖いなら、それがあなた方の実現に対する猛烈な抵抗なんだよ。
あなたにとってその願望の実現が重要であればあるほど、あなたの行動や思考、生活のほとんどがその願望の実現のために注がれているはずだ。
そんな中、願望がぽろっと実現してしまったらどうする?
あなたが叶えるためにしていた全てが終わることになる。
意味がなくなる、希望がなくなる、行動力の源がなくなる。
そして、ボロボロになって得たものは当たり前のものとなり、以前ほどの関心や執着、重要性などいだけようはずもない。
そんなの、あなたにとっては自己存在の否定そのものだ。
そんなの、あなたは絶対に嫌なんだ。
だからあなたは叶え続けるだろう。
そこに人生の意味を、夢を、希望を、大切な何かを、見出す限りね。
当たり前の日常には、恐怖をはじめとして、取り立てていだくような感情など何もない。
当たり前だからね。
だがね、願望実現に向けて必死な日常が、当たり前の日常だとしたら?
人生に意味や夢や希望を持って、大切な何かを見出して生きるのが、あるべき当たり前の日常だと考えていたら?
全ての願望が実現してしまうのは、恐怖そのものなのだよ。人生そのものの否定、終わりなんだ。
悪役を倒すのが、ヒーローの一番大切な目標であり、あるべき当たり前の日常なんだよ。
それが終わったら、番組は最終回だ。悪役を倒すことに全力を傾けながらも、その完全な達成を全力で拒否しているのが、あなた方ヒーローだ。
幸せなんてもう、求めなくていいんだ。そんなものは、ただの刺激だ。
幸せなど、さらなる刺激を求める心を生む、渇望と不幸のもとだよ。まさに麻薬。
そんなものに意味を見出す必要は、もうないんだよ。
もう何も得る必要はない、何もしなくていい。
子どもの頃に戻って、今を生きるんだ。
あなた方は生きて、願望を実現し続けたい。
つまり願望実現ゲームをやり続けたいんだ。ゲームクリアはしたくないんだよ。
だから、そのゲームの一番大切な願望(ゲームクリア)は、その実現自体がゲームの終了を意味してしまう(と錯覚している)から、絶対に叶わないということだ。
幸せになるのが最終目標なら、いくらものを得ても幸せは完成しない。
いつも幸せを先に見続ける。
どうすればいいのかって?
あらゆる願望実現ゲームに目標や意味(ゲームクリア)を作らなければいいだけのことだ。
クリアがなければゲームそのものが崩壊する。ゲームはそこで終わりだ。
実際この世界に人生ゲームなんてものは無いし、願望実現ゲームなんてものもない。ただの概念、詭弁だ。
あなた方が勝手に作ってるんだから、それを終わらせるのもあなた方の役割だ。
あなた方は、人生ゲームや願望実現ゲームが終わったらおしまいだと錯覚しているが、そんなゲームなくても、あなた方は子どもの頃、そんなゲームなど作っていなかった頃の方がよほど純粋に、あなた方が大人になって勝手に名付けた人生ゲームという名のそれを楽しんでいたのではないか?
男の子も、女の子も、純粋に、何も考えず、目の前のことに笑っていられたのではないか?
それが今に生きるということだよ。
人生には、未だ完全には満ちていないから希望があり、夢があり、意味があり、大切な何かがあり、目標があり、目的があり、人は未来に向かって努力をするんだ。
ならば、完全に満ちている人生とは、どういうことなのか。
それは、希望もなく、夢もなく、意味もなく、大切な何かなどなく、目標もなく、目的もなく、ただ目の前のことを味わう人生なのだよ。
あなたが今満ちているか否かは、どちらの人生を選んでいるのか、ただそれだけの話なのだ。
そんな複雑な話でもなんでもない、至ってシンプルなのだよ。
一見、前者の方が素晴らしい生き方をしているようにみえる。
夢に向かって希望を持って頑張っているのだからな。
ただな、何も知らない子ども達が選んでいる生き方は、後者なのだよ。
大人にしたって、幸せそうに見える人は、割と何でも適当だろう?
全ての希望を捨て、夢を捨て、意味を捨て、大切な何かを捨て、目標を捨て、目的を捨て、全ての努力を放棄し、ただ目の前のことを味わえばいい。
それが何もしないということであり、今に生きるということであり、充足を見るということであり、既にあるということであり、あるがままということであり、求めないということであり、そして間違いなく、あなたを一番満たしてあげられる在り方だよ。
完全に満たされれば、夢も希望も未来にはなくなるかわりに、全てが今にある。
何もないということは、全てあるということだ。
得ることによる感動も薄れる。
子どもたちは仙人ではない。求めないとはそういう話ではないのだ。
遠い未来を追いかけていない、ということなのだよ。
もちろん、子どもだってもうゲームにハマり出している。
大人ほど中毒にはなっていないから、すぐやめられるだけだ。
たとえケーキ屋になりたいとか、消防士になりたいといっても、その実現のために具体的な努力をしていたわけではないだろう。
夢はあっても、今を犠牲にしないのが、今を生きる在り方なのだよ。
あなた方は達成感なんていらないかもしれない。
努力せずに大金ゲットってなりたいのかもしれない。
ただね、あなた方は、それほどにその願望を、重要で、大切で、必要で、今は当たり前じゃないから、当たり前にしたいし、今すぐ欲しくて欲しくてたまらないものだと思ってるだろ。
そう思うなら、それは現実でそう振る舞うんだよ。
あなた方がそういう思いを強くいだけばいだくほど、より強くそれは現実でそう振る舞う。
あなた方がその思いを維持できるようにね。もう嫌だ、たくさんだという思いをね。
あなた方は、やみつきなんだ
別に好きでやってるわけじゃないのはわかる。
やみつきってのは、そういうことじゃない。
麻薬なんだ。やめたくてもやめられなくなっているんだ、大抵。
ゲームをやめることすらゲームとして対応してしまってるんだよ。
それは、ゲームをやめるゲームだよ。
ゲーム以外の解決方法がわからなくなってしまったんだ。
断言するが、当たり前のように叶っていることなど、あなた方にとってはどうでも良いんだよ。
当たり前のように歩けること、当たり前のように三食食べられること、当たり前のように服に困らないこと、当たり前のように水が飲めること、当たり前のように学校に行けること、どうでもいいだろ。
(人によっては感謝してる人もいるかもしれんが、それは形だけのものだ)。
つまりね、人は、例えば息をするという100%当たり前であることには、夢も、希望も、感謝も、有り難みも、大切な何かも、重要性も、意味も、執着も、絶対にいだけないんだよ。
そこについてはもはや完全に満たされているからだ。
だから、完全に満たされる人生とは、夢も、希望も、感謝も、有り難みも、大切な何かも、重要性も、意味も、執着も、一切ない人生だ。
完全に満たされれば、ゲームは終わる。
それを、味気ないものだと思うなら、あなたはまだ願望実現ゲーム、人生ゲームの虜。
まあ、それもいいだろうけどね。勝利の美酒はこのゲームでしか味わえない。
大切な何かは、このゲームでしか見出せない。
しかし、完全に満たされる人生を素晴らしいものだと思う人は、完全に今に生きる人だ。
しかしそこには夢も、希望も、感謝も、有り難みも、大切な何かも、重要性も、意味も、執着も、一切ない。
全て、当たり前だからだ。
当たり前のことに満たされ、感謝しているってのは、要は自愛なの。
一度絶望の底に落ちた人は、ただ暮らすだけでも本当に日々に満たされ、感謝できるようになる場合がある。形だけではダメなんだ。
それは、幸せの条件を下げるアプローチで、私が以前、徹底的にやれといった、自愛そのものだ。
あなたはそれが、どん底まで落ちたからこそ、自然にできている。
それは、願望実現ゲームにいながらにして、うまくいく方法の一つなのだよ。
当たり前のことには満たされない。
それを変え、当たり前のことに満たされるようにする。自愛だ。
だから、叶っても叶わなくても、ずっと幸せでいられる。
ゲームをやる立場からのアプローチが、自愛であり、アファメーションであり、99.9%願望を叶える方法なんだよ。
あなた方のほとんどすべてがやりたいのは、百発百中の道、99.9%の成功の道。
それは以前話したが、自愛やアファメーション、ブレインダンプを徹底的にやればよろしい。
私が最近話してるのは、それを突き抜けた百発成功の道のお話だ。
これは「叶わない」がない。100%だ。
だから私は詭弁を名乗った。
これから私が言うことも、詭弁になるという意味合いも込めた。
私が前半に話したことだけをまとめ上げても、片手落ちなのだよ。
あれはいわば甘い餌のようなものだよ。
しかし、徹底的にやることでうまくはいくのだ。それは保証する。199さんが証拠だ。
あの人は、少なくとも書き込んでいた時は別にゲームをやめているわけではないからね。
なぜ、私の話が途中からあなた方にとって、受け入れにくいものになって行ったのか。
そんな、夢も希望も持たないなど、絶望に叩き落とすような、虚しい、無感動なことを言うのか。
そこに振り回される心が、今に何を見つめ、未来に何を見つめているのか、気づいて欲しい。
199さんが、実現しても幸せとは限らないと言っていた言葉の意味。よく考えて欲しい。
前も話したが、今を生きろではない。
それでは願望実現のため、今を生きるゲームだ。
あなた方がまず、全てを完結させる事に全力で抵抗していることを知るんだ。
クリアをさせたくないんだよあなた方は。死にたくないだろ。
あなた方にとって、満たされ尽くすことはなぜか死ぬことと同じなんだ。
でも、別に満たされ尽くしても死にはしない。
あと、満たされ尽くすというのは、特定の感情を出すことではない。
全てを今叶えつくすこと。理解することではない。
だから夢も希望もなくなるの。充足感も特にないの。強いて言うなら穏やかな感じ。
あなた方がその実現に抵抗している理由はただ一つ。
それで終わるからだ。ただ、それで終わってしまうからなんだよ。
つまり、それは刺激ではないんだ。
つまり、それはド派手な現象化ではないんだ。
何も起きていないんだ。
何の感慨もないんだ。
何の意味もないんだ。
道端に石ころがあるだろ?
そこに壁があるだろ?
そこに埃をかぶった本があるだろ?
それだ。
それがあなた方の既にあるものだ。
それがたまらなく許せないんだよ。
そんなちゃちなものじゃ嫌なんだよ。
そっちに属させたくはないんだよ。
あなたは、あなたの大事なものたちを。
何の意味も、夢も希望も、かけがえのなさも、達成感も、喜びも、その石ころや壁にはないんだよ。
そこにあるだけだ。でも間違いなく、あなたが作った。完璧にね。
そこにあるだけなのが嫌なのだ。
あなたがそれは重要である、意味があるという認識である限り、あなたの願望は、叶うとか、叶わないとかに関わらず、大層複雑に振舞ってくれるだろう。当たり前のことだ。
あなたがそれを大事に大事に扱い、それを得ようとすればするほど、それは、あなたのストーリーで、様々な手段であなたを翻弄してくれるだろう。
空気や石ころのように、常にあなたの傍らに寄り添うことにはならない。
あなた方が全て作った。
そこに序列をつければ、それはそのように振る舞うのは当たり前のことなんだよ。
大切と思うものは、大切に思えるように。
得難いと思うものは、得難いと思えるように。
どうでもいいものは、どうでもいいと思えるように。
好きなものは、好きなものと思えるように。
嫌いなものは、嫌いなものと思えるように。
女性が恋愛に悩みやすいのは、恋愛がものすごく大事なものだからだよ。
だから恋愛はあなた方を翻弄する。
恋愛の部分を人生に変えたり、お金に変えたり、平穏に変えたり、潜在意識に変えたり、幸せに変えてご覧。あなたが欲しいものにね。
なんでもその通りになってるから。
あと悟りに変えるのもいいね、もしかしたら、それだけで悟れるかもしれん
彼(=恋愛そのもの)に対して、夢も希望も、意味も重要性も求めなければいい。
心から石ころにするんだよ。
石ころに出来ないなら、叶う叶わないに関わらず、彼(=恋愛)は、あなたをいろんな意味で翻弄し続ける。
あなたにとっての、常ならぬ物として振る舞い続けるためにね。
それを恋愛というのなら、あなた方は結局、安定なんて求めていないんだよ。常に刺激を求めてる。
もう恋愛なんてしないと決めれば、あなたにとっての最良が当たり前になる。
当たり前だから、最良とは思えないだろうけど、間違いなく、それは最良だ。
結局、大事なものなんて何一つ作らないのが、心からの平穏を得るためには一番の近道なんだよ。
何でもかんでも今に満たされろではないんだよ。それだと無理やり満足してるだけ。
全てに満たされているなら、もはや満たされるという感情は本来はおかしい。
愛を感じるのも本来はおかしい。
つまりデフォルトが愛であり、既に満たされると気づくんだよ。
石ころに愛は感じないだろう。当たり前だからだよ。
当たり前だから愛は感じない。つまりデフォルトが愛。
あれ、そのままでいいんじゃん。何もしなくていいんじゃんとなるんだよ。
あなた方は満たされていて、幸せな状態というものを根本的に勘違いしている。
あなた方のいうそれは、ただの刺激で、必ずマイナスが必要。欠乏を伴うの。
しかも本来、本当の幸せや愛、充足感は感じるものではない。
感じるものなら、それはただの刺激なんだよ。
何度も言うようだが、そこら辺の石ころにいだく感情は、絶無だろ?
当たり前のものが当たり前にそこにある、それこそが完全に満たされていて幸せで、充足感に溢れた状態なんだよ。
これは精神論ではない。この世のものは全て自分が作るという前提に基づいたお話だ。
親の大切さは、24時間365日、永遠に優しくされたら分からないだろ?
それがどこかで一旦失われないと絶対に得られないんだよ。感情としてのプラスはね。
あなたがプラス(幸せ)を感じたいと思ったから、逆の概念であるマイナス(不幸)が必要だから、マイナス(不幸)が湧き出てきたんだよ。
あとは、ここすごい勘違いしやすいポイントなんだけど、全てを叶えるために、あなたの欲望を全て我慢して今に無理矢理満たされろとか言ってるんじゃない。
それじゃ修行僧だろ。それは、いわば自愛で、最初はそれでもいいし、それで叶いやすくはなるだろうけど、最終的にはそうじゃない。
私が言いたいのは、当たり前のものには満たされるとか満たされないとか、そういう感情をそもそもいだかないだろって言うこと。
呼吸するたびにそんなこと考えてたら、それこそ呼吸が不自然になって息苦しくなる。
つまり完璧であるものに対しては、当たり前のものに対しては、あなた方は何の意味も見出していないでしょ?
歩く時の、足の踏み込み方とか角度に意味や夢や希望を見いださないでしょ?
当たり前に息が出来ること、当たり前に物が食べられること、当たり前に歩けること。
そこに幸せはあるけど、幸せは感じないの。
そこに充足はあるけど、充足は感じないの。
そこに完璧はあるけど、完璧は感じないの。
そこに愛はあるけど、愛は感じないの。
つまりあなたが特に何にも感じない状態にこそ、幸せや充足があるんだよ。
だから既にある。
ただ、じゃあ何も感じるなっていうのか、ってなるかもだけど、それも違う。
例えば美味しいものを食べて感じる幸せは、その美味しいものが当たり前ではないからだけど、でも別にそれ自体は構わないじゃないか。そういう刺激が勝手に出てくるんだから、止める必要ない。
本当の幸せとは別に捉えれば、それに執着することはない。感じる幸せはただの刺激だよ。
残念ながら、あなたがもっと充足を感じたい、もっと幸せになりたい、もっと勝ちたい、貴方がそう思う限り、願望が確実に叶う方法などありません。叶ったり叶わなかったりです。
なぜなら、そうでなければ、充足感も幸せも勝利も感じられなくなってしまうからなのでした。
もっと感じたいからこそ、叶ったり叶わなかったりなのです。その二つは切り離せないのでした。
完全に満たされることを必死に拒んでいたのは、あなたです。
あなたが幸せを感じたいからこそ、世界はわざわざ不足を作って、叶ったり叶わなかったりにして、あなたが幸せを未来に感じられるようになっていたのです。
あなたは、完全に満たされることを、つまらないといいました。
ここなんです、あなた方が完全に誤解をしている部分は。
なぜか、完全に満たされることを、無感情な仙人のようになることだと、錯覚しているのです。
そんなわけあるか。
満たされることをやめたらどうなるのでしょうか?
目の前のことをただ味わうだけになります。それはつまらないことでしょうか?
そんなわけあるか。
目の前に幸せも感じます。
幸せになることをやめ、当たり前が幸せと気付いたので、当たり前です。
ただ、別にそれが目的ではありません。
当たり前こそ幸せであり、充足だと気づいたので、幸せな現象化もあるでしょう。
願望も叶うでしょう。当たり前です。
でもそんなもの、どうでもいいんです。
当たり前こそが充足の証だからです。
私は、あなた達が願望を叶えたいというから、願望を叶えさせようとしてあげてるだけ。
叶っても喜ぶなとか仙人になれとは一言も言ってない。
ただ、叶ってるんだから、それが当たり前なんだから、喜ぶことは本来はおかしいよね、って言ってるだけ。
その意味合いに気付くのは、あなた方。
思考がどうあろうが良いような、あなた方にとって常に最高に都合のいい魔法などは存在しない。
そんなのがあったら、人類みな総ハッピーなんだよ。欲望は必ず満たせるし、誰も飢えはしない。
それはあなた方が、そういう世界を作らなきゃ見れないんだよ。
そして、その作り方ってのは、あなた方からすりゃ、とても残酷だし、厳しいし、そんなこと無理ってなやり方なんだよ。
普通の恋愛をしたいなら、潜在意識で無理矢理変える必要ないんじゃないの?
潜在意識云々の話なら、まず、現実に対して振り回されるのはおかしいよね?
彼は私の恋人って決めればいいだけだよね?
私の話について、もう一回説明しとくよ。
私が最初の頃に話してたのは、百発百中のテクニックなんだ。これは、やり方いっぱいあるよ。
オポオポノとか、自愛とか、アファとか、それを徹底的にやるのも、気楽にやるのもあり。
私は徹底をすすめた。ただこちらは、99.9%のお話でね。
叶う確率を限りなく高めることはできるが、あくまでも方法論なんだ。
いわゆる引き寄せの法則、潜在意識の活用とか、チケット6章までがこちらにあたる。
私が最近話してるのは、百発成功のお話なんだ。
こっちは、至る認識はただ一つなんだよ。絶対的に正しい在り方がある。
私が頑ななのはそのせいだよ。いわゆる、既にあるとか、isaさんの完璧、弓術の奥義、禅、桑田さんの在り方なんだよ。
いってることは、それこそじゃがりこの話とか、完璧以外は叶ったり叶わなかったりとか、世界=自分とか、的に当たる前に当たっているとか、そういうのと全く同じ。
潜在意識の活用云々を越えた領域なんだよ。
百発成功について説明する。
百発成功というのはね、まず、自分(思考)が実現に対して、全ての抵抗をしているということを、自分(思考)で知り、で、そのあと、無我の位置を目指すことを言う
(この言い方はちょっと語弊があるが、実際そう)。
例えば呼吸。あなた方は普段どうやって呼吸をしているかわかるかな。
呼吸を意識した時だけ、自分であれこれやらないと呼吸が出来ないでしょ?
でもしばらくすれば、呼吸への意識が完全に抜ける。
呼吸への意識が完全に抜けてる時ってさ、その時自分が呼吸してたかどうかすら、記憶にないでしょ?
でも、記憶にないけど、ふと意識を向けたら、なんかよくわからないけど実現はしてるよね。
あ、私息してたわって。
それが百発成功、無我の極致。
だからまず、当たり前のように実現していること(歩く、寝る、口を動かす)に対して、そこに思考が介在する余地、叶える余地はあるのかどうかを考えてほしい。
あなた方は、実はこれを部分的に体現出来ている。
例えば子どもの頃、自転車に乗れるように頑張っただろう?
これは、最終的に無我の極致を目指したものなんだよ。
今は何も考えなくても当たり前のように乗れる(叶えられる)だろう。
潜在意識で百発百中を目指す人がやっているのは、自転車に乗る(何かを叶えようとする)たびに、ここではポジティブにして、自愛して、ここではアファメーションと完璧認定だとかやってるようなもの。
別にこれでも、テクニックを磨けば叶うだろうけど、いちいちそんなことする必要は本来はない。
弓術も、的の中心に矢が当たることに限定して、無我状態で全ての所作が取り行えるように目指すものなのだろう、本来の在り方は。
でも、ほとんどの弓術家は、打つたび(叶えるたび)に、ここでは力を抜いて、重心はここで、構えかたは、こうで……とかを意識してやる。
そんなことやってるから、いつまでも無我で打てるようにならないし、外れることもある。
それこそ、本来目指すべきところは気付いてたら当たってた、ってレベルなの。
そこにテクニックもクソも潜在意識の活用もないわけ。
呼吸をするのにテクニックもクソも潜在意識の活用も無いのと同じ。
あなた方は何も考えないで呼吸出来てるし、自転車にも何も考えないで乗れてる
だから、百発成功とは、願望や欲望に対して、無我の境地を全的に適用させることを言うわけだよ。
だから、知らんさんとかも散々ブログで言ってるけど、自我は何もしないのが答えなんですよ。
個人的には、何もしていないの方がしっくりくるが。
意図的に何もしないようにして、自転車を乗りこなすわけじゃないよ?
自分がどうやって自転車を無我状態で乗りこなせるようになったか、考えてごらん。
取り敢えず、色々考えつつも、流れ(世界)や手足(無我で動くもの)に身を任せる感じで、体を動かしたのではないかな?
で、最終的には思考が消え、無我状態で乗れるようになったはず。
私の例は印象だから、自分の感覚でいい。
その感じを、生活の中で全的に適用してみるといい。
これは感覚的なものだから、ちょっと具体的に説明しにくいが。
あなた方が幸せを感じようが、不幸せを感じようが、叶ってると思おうが、叶ってないと思おうが、最早そんなもんはもうどうでもいい。
感じるとか思うとか、そんなことは幻に対する勝手な解釈、それこそ幻を見て思うことや感じることである。
現実などというくだらないものに対する解釈に、幸せそのものが左右されてたまるものか。
そんなもん信じてたら、どうあがいても一生振り回されるだろう。
まずあなた方は基本的には実現への抵抗をしている。
全て既にあると、あなた方の認識とは常に相反する。
なぜなのか、、。
あなた方は認識をするため、自我で自分を固定せざるを得ないからだ。
そこは越えられない。
五感で見ている物しか体験できない以上、認識はそれそのものだけであり、それ以外を見れない。
あなた方が五感で何かを認識している時点で、認識しているもの以外をないものとして扱わなければならないからだ。
全てあるは、なにもない。
そこからあなた方が一部を切り取って、それ以外をないものとして扱うことで、実感としてのあるが浮き出てくる。それが、何かを認識するということだ。
つまりだが、あなた方が何かを認識しているということ、そしてその状態でないと感じるものは、実は同時にあるんだ。
むしろそれがなければ、あなた方は今目の前のものを認識できない。
あなた方の認識は、それ以外の可能性世界すべてを打ち消していることで成り立っている。
ルビンの壺でいうところの、壺を全て消し去っているからこそ、顔が見えているわけだ。
だから、それを認識している状態を改めて、別のものを認識したいのならば、まずは、その別のがいいという思考が、今の認識に絶対的に依拠することを知る。
今の認識があるから、別のがいいとか、変えたいとか、そういう思考が出てきているわけだ。
だが、今の認識は真実ではなく、真実を構成する要素の一つであり、それ以外の世界は認識の裏側に全て流れている。
そして、あなたの自由意志は全て、現在五感で認識しているものにより司られている。
ルビンの壺で言えば、全ての思考や感情や行動は顔を見ている時に出てくるものだ。
つまり、壺を見たいのならば、顔を見てる前提で出てくる思考や感情の範囲内では、特に何もする必要はないということ。ということは、逆に何を思ってても、何を感じててもいいということ。
それは壺を認識する世界と、なんの関係もないからだ。
壺が認識できないということは、間違いなくそれは裏側にある。
ただそれは、思考や感情では捉えようのないものだ。だがある。
全ては紛れもなく、自分のものだ。
見ているものは、それ以外を切り捨てて成り立つもの。
認識は常に移り変わるのだから、見ているものは常に真実ではない。
その裏側の、それ以外の全ての世界を含めて真実だ。
だから、それさえ分かってれば、いろいろ考えながらも普通に生活してれば、そのうちその認識になる。
何もしないのが不安なら、何かしてもいいし。
ただ、本質的には、何もしていないことを知りなさい。それは大切だ。
壺を認識する前提で出てくる思考や感情は、壺を認識するまでは出てくるはずがない。
あなた方のどんな思考も感情も、今は顔を認識してるから出てきている。
つまり、壺を認識する前提では全てが間違いだ。
全てが間違いなのだから、結局、なにやってても良いのだ。
なんか現実を変えたい人がすごい多いんだが、そんなの無理だよ。
現実ってのわさ、もう一秒たったらすぐ過去になっちゃうんだよ。
それこそ、認識は一つに収束せざるを得ないから、認識した時点でそれはもう、一旦記憶にしまわれる形で、不可変になるんだよ。
それを変えたいって言ったって、そりゃ君たち、記憶を消したいとか言ってるようなもんなんだから、できるわけないじゃない。
何度も言うように、光は粒でもあり波でもあるの。
ただ、認識は一つに収束せざるを得ないから、ある時点での認識はどちらかにならざるを得ない。
光=波が真実で不可変だと嘆くのではなくて、両方が真実で、互いに切り離せないの。
全ては本当に同時にあるの。
どうしても叶える立場から頑張りたいなら、必ず得られるという確信を、たとえ目の前で何が起きたとしてもブレないようにすればいいだけだよ。
それは前に何度も言い続けてきた。
そのために自愛やらブレインダンプやらアファメーションをすすめていた。
あなた方が変わるしかない、もうそれしかないんだから徹底的にやればいい。
ゆるく変われないなら、無理矢理変われだな。
ものごとに執着がないというのは、認識してきた記憶の中の世界を、真実として強く維持しないということだ。
結局、認識してきた記憶をたった一つの過去・真実だとして捉えれば、永遠にそこに振り回される。しかも、それを維持する記憶は、その記憶からは逃げられない。
潜在意識に対する理解だって、記憶があるから、理解だの理解してないだのが生まれる。
そこで記憶が、今におけるただ一つの真実ではないと気付けば、理解してるとか、してないとかなくなるわけで、その時点で不足などないわけだから、既に完全に満たされている。
何が叶ってるとか、叶ってないとか、そんなものがなくなる。
今ここにおける真実、不明、となる。
そうすれば、今ここに、記憶の中にしまわれている世界以外の可能性世界の全てが流れ込んでくる。
それこそ、記憶で考えうるものを遥かに越えた、怒涛の充足ともいえる。
ただそれも、叶えるためにやると、結局記憶の中にしまわれている世界を、たった一つの過去・真実だと認識しているところからどうしても抜け出せない。
じゃあどうすりゃええのんとなるのだが、そもそも、前も話したが、貴方の思考や行動、感情全ては結局どう足掻いても、記憶の中にしまわれている世界を、たった一つの過去・真実だと認識しているところからは抜け出せない。
顔を認識しているという前提で飛び出てくる思考であり、感情であり、行動だからだ。
記憶に応じた半自動的反応が思考であり、感情であり、行動だからだ。
だから、思考や感情、行動はどうあがいてもそこからは逃げられない。
それはまず認めること。
つまりその範囲内において、裏側の真実を明らかにする為に何もしなくていい。
思考や感情、行動はもう出るに任せればいい。
裏側の真実を見ようとすること自体、今が表側の真実という前提に基づくものだからだ。
記憶からは抜け出さなくていいのだ。絶対に記憶からは抜け出せない。
抜け出そうとすること自体、記憶をより真実として維持し続けることになる。
記憶が真実では無いのだから、何もしなくていいのは当たり前の話だ。
ただそれだけだ。
と同時に、記憶は消せないのだから、記憶に応じた自動的反応としての思考や感情、行動も消せない。
だから消さなくてもいい。何もしなくていい。
夢を考えて欲しい。夢の中の全ては、あなたが作っており、その中の感情や思考、行動は、あなたが作り出したものに対するただの反応だろ?
あなたは夢の中の一部の反応という存在ではないだろ?
夢という主体性・全体性・存在そのものだろ。
少し言葉を変えて、もう一度いう。
現実を考えて欲しい。現実の中の全ては、あなたが作っており、その中の感情や思考、行動は、あなたが作り出したものに対するただの反応だろ?
あなたは現実の中の一部の反応という存在ではないだろ?
現実という主体性・全体性・存在そのものだろ。
要は全的な手放しができればそれでいいのだが、ただそれだけを言うと、手放しすれば叶うぜみたいなことになる。それは手放しでもなんでもない。
狙うことをやめて適当に打ってりゃ当たるぜと何も変わらない。
結局、ただの反応である思考や感情、行動を自分とみて、反応の立場から本来の自分である世界そのものにアプローチしてるのだから、それは夢の中で必死に成功しようと頑張ろうとしてるだけ。
夢を自分が作ってるのに、夢をいつまでも覚まさせないまま、それを固定して、その中で叶えようとしてれば、世話ないだろ?
現実も夢も同じだよ。
夢の中でだって、もし夢を見てる時に猫が出たとしても、目の前にいる猫を一から自分が作ったなんて思えないでしょ?
それは思考や感情がただの反応にしかすぎないからなんだよ。
別に理解できない話ではないと思うけど、あなたの中でそれだけ現実が確固たるものとして君臨しているってことだよ。
ただそれも、反応にしか過ぎないから、結局は何一つ改善する必要などないんだよ。
全てが反応だとしたら、あなた方は常にゼロだ。
もう、夢も希望も見なくていいじゃないか。
あなた方を苦しめているのはなんだ?
夢や希望、願望、思考だろ。
そんなものはもう持たなくていいじゃん。
全て諦めなよ。
もう叶えるために何かやらなくていいじゃん。
思考を正しく調整する必要もないじゃん。もうそれでいいじゃん。
誰がポジティブになれとあなた方に強制した?
マイナス思考の何が悪い?
現実に対して常に分析的な立ち位置にいるだけだ。
なぜ、なにかを変えなければならない?
なぜ、なにかを改善しなければならない?
なぜ、なにかを理解しなければならない?
全て勝手に流していけばいいじゃん。
あなた達を苦しめるものなんて、潔く捨てていきなよ。
あなた達を苦しめるのは常に現実だよ。
たまに飴を差し出して、喜ばせてくれるから感覚が麻痺するけど、そうやって、あなた方を奴隷にさせるんだよ。
なんであなた方がそんなに頑張らなきゃならない?
馬鹿馬鹿しいだろ。全て諦めなよ。
これ以上自分に鞭打って、何かに成り代わろうとするのをやめなよ。
ゲームが勝とうが負けようが、もうそんなもんはもうどうでもいいじゃん。
未来には夢も、希望も、奇跡も、いらないんだよ。
そんなものがあるから、物語が生まれる。
それを受け入れるのは、ものすごい抵抗があるだろうが、これは、先人達が本当に伝えたかったことだよ。
オブラートに包みまくってたけどね。
ちょっと言葉にすると苦しいが、諦めたがったり、手放したがるのは勝手に出てくる反応
手放せば救われんの?諦めれば満たされんの?ってのと同じ。
反応は、反応にとって、都合のいいことをいつまでも期待する。
手放したり、諦めることすら叶えるための方法に組み込んでしまう。誠に狡猾。
なぜ、あなた方が自分だと思っている反応は、私の書き込みに対して、こうすればいいのか的な、方法論的な観点でしか捉えられないのか、、それは反応が、過去から続く時間軸を維持しているからだ。
つまり叶ってないがまずありきだからだよ。
こうしたいとかああしたいとかいうのも、全てそれありきなんだよ。
つまり、あらゆる反応は叶ってないという真実を維持するがために、あらゆる手を使う。
反応の言うことを聞いてりゃ、作られる世界もそれありきになるのは当然。
過去が絶対なのではなくて、あなた方が過去を不動のものにしているだけ。
あなたの記憶や認識と、世界との在り方に、整合性などいらない。
あなたの記憶など、全て幻だよ。事実ではない。
今は、そこから続くストーリーではない。
今というゼロ地点には、叶えるための方法などないし、救われるわけもないし満たされるわけもない。
その土台となる、叶ってない世界や、救われていない何かや、満たされていない何かなど、はなから存在していないのだから。
まず、現実に現象化させるために、叶えるためにやるのが、百発百中なわけ。
あらゆるメソッドの表面的なところを掬い取るやり方。夢も希望も、あるの。
対して、百発成功は叶える方法ではないし、現象化させる方法なんかじゃない。
あらゆるメソッドの本質を捉える在り方。夢も希望も、無いの。
そもそも、現象化と叶えることを、なぜか分けて使うことが多いけど、全く同じだから。
現象化を期待する以上、それはどこまでいっても百発百中の領域。
現象化を期待していないだなんて、頭おかしいのか?と思うだろうが、全くその通りなわけです。
ただ、そうまでしないと現象化しないのか、というのは観点がまだ浅い。
現象化を軸として振り回されている状態。
もう現実の現象化を諦めて(手放して)、あなたの内側にのみ真実を見出すのが百発成功。
現実への現象化が目的ではないから、方法ではない。
現象化自体はどうでもよく、その先、永遠に現象化がなくても、あなたの内側に理想の真実が常にあるから、それとともに満たされて生きること。
ちなみに百発百中(自愛なども、突き詰めれば百発成功にはなり得る。
だから、叶えるためにやるなら徹底的にやることが肝要というわけ。
諦めて受け入れて今の状況に満足しろとかじゃなくて、すぐ全ての願望を叶えればいいじゃん、ってことなんだよ。
願望が叶った時点で今までのストーリーは崩壊するし、現象化とか問題でなくなるじゃん。
もう叶ってるんだから。
現象化を気にしてしまうことが最大の壁なわけだから、そんなもんを達成の基準として考えるなよってこと。
だから、現象化は永遠に諦めて(手放して)と言ってる。
現象化を待つことと、叶えようとすることは、全く同じという意味。
言葉遊びみたいになって申し訳ないが、今すぐ叶えるというのは、現象化は全く関わりもなく、また、叶った後も現象化は全く関わりがない。
だから別に願望の実現自体を諦めて、現状に満足しろという意味ではない。諦めるのは現象化の方。
願望の実現自体は、一瞬で全て叶う。というか、全て叶っている。
要は、現象化を諦めて、願望は一瞬で全て叶えればいいの。
現象化さえ手放せば、選択はまさに自由自在だろ?
とにかく、現象化は諦めるんだ。形だけじゃなくて、心からだ。
そして、フラットに実現をさせるんだよ。
もはや実現の定義が曖昧になるだろうが、それでいいんだ。
さて、現象化を諦めるのはなぜか?
諦めたら世界は変わるのか?
と、疑問に思うだろう。
が、その先には、自我への都合のいい回答への期待が見え隠れしている。
未来への期待にまみれて、以前と何ら変わらない。
これでは、何も諦めて(手放して)などおらず、依然として願望をガッツリ握りしめたまま、コントロールを永遠に手放そうとしない。
なるほど、納得だ、よし、こうしよう!
あなた方の中にはこれを何度も何度も繰り返した人もいるだろう。
そしてしばらくしたらしっくりこなくなり、また、観念を満たす教えを求め、さ迷い歩く。
これをいい加減にやめないといけない。
そんなものはもうどうなろうが構わないんだ。
自分の中で叶えたから、外側でも叶うだろう…こんな態度では、自分の中で叶えてなどいない。
自分の中で叶えたら、外側など知らねーなんだよ。本当に、心からだ。
ただ、そこまでくると、もはや、自分の中で叶える必要すらなくなっているが。
引き寄せに限らず、読み手に未来への希望を与える著書は、基本的には、私は良い本だとは思わない。
こうすれば叶うよみたいな書き方は、義務や条件を生むし、読み手を現象化に齧りつかせる。
それこそ、著者のどれいになる。まぁ、それが目的で、わざとそういうふうに書いてる人もいるのかもね。
肝心な事を寸前まで言いつつも、いつまでも実現を諦めさせようとしないで、著作を重ねるようなものは、少し疑った方がいいかもね。
まあそんなことしたらセミナーひらけないんだけどね
もちろん、引き寄せとかでうまくいく人もいる。そこは否定しないがね。
赤とは、赤である、というあなた方の強烈な思い込みが、本来の主体性を曇らせていたんだよ。
あなた方が主体性そのものである時、それは無であり全だ。
創造の最先端に立つ時、目の前には何もない。
何もないが、あらゆる可能性に満ちている。全て叶っているともいえよう。
それは、既に作られたものからはじまるストーリーではない。
今までの世界から始まるわけでもないのに、何が起きるかなど、分かるはずもないだろう?
そこから、自分の中で真実を決めるのもいいが、現象化は関係ない。
何が叶っていて、何が叶っていないか、そんなものも意味をなさない。
わからないんだよ。ゼロからのスタートにそんなものはない。
まさに未知。
その無限に、全てを委ねることこそ、現象化を諦める(手放す)ことであり、主体的に生きるということであり、現実のリアクション装置をやめるということであり、今に生きるということであり、神様にお任せするということであり、コントロールを手放すということだ。
あと、本当はこんなこと言いたくないけど、現象化はしないなんて一言も言っていないよ。
いや、むしろ、絶対にする。
…これ以上は敢えて書かないし、その根拠や理論、メカニズムについては、今の私のスタンスでこれ以上話すことはない。それは適当な言葉で煙に巻くとかではなく、単純に、読んでいる方に希望を持たせたくはないから。
ひねくれていってるわけではないよ。こうすればいいのかって話ではないから。
私は理論から入って非常に遠回りした経験があるので、理論を把握したいという方には、掴み所のない話かもしれないが、申し訳無いが、これ以上は答えられない。
疑問を持つ人は、潜在意識がどういうものかは分かっているだろうから、その知識に擦り合わせて、私の話から何かを掴みとって頂ければと思い、話している。
さてみんな、何かを必死に叶えたいと思っているみたいだけど、その根底にある自分の思いとは何なのだろうね。
どうしてそこまで内面や観念が及ぼすメカニズムについて、理詰めに考えてしまうのだろうか。
既にあるを理解しなければならないのだろうか。
認識を変更しなければならないのだろうか。
なぜ常に快でなければならないのだろうか。
あなた方が何らかを達成するため、義務感により突き動かされているのならば、あなた方の根底にある思いはないから叶えたいであり、不足と恐れだ。
それは見事に世界に顕現している。
あなた方がその立ち位置にいる限り、願望と実現の狭間、認識や理解の狭間で、あるとないを繰り返し、留まることはない。
それを真に理解すれば、潜在意識を活用して願望を叶えるという発想自体が極めて馬鹿らしいことに気づく。
潜在意識を活用して願望を叶えるということは、潜在意識を活用しなければならないほど切羽詰まっているという貴方方自身の気持ちが根底にあるからだ。
確かに、叶うと確信できれば叶うかもしれないが、それは万策尽きたという認識ですがるべき叶えるために残された魔法ではない。
あなた方が魔法にすがらなければならないほどの認識であるならば、現実はそのように振る舞う。魔法にすがらざるをえない状況を作り出す
じゃあ、どうすればいいのか?
どうしようもないんだよ。自我は無いから叶えたいという思いは、手放せない。
自我目線で既にあるとか言っても、そんなの全部蓋なんだ。
ないからそんなことやってんでしょ?
ないから蓋とそうでないものの区別をはっきりさせたいんでしょ?
本当に既にあるものに対して、あなた方はいちいちそれらは既にあるとなんか思ってないだろ?
それは要するに手放し状態なわけだよ。
手放すことを諦めれば、それが手放しになる。あとは普通に暮らせばいいよ。
例えばね、基本的にモテる人ってのは、それが当たり前だと思っているとか、あとそもそも恋愛に対して重要性をいだいてないとか、そういう人でしょう。
どちらも、モテるということに対しての認識は石ころみたいなもんだよね。
当たり前か、どうでもいいか、どちらかなわけ。
どちらにしても現象面には手放し状態だよね。普通に暮らしてるだけ。
だからその、恋愛を石ころにするにはどうすればいいかというとね、前の話にも関連するけど、石ころにするのを諦めればいいの。
例えば、モテたいなら、モテないということを100%受け入れて、モテることを諦めてしまうことなんだよ。
諦めたから、どうなっても構わないというスタンス。手放しだよね。あとは普通に暮らせばいいよ。
現実的な話をすれば、どうなっても構わないというスタンスなら、異性に対する媚びもなくなるし、自然に振る舞えるようになる。
同性のように自然に話せるだろうし、一緒に遊びたかったら自然と誘えるようにもなる。
そういうスタンスで普通にいれば、そりゃ、モテるようにはなるでしょう。あくまでも例えばなしだけどね。
あのね、諦めるってのは、作為的に何もしないようにするとかではないよ。
そういうふうに捉えて、敢えて何もしなかったらニートになるしホームレスになるのは当たり前。
すべきことじゃないんだから。
的に矢を当てるのを作為的に諦めても、矢が当たるわけないでしょ?
散々それは言ってるよね。
諦めたから、手放したからなにもしませーん、じゃないの。
諦めるってのはそれだけで完結するもの。
諦めたから自由ではあるが、支払い期限がきたら大人しく支払うし、仕事もお金がなければするんだよ。
諦めるというのは、何かを敢えてしないようにするのではなくて、普通に暮らすってことなんだよ。
作為的に諦めて、作為的に全ての取り組みをやめたり、手を出さないようにするのではないの。
それは、諦めることに対する誤解。それは、突き詰めれば自殺になるでしょ。
そうじゃなくて、諦めたうえで、それでも事に臨むんだよ。
勝負事に対して、勝ち負けを気にせず事に当たるようなものだ。
なんで諦めるだけなのに、何もしないようにしたり、支払いをやめたり仕事を辞めたり、相手に連絡を取らないようにする、相手を殺すみたいな発想になるの?(たとえだよ)
そりゃただの、自暴自棄だよ。
基本的に私達は常に、今ここにない何かを得ようと動いている。
だから、今を知覚してる自我のいうことなんてのは、未知の全てある領域からしてみれば、どう転んでも正しくなんかないわけ。
どう転んでも正しくないなら、諦めて(手放して)普通に暮らすしかない。
まさか死ぬ訳にはいかないんだから。その中でやりたいことがあればやる。それだけ。
それで、落ち着かないなら叶った自分でいるだけ。
あとは知らない。わからないんだよ。全く。何がどうなるかなんてわからない。未知だからね。
潜在意識を活用し、願望を自在に実現する状態を目指すということは、つきつめていけば、現象面に、好ましい刺激、夢や希望、大切さ、意味、重要性を感じられなくなるということだよ。
それが良いか悪いかとかではなく、そうならざるを得ないんだよ。
だから、段階的に実践をしていく中で、段階的に潜在意識の活用が上手くなってしまうのは、実はとても不幸なことだ。
なぜならそれは、求めるという自我の構造の中で、それに依存し、維持し、張り付いたまま、求められることは必ず得られる領域を目指すことだからだ。
求める立場で求められることが必ず得られる立場になってしまったら、この世は最高につまらないものになる。
たとえるなら、チートを使って、レベル99、ステータスMAX状態でRPGをやるようなものだ。
ゲームをやることによる幸福感や楽しさという刺激は依然として求め続けたままなのに、そんな状態になってしまったら、絶望しかないだろう?
最初は楽しいかもしれないが、とたんにクソゲーになる。
ゲームをやることで幸せや楽しさが得られる立場にいる限り、チートを使って願望を実現するのが当たり前になってしまったら、結局はクソゲーになるんだよ。
だからね、潜在意識の活用なんてのはチートを使うことなんだから、まずは実現の喜びがなくなってしまうことを覚悟しなければならなかったんだ。
ゲームをやる幸福感がなくなってしまうことを覚悟しなければならなかったんだ。
求めるという自我の立場にいる限り、全てが実現するようになってもクソゲー、実現しない状態でもクソゲー、という八方塞がりみたいな状態になる。
今ないものを求めるという自我の構造に気づかないと、たとえ全てが実現したとしても、いや、全てが実現してしまう状態だからこそ、自我は絶望する。今ないものが求められなくなってしまうから。
実現能力だけがどんどん飛躍を遂げてしまうと、それはそれで、悩みも出てくるんだ。掲示板で、達人と呼ばれる人の中にも、そういう人は少なからずいると思う。
ちょっとニュアンスは違うけど、宝くじが急に当たった人みたいなもんだ。
全てが容易に満たせるようになって、急に虚しくなるんだ。
これが特定の願望についてだけの虚しさであれば、他の願望に目を向ければいいだけの話だが、全的に全てが満たせるようになってしまったら、全てが虚しくなってしまう。
よく言うじゃないか、貧乏人に宝くじが当たったら不幸になるとか。
今ないものを求めるということがいかに馬鹿馬鹿しいことか気づけば、それでゲームは終わるだろう。
願望が叶うとか叶わないとか、幸せとか不幸とか、そういうものを超越することだよ。
ぶっちゃけ、ただの精神論でいいんだ。そこに願望を叶えるためとか、そういう意味や理屈はいらない。
今あるもので満足する内面を目指すこと自体が、今ないもの(内面)を求める試みに他ならないよね。
例えその状態で今あるものに一時的に満足しても、今度はそれすら失われる恐怖に苛まれるだけだよ。
頭は、今ないものを求めるという営みからは絶対に逃れられない。
その営みこそ、幸福実現ゲームだ。
腹が減れば飯を食い、腹が満たされればこれ以上満たされることを拒む。
眠くなれば眠り、眠くなくなれば起きる。
興奮すれば相手を探して、興奮を収めるために行為に励む。
暇になれば暇を潰し、忙しくなれば暇を求める。
そういうのが、自分の思い通りにいかないとストレスに感じ、ある時は祈りある時は自愛し、ある時は既にあると念仏のように唱える、必死に努力する。
全てが全て、自分の思い通りにいけば、それはそれで退屈になり、虚しくなり、本当の幸せとは何かとか哲学的なことを考え始める。
満たされなくても満たされてもクソゲー。一見それは、八方塞がりのように考えられる。
ただそれは全て、頭の中で世界を勝手に解釈しまくった結果なんだよ。
ただの行為・風景を頭の中で解釈するから、不足そしてそれに伴う充足が現れるんだ。
叶える、そして今ないものを求めるという概念は、頭の中にしか存在しえない。
が、逆に頭の中にはそれしか存在しえない。
腹が減り、飯を食うという一連の所作に不足と充足という循環性を見出し、金銭の有無に勝ち負けを見出し、人生に幸不幸を見出し、終わりのない幸福実現ゲームを創り上げているのは、頭の中だけだ。
ゲーム自体は本来どこにも存在していない。
幸せ自体は本来どこにも存在していない。
勝ち自体は本来どこにも存在していない。
幸福実現ゲームを終わらせずに何でもかんでも叶うようにしむけるのは、幸福実現の手段を次々と潰していくだけであり、どんどん幸福実現のハードルが上がるだけだ。
一時的に満たされることを繰り返し、ハードルだけが上がり続けて、しまいには幸福が得られなくなり、絶望するだろう。
幸福実現ゲームは、ずっと勝ち続けても最終的には負けざるを得ないんだよ。
叶えたい願望が全て叶ってしまい(=勝利条件がなくなる)、幸福になれなくなるからだ。
大切なのはまず幸福実現ゲームを終わらせることであり、先に願望を叶え尽くすことなどではない。
ゲームを終わらせるゲームをすることでもない。
大いなる解放や悟り、アセンションを求めるゲームでもない。
終わらせるということを頭で考えたら終わらない。
頭では今ないものを求めるそのゲームからは逃れられない。
だから、終わらせなくていい、何もしなくていいんだよ。
大切なのは幸福実現ゲームを終わらせることだが、その先にあるゲームからの解放、すなわち幸福実現を見つめていては終わらない。
幸福が幻だと気付けば、ゲームを終わらせる意味すらなくなる。
細かく補足すると、百発成功において、全てはしてもしなくてもいい。
達成のためのメソッドではないから、手放せ、普通に生きろ、満たされて生きろ、無条件に幸せであれ内側に真実を見出せ…とかではない。
だから、満たされて生きることは決して強要されていない。
が、結果的には満たされて生きることにはなるだろう。
こんな言い方は希望を与えかねないが、百発成功とはあらゆる呪縛からの解放であり、幸福実現ゲームのプレイヤーから、単なる表現者(アーティスト)に変わること、と言えるかもしれない。
ゲームをやめ、アーティストとして生きるのが百発成功。
ゲームをやめず、プレイヤーとしてゲームをクリアするために実現能力を高めるのが百発百中。
アーティストには何の義務も束縛も制限もないが、プレイヤーにはゲーム上の義務や束縛、制限、目的があり、その盤上でゲームをクリアするためのテクニックが存在する。
そのテクニックが、潜在意識の活用なり、アファメーションなり、自愛なり…などなんだ。
実はプレイヤーとして振る舞うのも、アーティストとしての一つの表現ではある。変な話だが。
だからまず、あなた方は実はずっとアーティストとして存在し続けている、という大前提がある。
誰もここから外れている人はいない。
なんというか、言葉でうまく伝えられないんだけど、あなた方は既にアーティストではあるんだ。
その上で、プレイヤーとして振舞うのか、アーティストとしての自分に気づくのか、そこがちょっとした違いとは言える。
願望を実現しようとするのがプレイヤー
願望を実現しようとするプレイヤーの表現をするのがアーティストだ。
なんというか、アーティストは空間そのものの全ての表現者なんだよね。
決してそれになることはできない。既にそれだから。
自由意志の話か。
まず私達は無から有を生み出してはいない。
世界は全て自分とか、無から有を生み出している感覚があるにしろ無いにしろ、それは、与えられた世界に対するただの反応だ。
私達が持っている自由意志は、右か左かの選択肢を作るものではなく、既に与えられた右と左の選択肢からどちらかを選ぶものだ。
だから、自由選択の意志はある。
その中で世界を一定レベルで制御することは、鍛錬すれば可能なんだ。
それは、分かりやすくいえば引き寄せの法則とか、潜在意識の活用とか、要は最初の頃に話した百発百中の理屈だよ。
しかしそれは、既に定められた世界の中での選択に過ぎず、私たちは決してその領域を超えることはできない。
どれだけ実現能力が高くなっても、私達に出来るのは自由選択の意志、すなわち既に与えられた世界の中で、それを一定レベルで制御することだけだ。
世界そのものをはじめから作り出すことは不可能だということだよ。
自由意志がないとはそういうこと。
一切無、何の材料も知識もなしに世界は作れないだろう。
何も知らない赤ちゃんが世界を作れるか?
…しかしね、それを作り上げた何者かがいる。
私達が何も知らなかった赤ちゃんの時にも、世界は作られていた。
そこに委ねることが、表現者として生きるようなものだ。
潜在意識の活用は百発百中の理屈で、潜在意識そのものに委ねることは百発成功の理屈だ。
私は前に、ゲームをやめ、アーティストとして生きるのが百発成功。
ゲームをやめず、プレイヤーとしてゲームをクリアするために実現能力を高めるのが百発百中と言ったよね。
なぜかプレイヤーの立ち位置で必死に頑張ろうとする人がものすごく多いわけだ。
この際はっきり言っておくが、それはできる人とできない人がいて、できない人の方が圧倒的に多い。
潜在意識の活用なんてのは、勉強をせずに勉強ができるようになることを目指すようなもの。
そんなことやるくらいなら普通に勉強した方が早いと思わないか?
潜在意識に手を出す人は、全員がそうとは言わないが、普通に勉強することでうまくいく望みが絶たれたという意識のもとで、最後の希望としてそれにすがっている訳でしょう?
そんな意識の下で、勉強せずに勉強ができる意識状態を、あなた方は目指せるのか?
そんな人はごく僅かだよ。
成功体験談なんてのは、その下に成功しなかった人の無数の体験談があるんだよ。
成功した側からの、あなた方もやれば必ずできるだなんて言い分は、口当たりのよ過ぎる詭弁なんだよ。
だからその、確信があっても叶わなかったとかわさ、原因が何かは知らんけど、結局は活用がうまくできてないわけだよ。それが不安で苦しいなら、願望実現なんて不毛なことから手を引けばいいんじゃないの?
それがアーティストの道だよ。
願望が必ず叶うようになっても別の悩みが生じることはわかるだろ?
だがそれでも潜在意識の活用をして願望を叶えたいなら徹底的にやれって話なの。
たとえ相手が音信不通だろうが既婚だろうが妄想の中の人物だろうが二次元世界の住人だろうが、諦めるな。
諦めることは手段じゃない。
ゲームをやめること、アーティストとして生きることだ。
諦めたら叶う、幸せになる、安息を得るだなんて考えは見当違いだ。
全てを表現として受け入れることであり、何かを得るための手段じゃない。
もし、叶えたいなら叶うまで諦めるなということだよ。
確信があったのに云々とか、どうでもいいし、他人の体験談を言い訳や励ましにしない。
そんなものに振り回されず、自分で自分の道を選ばなきゃ駄目だよ。
人は皆、大前提としてアーティストとして生きていると言ったはずだよ。
それは言い換えれば、誰でも百発成功として生きられているということである。
生きたい・食べたい・眠りたい・矢を的に必ず当てたい
様々な何何したいが時と状況に合わせ、浮かんでは消え、抵抗の少ないものから辻褄合わせとして現実に叶っていくという、ただ、それだけのことだよ。
「何何したい」も抵抗だよ。
でも無理とか二律背反の部分が抵抗になってるんじゃなくて、全て抵抗だよ。
強弱はあれど、あらゆることが抵抗。
だから頭に何かが浮かんで、それをどうこうしたい(見てる世界を変えたい)なら、そこで止めて置くのが一番抵抗が少ない状態ではあるんだよ。
そこから色々考えたりし出すと抵抗がガンガン強くなる。
本来叶えるためにやってもいいのは、それをやることで確実に抵抗が弱まると感じられることだけだ。
例えば「何何したい」で止めて置くのが一番いいと聞いたから、そこで止めてるけど不安で不安でしょうがない、とかいうのは全くダメ。
あくまでもそれは、そこで止めた場合に抵抗が全くない場合に限る。
抵抗が余計強くなるなら逆効果。
だからメソッドに万人の共通性なんかないの。
ただ、どんなことをやっていようが、何かを実現のためにする時点で、それはあくまでも実現への抵抗なんだよ。実現を引き寄せてるんじゃない。
それをするときの抵抗の度合いが少ないか多いかなんだ。
抵抗がある時点で叶ってはいないの。取り組む時点で叶ってはいない。
叶えるためにやること、即ちプレイヤーのやることは、実現への自身の抵抗を弱めること。
そこが限界なの。
抵抗が弱まれば、それについてあれこれ考えることが少なくなるから、叶いやすくはなるよ。
でもそこが限界。百発百中の限界。
本当に物事が実現する瞬間って、それまでなにをやってきたとか関係なく、あくまで待ちなんだよね。
世界にその状況が現れるのを待つだけ。つまりね、抵抗はゼロなんだよ。
いや、あれこれやってましたという人も、実現がするまさにその瞬間、自分は何もしていないの。世界が与えてくれるだけなの。
私たちが自我の範疇でどんなにうまくやっても、実現への抵抗を弱めてるだけ。
そこから本当に実現してくれているのは世界そのものであり、言うなれば潜在意識そのもの。
それを知るんだよ。
結局、自分がすることが強かろうが弱かろうが抵抗にしかならないことを知るからこそ、自由なの。
前も言ったように、私たちが何の知識も材料も持たない赤ちゃんの時に、既に世界を作り出していた何物かに任せるんだよ。
寝ている時に見る、夢を作り出している存在に任せると言っても良いかな。
それが、全的に無我で生きるということだし、アーティストとして生きることだ。
つまらなくならないように嫉妬やら問題やら何やらが起きるなら、それに感謝するのではなく、いっそ、つまらなくていいんじゃないのかい?
はっきり言って、この世なんて、全くもってつまらなくていいんだ。
つまらなくていいのはなぜかというと、この世は無常だからだ。
別にそれを受け入れても、この世は常に変化し、とどまりはしないから、心配しなくてもいいんだよ。
刺激を求めているのは、それが幸せだと錯覚してしまった状態であるだけだ。
つまらないと感じるそこに、実は本当の幸せは転がってる
あなた方に見てもらえるのを、ずっと待ってる。
五感で捉えるもの、それを思い切り感じること。
見えること、聞こえること、におい、味、感覚。
今という瞬間から離れずに生きるように心がけるんだ。
願望実現のサイクルというのは、麻薬のサイクルと同じ。
それにハマればハマるほど、どんどん今から意識が離れ、今への感覚が鈍くなっていく。
未来の快感や過去の快感のことばかり考えて、今が満たされないんだよ。
叶っても更なる欲求ばかりが肥えていき、叶わなくても渇望ばかりが肥えていく。
それに病みつきになるということは、それが幸せなのだと完全に誤解してしまっているためだ。
麻薬を吸って一時的な恍惚感に満たされても、すぐにその恍惚感は失われる。
そして快楽を追い求める、無限のループを続けたいなら続けてもいい。
もしそれが嫌だと思ったら、麻薬を辞める努力をすればいい。
つまらなくていいというのはね、例えば、最先端のゲームで遊べないとつまらないと言い張るのなら、つまらなくていいということだよ。
目の前にある、めんこやゴムまり、ダルマ落としを楽しむ努力が出来ないのなら、つまらなくてもいい。
そりゃ、PS4の方が新鮮で刺激には満ちているだろう。
が、まずはつまらなくても、目の前のものを遊ぼうよ。
今は目の前のものしかないんだから。
基本的には、目の前に与えられてるものをとにかく味わうことだよ。
PS4が今目の前にあればそれを思い切り味わえばいいけど、まだないじゃん。
今の不満を過去や未来で満たそうとしなくていい。
そんなことするくらいなら、目の前のもので満たす努力をするか、今の不満を受け入れた方がずっといいの。
飽きたら別のものを探す営みを繰り返すと、飽きるスピードがどんどん早くなってくるし、舌も肥えて大抵のことでは満足しなくなる。今にある時間がどんどん減るんだよ。
そして、今ないものばかりを見てるから、願望だってどんどん叶わないようになってくの。
だから、願望も幸せも置いておいて、目の前のものを真摯に見つめ、ただ楽しむようにしてみればいい。
つまらないと思っても未来や過去に逃げずに、もっと深く深く味わうんだ。
願望実現のループについて話す。
まず、今がつまらない・充足していないと錯覚すると、未来や過去に新たな刺激を求めて願望を作り出す。
そして、その刺激を求め、今に鞭を打ちながら苦痛を糧に必死に実現させ、一時の恍惚感を得るが、しばらくすればそれに慣れ、今がつまらない・充足していないと錯覚する。
そして新たな刺激を探す。これが繰り返される。
この営みにおいて、常に願望は自ずから創り出される。
プレイヤーにとっては、願望を実現させることが、唯一充足を得る方法だからだ。
プレイヤーにとって、願望の全ての消滅は、自分を満たしてくれる麻薬、すなわち刺激の消滅であり、自分を満たしてくれるゲームの消滅。
だからこそ、その人にとっての願望が、それさえ叶ってくれれば構わないものであればあるほど、それは強く願望であり続ける。
潜在意識を使ってまで何が何でもその願望を叶えたいのならば、それは強く願望であり続ける。
これが自作自演のゲームの全貌。
願望が叶わないと満たされない、願望が叶ったら幸せになれる、という認識下では、どう足掻いても永遠にそれが繰り返される。
願望があなた方を満たすもので、あなた方が満たされたいから、願望が繰り返される。
だから、叶ったとしても永遠に満たされることはない。
今から逃げ続ける限りこれは繰り返される。
メソッドは、本来は今に還るために行うもの。
願望を実現するためにやるのは、今から逃げるだけ。
願望の実現はあくまでも、あなたが今の充足に気づき、今に還って来た時に、結果的に一緒に未来から今に還って来るもの。それは、単なるおまけ。大したものではない。
例えばね、凄い簡単な事だけど、自分の嫌なところ、叶えたいものばかり見てそれを変えようとするのじゃなくて、良いところを見たり、嫌なところ自体を良いところだなってみるようにするの。
要するに、見方を変えるだけなんだよ。物質的には何も変えない。
世界を変えず、自分の心の持ち方を変える。
竹とんぼで思い切り満足する心を作るの。
PS4じゃなきゃヤダというこころはループに囚われる心なんだよ。
そう思うように努力するの。ニンジンがなくても幸せになれるように努力すんの。それが自愛だよ。
結果的にニンジンが得られるかどうかは、あまり重要ではないよ。
そこにウェイトをおけばおくほど、また自愛からは遠ざかるよ。
イサさんは自分のあらゆる心のあり方を許すという意味で、最初はそれでもいいとはいっていたかもしれないが、いつまでも、PS4じゃなきゃヤダヤダだと本来の自愛にはならない。
非常に勘違いしやすいが、自愛はいつまでも私はどう思っても構わないのだ、というわけではない。
自分を甘やかすのと、自分を大切にするのはちょっと違う。
どう思っても構わないをエンドレスに続け、その思いに内包される不満を甘んじて受け続けるのではなくて、その不満は最終的に消えなきゃならない。
未来の希望であるPS4という条件付きでないと、自分を十分に楽しませてあげられないというのでは、これは明らかに自愛にはならないし、自分を十分に大切にはできていないよ。
それでもいい、PS4に翻弄される私でいいという思いを持つのは、まずは初期段階だ。
その上で最終的にその現状への不満は消す必要がある。
そのためにも、現状である竹とんぼに少しでも面白みを見出してみるよう努力する。
捉え方・向き合い方を変えてみる。
まずは、今への不満を持つ自分を受け入れてから、不満への恐れを減らし、不満と向き合い、そこに楽しみや幸せといった何かを見出してみる。
これこそが自愛ですなんてそこまで傲慢なことを言ってるつもりないけど、少なくとも自愛は、そんなに簡単に済むことじゃないし、誰かも言ってたけど、サッとやってハイ終わりみたいなもんじゃないよ。
意識して続けないと、割とおろそかになりがちだと思う。
不満と向き合うというのは、あなたが抱える問題について、あなたが捉え方や考え方を変える余地はないか、真摯に向き合うことだ。
例えば、ある人が憎いとして、その人のことは変えられない。でも一緒にいなきゃならない。
そういう時、憎いままにして不満をいだき続けてるのは、自分を甘やかしてるだけだ。
そういう思いを持つことを許したとしても、現状に不満をいだく心を永遠に変えようとしないのは、何より自分のためにならない。その心を甘やかせば、その心を育てることになる。
だから、それと上手に付き合って、不満をいだかずにいられる方法を探すのが、不満と向き合うということだ。
相手や世界を変えるのではなく、自分の見方を良き方に変える。
願望が叶った時より、今の方が幸せ…そう思う努力をするってことだ。
そもそも私は自愛だけでは叶わないという答えは出してないよ。
仮にそう捉えられる書き込みがあったとしたら、それは自愛をPS4を得るための手段にして欲しくないから言ったことだと思う。
ちゃんとやれば、自愛だけでも叶うけど、でも叶ったら自愛を疎かにするだろ。
また外側の世界で自分を満たそうとする。
自愛を突き詰めれば、再配達が終わるのも事実だし、願望が選べるようになるのも事実だよ?
でも、それを目的として自愛は続けるものではないんだよ。
だから希望をもたせるような言い回しはあまりしてない。
自愛でも結果として願望は叶うけど、それは目的ではなく、あくまでも、おまけなんだってば。
そのスタンス崩したら、いつまでも願望に振り回され続けるよ。
だから自愛はそういう願望実現のための手段とは全く別のものとして捉えてほしい、と思って、自愛についてはそう書いているよ。
でもそう書くと毎回毎回、結局叶わねーのかよ、とか、同じように突っ込まれるから、多少希望をもたせる意味合いで、こうやって願望は叶うとか言わざるを得ないのが、苦しいところだけど。
私の言う自愛は、要はどんな時でも自分を幸せにしてあげること。
つまりそれは、どんな時でも周りに振り回されず、自分を大切にすること。
それが出来る心を育むのが、自愛の目指す所。
で、どうして併用をすすめたというとだが、最初から、自愛だけを本当にちゃんとやれるなら、それだけでいいと私も思う。
私がアファの併用を勧めていたのは、こういうとこに来る人は、あまりにも願望にウエイトを置きすぎている人が多いから。そしてそのために、自愛を叶える方法として捉えてしまいかねないからだ。
こういう場で、潜在意識や引き寄せといった概念をガン無視して、ただの精神論として、無条件に幸せを感じてくださいとか言っても、ほとんど誰も聞かないだろ?
あと、自愛を続けた結果、自由に選べるようになるとか、現象化は全て必ずあるとかいう知識自体は正しいけど、それをモチベーションに自愛を続けること自体は、あなたの言うように、かなわねえ辛い気持ちからの逃げになり、結局外の現象に自分の幸せを委ねる行為であり、イサさんの言う自愛にはなりえないんだ。
だから自愛だけをするなら、その知識とはうまく距離をおいて、それに専念するといいと思うよ。
ちなみにね、別に願望自体は、よしおさんの「関係ねぇ」よろしく、結局その人の関連付け次第でどのようにやろうが叶う可能性はあるけど、無条件に幸せを感じる心だけは、ちゃんと意識して育まないと形成されないよ。
そういう意味でも、自愛はとてもいいと思う。
あなたはそもそも、不満ばかり言ってる自分は既に許せているからこそ、不満ばかり言ってるんだ。
その時点で、少なくとも自己否定はないから、ある程度は自愛になってる。
でもその状況にあまり喜びや幸せを感じられないなら、考え方を変えて、自分に喜びや幸せを感じさせるように努力してみる。努力が不満に甘んじるより極端に辛くなければ、その取り組みはとても前向きだし、やっていて罪悪感もなく、より大きな自愛になるよね。
そして、自分=他人だから、自分の不満を前向きに切り替えれば、その時点で不満の対象をも許す、より大きな許しになるんだ。
だから自分を無条件に幸せにするようにしていけば、幸せを感じる対象である、自分以外の全てを自然と許して行くことになる。
無条件に幸せである状態は、自分の思いや感情だけでなく、自分以外の全ても許容している状態だ。
自分の思いや感情を全て許す=自分を許す
自分を無条件に幸せにするようにする=自分以外の全てを許す、なんだよ。
例えだから気を悪くしないで欲しいんだけど、私は川が上流から下流に向かって流れることにいちいち腹を立てない。
でもあなたは腹を立てていて、これはどう考えてもおかしい。
ただそうはいっても、あなたにとっては腹が立つのだから、まずはそれを思い切り許してあげる。
腹を立てること自体は、何も行動を起こさなければ誰にも迷惑がかからないから、それは全く悪いことではない。
でも、川が上流から下流に流れることにいつまでも腹を立てていても、くだらないし、自分が辛いだけだろう。
だから、一人で十分に怒り狂いまくり、それを一人で発散した後で、どういう風に自分の思いを変えたら、一番自分が楽なのか考えるんだ。
行動を通してではなく心を通して現実を受け入れられるようになる、心のあり方を模索するんだ。
これはあらゆる不満の対処法として有効だ。
不満にぶち当たった時、毎回こういう営みを繰り返して行けば、それだけ世界を許容する幅が広がり、幸せのハードルはどんどん下がっていくよ。
願望も叶えたいが、それはアファでやって、自愛はそれとは関係なく続けるのであれば、幾分か続けやすくなる人もいるだろう。
もちろん、あなたのように併用することに矛盾を感じるが、願望実現をモチベーションに自愛をすることに矛盾は感じないというのなら、それをモチベーションにしてもいいから、自愛を続ければいいんだよ。
もちろん、そういう属性のない純粋な自愛が一番だし、それができるなら、単独で実践するのが一番だとも思うよ。
自愛についてはまとめて書くから、長くなる。
まず、自愛について根本的な勘違いがある。
それは自愛をし続ければ、いつか辿り着くという考え方なんだ。これは真逆なの。
自愛をし続ける限り、永遠に辿り着かないのだよ。
自愛を実践してるときに、そこを完全に履き違えて実践してる人が多い。
エンドレスに許し続ければ、いつか自愛が完成するってね。
結局その先にある結果を求めてるの。ゲームを辞めるゲームなんだ。
だから、メソッドとしての自愛を続けようが、アファメーションを続けようが、併用しようが、はっきり言って本来のあり方からすれば、全部見当違いなの。
メソッドをやり続けるということは、どういう状態であれ、メソッドをやらない自分と、やらないことで起こりうる結果に恐怖してるんだよ。
それだけは絶対に許さないから、メソッドという手段を用いてそれに抵抗してるわけ。
だから、今すぐ自愛なんて行いをやめれば、それが今まで全く許してなかった部分の自愛をすることになる。
自愛することを通して自愛を達成するのは、あり得ない。
自愛するということは、自愛をしていない自分と、自愛しないことで起こりうる不幸への恐怖が根底にあるから。
自愛というのは、本来の状態を言葉で説明しているから、自愛をすることは、絶対的に正しい姿勢のように見えるが、自愛はどんな風に実践しようが、結局は今の自分の否定なの。
今の自分を受け入れようとする行為そのものが、今の自分を受け入れていない自分の否定だし、今の自分を許す行為そのものが、今の自分を許せていない自分の否定なの。
手段を用いるということは、目的がある。
目的があるということは、内的であれ外的であれ、現状からの変化を望んでいる。
今の否定なの。今の自分から逃げ続けることを、抵抗という。今の自分を許してないんだよ。
だから一番大切なことは、やり方が正しいとか正しくないとか、そういうことじゃなく、メソッドへの取り組みを通じて、メソッドを取り組むということ自体が、今の自分の否定にしかならないという絶対的な事実に気づくことなの。
自愛の本質、全的な許容は、自愛を通じて達成されるものではなく、メソッドに触れ、メソッドを実践し、最終的にはメソッドを全て捨てることで達成される。
メソッドなんて結局全部間違いなので、やり方なんてなんでも良いの。
その気づきを与えるために、メソッドは存在している。
ゆえにメソッドは人それぞれ。これが正しくてこれが間違いというのはない。
私はメソッドとして何かを話す時は、数ある気づき方の一つとして提唱しているだけなので、気に入ればやればいいし、気に入らなきゃやらなくていい。
ただ、メソッドはどんなものでも、気づきを与えるきっかけになりうるものでしかないから、絶対的に正しい方法なんてものはない。
とりあえず、自愛の問答については、これ以上言うことはないよ。
あなたは、川が上流から下流に流れることを止めようとは思わないよね。
それと一緒で、今を生きようとする試みも、実は、川が上流から下流に流れるのが気に食わないからそれを止めようとするのと一緒なんだよ。
お腹が減るのがむかつくから、お腹が減るのを止めようとするのと一緒なんだ。
結局これは、よく言ってるようにゲームをやめようとするゲームなんだよ。
願望実現に触れる人ってのは、大筋の辿る流れってのがある。
まず、ゲームに勝とうとするんだ。最初のうちは勝てたり勝てなかったりする。
うまくすれば常勝気味になるが、例え勝ち続けてもつまらなくなる。
だからこれは不毛だと看破し、ゲームを辞めるゲームをはじめる。
でも、結局これすら同じ枠の中で起こってることなんだ。
ゲームを辞めるゲームがうまくいったところで今度はまたゲームをやりたくなるんだよ。
お腹が減るのをやめたら、お腹も膨れなくなるから、美味しいものを美味しいと思って食べられなくなる。
それが不満と感じるようになるんだよ。それが、永遠に繰り返されるだけだ。
何とかゲームを抜け出そうとする試みすら、ゲームの中で起きている。
全ては、世界という対象物によって、当たり前のように引き起こされる、条件反射のようなものだ。
その条件反射をどうにかしようともがくから、苦しみに対して二重に苦しむことになる。
だから、ゲームからは逃げられないことを受け入れること。
あなたはわざわざゲームをやめるゲームをすることはない。
不満を何らかの方法で潰しても次の不満が湧いてくることがわかっていれば、向き合い方も変わるだろ?
ゲームをやめられないことがわかれば、ゲームを辞めるゲームもやらなくなるし、ゲームにそこまで入れ込むことも少なくなろう。
ゲームからは解放されないが、それを知れば、解放されようとする不毛なゲームからは解放される。
上善は水の如し。
やめられないからこそ、抵抗をやめ、無理に楽しもうとするのをやめ、全て受け入れて、自らを水として捉えることができる。
自ら(思考や感情)が水のように生きようとするのではなく、自ら(思考や感情)が水のようなものと気づける。
理不尽な仕打ちを受ければ怒りが沸き、好きな芸人のネタを見れば笑う。
それは、水が冷たい風にさらされれば凍り、暖かい陽気にあたれば溶けるのとおなじこと。
それは当たり前のこと。その思考や感情が沸くのは、ごく当然のこと。
楽になりたいなら、楽になるために水のように生きるのではなく、楽になりたいと思う心そのものが水のようなものと気づくことだ。
あえてすることはないよ。
それは、あなたの思考や感情が水のように生きることを心がけようとするただの反応でしかない。
いいかい、ここはとても大事なのだが、思考や感情が意識して水のように生きようとするのではない。
私の書き込みを見て、あなたの思考や感情が意識して水のように生きようとする、その反応そのものが、まさに水そのものなんだよ。
いわば、氷が、日差しという反応を受けて溶けただけだ。
氷には、自らで自ずと水に戻る選択肢は与えられていない。
熱という刺激を受けなければ、水に戻ることはない。
逆説的に言えば、そういう刺激を受ければ常に水になるという反応が否応無しに起こる。
選んでいるつもりが、常に選ばされているんだよ。それが、思考や感情というものなんだ。
そこに間違いも正しいもない。ただそうあるべくしてあり、そうなるべくしてなったんだ。
だから、あなたが私の書き込みを見てどう思おうが何を是としようが、そこに本質的な問題は何一つない。それはそういうものだったということなんだ。
全てが反応に過ぎないのなら、そこに改善の余地も改悪の余地もない。
だからなんだと思う人もいるだろうが、それはそういうものなのだと知れば、こころという不確かな存在がこころ自らをどうにかしようとはしなくなる。
くすぐられたら笑ってしまう反応をどうにかしようとは思わないのと一緒だ。
それはそういうものだとしてみるようになる。
この話は、ある程度認識が進み、願望実現後の虚無感やループそのものに不毛さを感じていないとピンとこない話だと思う。
どういう話を聞いても、それを利用して願望云々とか、こうすればよいのか?という発想に至るということは、まだ、何何を手に入れれば幸せに違いないという感覚が非常に強いんだ。
そういう状態では、どうしても言わんとすることが理解しづらいし、全て反応→だから何だということになる。
同じように自愛も、願望に囚われてるほど、だからなんだ?って感じになるから理解しづらい。
幸せは一時的なもので、過ぎ去るものだという実感が、頭では理解しててもいまいち伴っていないからだ。
だって、全ては反応だからといって、ただ眺めるしかないと言ったって、何のために?
それすら反応なのに?
とにかくあなたの中には、願望実現のためが大元にあるだろ?
そうなっちゃう時は、この話を理解するのはひとまず置いておいた方がいい。
大金以外でもいいから、何らかの願望に強く執着し、手に入れてしばらくした後と、手に入れる前の気持ちを冷静に比較することができれば、この話も腑に落とすことが出来るようになると思う。
それまでは、素直に叶えるために、現実的な対処でもメソッドでもなんでもいいから、徹底的にやるのをオススメするよ。
我々の思考や行動、そして感情というものは、常に記憶という名の枠に絶対的に押しとどめられている。
そこは絶対に越えられない。
思考や感情は見たもの』ありきという呪縛からは逃れられない。
なぜそれを幸せだと思い、なぜそれを不足していると思い、そもそもなぜこの文字の羅列が理解できるのか。
全部過去ありきなわけだ。
思考や感情はストーリーに踊らされるしかないから、そこを起点にしていたら、いつまでも狭い世界でずっとストーリーに踊らされ続けるだけ。
思考や感情は、そういうものなの。
だからまあ、思考や感情が何何しているというより、思考や感情は(記憶によって)何何させられている、なんです、常に。
選んでるんじゃない。記憶によって全て選ばされているの。
勝手に起こるものといえばそうだし、源泉から勝手に湧き出てきてるというのも間違いじゃない。
例えば、街なかで自分好みのタイプを見つけたとして、その人に一目惚れしたとする。
そして声をかけようとするが、恥ずかしくてできなかったとする。
この場合、そもそも、自分の好みのタイプだと思うのも記憶の産物であり、その人とは初対面というのも記憶の産物であり、付き合えたら幸せだなーとか、まだ付き合ってないとかまだ結婚してないとかいうのも、恥ずかしいというのも、だから声をかけられないというのも全て記憶の産物であり、その逆さえも全て記憶の産物なの。
で、これを読んで考え方が変わるのも記憶の産物なの。
だからどうしたっていえば、全ては記憶の産物であって正しい判断ではないということだよ。
何何だから幸せってのは、全部記憶の産物であって、普遍的なものじゃないの。
水を飲めることに大した幸せを感じないのは、我々の記憶のせいで、逆にそこに大きな幸せを感じるのも、その人達の記憶のせいなの。
ゆえに、何なにだから幸せーとか不幸だーなんて、結局は記憶に縛られた極めて限定的なもの。
記憶が変わればいとも簡単に形を変える。そして、そこを信じるということは記憶を信じるということでもある。
記憶という前提上でしか振る舞えない思考や感情という部分に、自分を同一化するということは、記憶を真実とすることなんだよ。
叶ってないという認識はあきらかに記憶に騙されている。
が、逆に叶っているという認識も記憶に騙されている。
記憶に騙されていない状態というのは、今目の前にある物しか知らない状態なんだよ。
目の前のものしか知らないなら叶ってるも叶ってないも無い。
記憶がないから、日本語という言葉も知らないはず。
だから、形容もできない『それ』があるだけ。
そして、それしか知らないから、それに対して喜びも悲しみもいだきはしない。
ただ、私達は基本的に記憶に騙されている状態がほぼデフォルトと言っても過言ではない。
あえて騙されることで、ゲームとして楽しんでいる部分もある。
サッカーというゲームは、皆がルールという幻想を共有し、それを信頼することで成り立つ遊びでしょ。
貨幣などのあらゆるものの価値も、その幻想を皆が共有し信頼するから成り立っている。
そして、幻想を共有するからこそ、そこに喜びも悲しみも勝ちも負けも生まれる。
ゲームとは、ルールという幻想を真実としないと成り立たないの。
つまり、記憶という幻想を真実とするからこそ、願望実現ゲームがゲームとして成り立つの。
五感を通して認識し、記憶を通して蓄積されるものがあるからこそ、時間という概念が生まれ、今と過去、あるいは今と未来が生まれる。
そこから比較が始まり、ストーリーが生まれ、あらゆる二極が生まれる。
こういうのが、本当は全部、幻想だということ。
その幻想の上でしか出て来れない思考や感情は、本来はおかしい。
お金があるから豊かに思うというのも、殴られたから怒るというのも、記憶という幻想の上で踊らされているだけなんだ。
だから、何々が好きとか嫌いとかいう思考や喜びや、悲しみの感情がなくなるわけではないけど、それが幻想の上で踊らされている一つの反応、いわゆるエゴに過ぎないとわかる。
思考や感情に振り回されなくなる。
変な言い方だけど、どうあがいても踊らされているのがわかるから、素直に踊らされるようになるんだよ。
それを冷静に見てる何者かに意識の割合を多く割かれる状態になっていく。
どういうルートをたどるにしろ、叶っている状態というのは重要度は低い。
重要度が高まる時は、叶っているものが失われそうになる時、叶えたい時、叶った前後。
その時だけなんだよ。
それが既に叶っていて、脅かされることがない安定期には、それに対する重要度なんて欠片もない。
そんなもん全然大切なものでもなんでもないという状態は、皮肉にもそれをどうとでもできるメンタリティーなんだよ。
どうでもいいから、どうこうしようとは思わなくなるのもまた皮肉なのだが。
その認識が、結果的にそれをどうにかしてしまうんだよ。
モテる人は自分がモテることを当たり前と思っているか、恋愛にそもそも執着がない。
そのどちらにも共通するのは、世界に『モテる』という状態を現出させるために、積極的に叶えようとはしていないんだよ。
確信があるからor関心がないからと、理由はそれぞれ異なるが、結局双方とも、あるがままに任せているんだ。
要は全てをあるがままに任せる状態が願望実現においては最強のメンタリティーなの。
観念や認識というのは、要は記憶なんだよ。
この記憶を元にあなたの全ての思考や感情、行動は発生している。
ということは、思考や感情、行動には願望を叶えてしまう力はないんだ。
なぜなら、その大元になっている核が、記憶=叶っていないを大前提にしているからだ。
その記憶に忠実に従わざるを得ない思考や感情内でのアプローチは、それが真実だと自ら喧伝するようなものだ。
記憶を真実として扱う限り、永遠に記憶の中の世界と目の前の世界のギャップに、良くも悪くも翻弄され続けることになる。思考の範疇でメソッドを捉える場合、間違いになってしまうのはこのためだ。
だからこそ、その記憶の枠の中から真実を解放しなきゃならない。
それがあるがままに任せる状態だ。
真実を思考や感情という檻の中から解放すること。
それには、思考や感情、あらゆる記憶を幻想として見切ることだ。
これで真実は「空白」になり、あらゆる概念は無に帰す。
そうしたら、あとはもはや何が何だかわからない状態だ。あるがままに任せればいい。
徹底的に取り組むというのは、記憶認識をないからあるに無理やり上書きするようなものだ。
二元の域は越えないが、一応効果はてきめんだ。ただ今はもっと根源的な話でもある。
あと、存在を認識することについては、1が1であるために0があるというだけの話であって、本来そこに何かが無いという概念は存在してない。だから、何かを認識すること自体に不足は本来無く、それは1と0の存在を示すための区別でしかない。本来は、認識したものが、あるだけだ。
そもそも、何かを認識した時に、なぜ何何はあるとか何何はないとか思ってしまうのかについて着目して欲しい。
例えば、目の前にものすごく好みの異性が歩いているとするだろ?
なぜそれをないと思うのか?目の前にいるじゃん。あるじゃん。
この時点で、不足という概念は明らかに記憶に基づいた思考が作り出す幻想だとわかるんだ。
不足というのは、記憶を元にした単なるストーリーでしかない。
今目の前のことしか知らない場合、そこに不足はあり得ないんだよ。
記憶とは、認識の蓄積。
つまり、記憶の中の過去に認識した世界と、今に認識している世界には絶対に差が生じる。
思考があるからこそ、思考内の世界と今の世界の間に差つまり不足あるいは充足が存在してしまうの。
記憶が不足と充足を生み出す元だったんだよ。
記憶があるからこそ、それを元にして今の世界が正しいとか正しくないとか、幸せとか不幸とか、叶ってないとか叶ってるとか、そういう思考が出てくるんだ。
全ての記憶を無視して現実をあるがままに見た場合、そこに不足は存在せず、既に叶っている(叶っているという言い方もおかしいが)という事実が、すんなり受け入れられるのならば、もうそれで終わりなのも確かなんだよね。
その事は心の片隅に置いておいて欲しい。
どんな不足も、本来は気づきによって一瞬で記憶による幻想だとわかるはずなんだ。
世界を変えようとする思考を煽るかもしれないから、あまりこれは言いたくないんだけど、記憶ってのは、その時点までの極めて濃厚な世界の設定でもあるんだよ。
人は基本的に、記憶=真実と思ってる。だから、世界にも記憶=真実が採用されてるの。
頭で記憶は真実ではなく、ただの幻想と理解した時点で、すぐにそれが実際問題としてすぐに覆ることは少ない。
しかしそれを、現象を見て覆っていないからと言って、変えようとする試みは、逆効果になる。
その試みこそが記憶=真実を強めることになってしまうからだ。
目の前の世界を、一瞬でいいから、全ての記憶を忘れた状態であるがままに見てみるといい。
そこに不足はありえないだろ?
本当に、ただそれだけの話なんだよ。