【体感】「あなたの存在は愛そのもの」存在しているだけでいいんです、存在しているだけでもう何も心配することはないんです。すべての存在は等価です。全部同じものでできてるんですから。

体感・気づき・方法論
達人さん
達人さん

叶ったり叶わなかったり、という人はチケットで言うと3~6章を辿ってるのだと思います。
108さんの質疑応答も3~6章だと個人的には理解しました。
だから安心してください、それは言うならばエゴからの試みで、どんどん加速すると思います。

愛と言われてもなんのこっちゃ、て人もいると思いますが、それが存在のすべてです。
物質も生命も同じようなもんです。でもこういうことは鵜呑みにして足枷にしないでください。
あなたの実践と実感だけがすべてですから。
そのプロセスが3~6章で、それはエゴからの試みです。

セドナ・リリーステクニックやオポノポノなどのクレンジングもそうです。
レスター博士の物語を読んだ方はご存知だと思いますが、彼は最初、すべてを愛に還すところから始めました。
そして愛情でもどうしようもなくなった時に、彼が行ったのがリリースです。

知識は情報の海です、あらゆる情報があります。
けれど人により伝えられた情報は、程度はあれ、歪曲や迂回を余儀なくされます。
だから鵜呑みにしないでください、この僕の言うこともそうです、あくまで参考にしてください。
それがあなたの3~6章ですから。
最後には全部同じことを言っていて、各々の知識がそういう見解になった理由がわかると思います。
クレンジングだけでそれが済む方もいると思います、447さんやレスター博士がそうでしょう。
セドナメソッドは良くできていると思います。効果を感じている方は是非続けてください。

愛があるゆえに痛みが伴うという一節があります。
それは何故かというと、愛情であって愛とは少し違うからです。
それはエゴからの試みなんです。本当に愛するってことは存在することをただ認める、許すということです。もうなにもしないということです。
それでもいいよってことです。感情も存在です。エゴも存在です。
勝手にしやがれってことです。全部オーケーだよ、と。
これがリリースです、そして7章です。

あらゆるものを握り締め、塞き止めていたのは自分だった、ということに気付くと思います。
何も関係ないんです。愛に限界はないですから。
自由になります。何も関係ないんですから。
自分がどう考えどう感じどう行動しようが、何も関係ないんです。
すべて許されてるんです、自分で決めていいんです。
存在しているだけでいいんです、存在しているだけでもう何も心配することはないんです。
あなたの存在は愛そのものだからです。すべての存在は等価です。
全部同じものでできてるんですから。

エゴの試みの内は、うまくいったりいかなかったりです。
繰り返していくうちに、何か常にぶつかってるけど気付かなかった最後の障壁のようなもんが見えてくると思います。
別に壊さなくてもいいんです。見えてきたら勝手に消えますから。
その瞬間に今まで見てきたドラマから降りると思います。真実のほうが遥かに壮大ですから。
まあこれも解釈にすぎませんから、別にそんなふうに感じなくても何も問題はないです。
解脱も悟りも印象に過ぎません、ただ認識があるだけです。

エゴも映像であり、愛の一部です。
エゴはあなたの表現ですから。
存在を認めたら、ふるまいもあなたが決めてあげればいいんです。
所詮、外部に対する反応の総体なので。
何も独立しているものはありません。
7章はあまりにも近すぎて最初は気付かないのです。でもすぐそこにあります。

愛という言葉をたくさん使いましたが、クソ真面目なものではございません、本質はすごく気楽で軽やかなもので、わーいわーいって感じです。
世界=自分が納得できない方は、言葉にこだわらず、すべては私の認識である、ぐらい、アバウトでいいと思います。
私の認識であるということがまずあり、そして認識している私を認識するということがあります。

じゃあその主体って何って話になりますが、桑田さんの言葉を借りますと、それが映写機であるあなたです。すなわち世界であり、全認識です。
世界=自分ってそのまま考えると、どうしても世界=エゴになってしまうんです。
もちろんエゴは世界ではありませんから、それは違うって極めて正常な反応を返しますよ、エゴはそのままでいいんです。
あまり深く考えずに、認識すればオーケーです、そこで終わりです。

ご存知の方も多いと思いますが、宮澤賢治の詩にこういうものがあります。「わたくしという現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」

思考する自分から現象にアプローチするということは、結果である現象の中で、わたくしという現象でもってアプローチすることです。
どう感じどう考えどうしようが、現象内でわいわいしてるということです。
わたくしは現象ですから、それでいいんです、というよりそれしかできないです。
現象なので、どうもしなくていいんですよ。

認識できる現象のわたくしは仮定されたものです、そしてそれがエゴです。
それを認識しているあなたは一体何ですか、ということです。
ありきたりで基本的なことですが、灯台もと暗しです。
考えずに感じてみてください。

質問さん
質問さん

その主体、映写機の立場にいる事を感じる事は出来るものなんでしょうか?

達人さん
達人さん

出来るというか、もう出来てるんですよ、絶えずそうしてるんです。
存在しているということだけで条件はもう全部揃ってるんです。
ただ認めればいいんです、気付けばいいのです。
って言われても困るんですよね……僕もそうでした。でも本当にそういうことなんです。
結局のところエゴが納得できるだけの材料がほしいってことなんです。
そこをまず認めてみてください。

揺さぶられる方もいるかもしれませんが、あくまで鵜呑みにせず参考にしてください。
ぼくの印象にすぎませんから、そんなこともあるかもねぐらいで結構です。

皆さんが混乱し、つまづきやすい原因は恐らくリアリティーがないということに尽きると思います。
いくら意図しても叶わない、執着してても叶うときあるし手放してても叶わないときがある、
こんなのおかしいじゃないか、結局全部うそなんじゃないか、ってことです。
証拠になる事実がないじゃないか、ってことです。

そのとおり、全部主観ですから、あなたの中にしか事実はありません。それ以外何も関係ないんです。
あなたにとって事実でないということは、リアリティーを欠いているということです。

情報や知識は、あなたがリアリティーを感じない限り事実ではありません。
リアリティーを感じるということは、思い込むことではないんです。
恣意的なものなしに、ただ実感するということです。認めざるをえない、ということです。
これが主観であり事実なんです。それは印象も何もかも人によって様々です。
でも真実はひとつしかないのです。
限定されたリアリティーの内では、何も見えないんです。

セドナやオポノポノが非常に効果的なのは、感情を愛に還したり、リリースして荷を降ろすことができる、という実感を伴いやすいからです。
それは紛れも無い実感ですから、事実であり、リアリティーがあるんです。
重要なのは理論的に正しいとか正しくないではなく、あなたが確かにそう感じたという事実です。
あなたの決意でそうできたという経験です。

決意でそうしたことがあなたにとって事実である、ということです。
あなたがあなた自身の手によって幸せになれた、という事実です。
これだけなんです、理由なんてどうでもいいんです、あとから分かりますから。

だからあなたが決めるんです。実際にこの瞬間も絶えず決めてるんです。
どういう現実を受け入れたらいいかということを絶えず決めているにすぎないんです。
ほんとうにそれだけなんです。それに従って現象が完璧に調和してるにすぎないんです。

あなたは絶えず映写機であり、全ては完璧に表現され存在してるんです。
このカラクリに気付くんです。
徐々にリアリティーを回復しつつ、ある程度のところで真実を見ようと決意したらいいんです。
あなたが許すなら、本当は一瞬でも可能なんです。

正直に言うとすべてが繋がったのはつい先日で、まだショックを引きずってる感じです。
僕の場合はゆるやかに繋がっていきました。
そして気付いたら全部繋がっていました。
そして認識しました。
それでも戸惑いがあります、自由に慣れてないんです。

日常はすべて美しいです。
もっと厳密に言うなら、すべてに対して美しいという属性を見ることができる、かもしれません。
それも何の抵抗もなくです、愛しかないですから。
同じことでしょうけど、ここ非常に大切な気がします。
こんなことでしか言えません、是非直接経験してみてください、簡単です。

質問さん
質問さん

そこに到った経緯というか、どうしてその認識に到ったか教えて欲しいです。

達人さん
達人さん

僕の場合は、特別なことは何もしていません。
瞑想もやったことないし、充足を見ようと習慣づけていたわけでもないです。
セドナやオポノポノはちょいとかじった程度です。

色々知識は付けたんですが、行間を読めないうちはてんやわんやです。
後でわかりますんで、ちょっと意味がわからないな、と思ったら保留しといていいと思います。
僕はいろいろ調べていくうちに、叶う叶わないという出来事よりも、その仕組みというか成り立ちというか、結局幸せとか愛って何だ、っていう方に興味が湧いてきたんです。
存在って何だ、無ってどういうことだ、とかそんな感じです。

で、愛するということに非常に興味を覚えました。
あらゆる感情は愛に還すことができる、ということを実感したんです。
要になったのは、愛するって結局どういうことっていう問いです。

愛してみる、ただ単純にそうしてみてください。
皆さんが好きな音楽を聴くように、好きな人にプレゼントを買ってあげるように、その人と手を繋ぐように、ただ同じように愛してみるんです。

でもどこかできっと行き詰まると思うんです。
許せない、絶対に嫌だ、愛すれば愛するほどズタズタに引き裂かれてしまう。
どうしてこうなったんだ、自分が一体何をしたっていうんだ、そういうことがあると思うんです。
どうしたらいいんだろう、きっとそう感じると思います、ここまでは愛情です。

はっきり言いますと、叶うとか叶わないとか、そんなもんほんとは何の本質でもないんです。
どうせそんなロジック全部あとでわかるんですから、どうでもいい些細なことなんです。

言葉に惑わされないでくださいね。
観念と向き合えとか、記憶と向き合えとか、自分と向き合えとか、そういうことを言ってるわけじゃないんです。それも印象に過ぎませんから。

要するに愛を知れということです。
でも今は実感できないかもしれません。
だから実感してみたらいいんです。

あらゆる存在を握り締め、コントロールしたいがために握り締め続けているのは紛れも無いあなたなんです。

何もしないということ、あるがままに存在させる、ということを実感してみる。
それがどういうことか、ただ知る。
好きとか嫌いとかはそのままで、ただ超えるんですよ。
エゴもそのまんまです、いいよ、ってことです。
いてもいいよ、そのまま存在してもいいよ、ってことです、
全部そのまま存在していいよ、ってことです。
それが愛です、それを実感しただけです。僕はそのとき認識しました。

わからない、と嘆いている方はとりあえずエゴとか考えなくていいと思います。
そして大チャンスです。
なぜわかりたいのか、自分に問うてみる。
なぜ情報や知識をかき集めずにはいられないのか、どうしてそこにしがみつきたいのか。

欲求というものは、逆説的なものなんです。
108さんの見解とは反するかもしれませんが、別に幸福獲得のゲームに病みつきになっているわけでもないんです。
ただ抵抗しているだけなんです。それが何故かっていうところに答えがあります。

もし欲求が湧いてきたのであれば、そのさらに根本の欲求は一体何だろうか、と問うてみる。
自分は一体こんなことを繰り返して何を求めているのか。
あらゆる欲求を通して究極的に自分が求めているものは何なのか、本心に声を与えてみる。
そういうふうにして自分という存在のネットワークを探っていくんです。

なかなか見えないところにありますけど、それを解くのはあなたなんです。
これだけです、知識も何も必要じゃありませんよ、役には立ちますけどね。
あなたが発見できたものを、愛でもって丸ごと包んでみてください。
みんな優しいんですよ、だから恐いんです。
人に迷惑をかけたらどうしよう、傷つけてしまったらどうしよう、
自分を悲しませてしまったらどうしよう、何と詫びたらいいのだろう。
そういう思いがひとつひとつ膨大なネットワークの結節点となります。
だから警戒するんです。そのネットワークの中心にたどり着いてみてください。
それはキリスト教でいうと原罪にあたるかもしれませんし、仏教でいうと無明にあたるかもしれませんね。

「童の時は語ることも童の如く、思うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが、人と成りしは童のことを捨てたり」
あなたはいなくなったりしませんよ、違う存在にはなるかもしれませんけど。

質問さん
質問さん

現象化とかはあったのでしょうか?

達人さん
達人さん

現象化はですね……全てです。
どんな望みを持っていたとしても、さらに隠れた望みがあるということがしばしばです。
その望みを本当は知ってるし感じてるんですが、頑なに認めようとしないということがしばしばです。
いろんなもので上書きしようとするんです。
だからいざ現象化してみてもわからない、ってことが多々あります。
つまり、汝自身を知ればよいのです。

108式成功体験談・その2
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1288174368/
255: もぎりの名無しさん :2011/01/15(土) 21:51:59 ID:q1RQB5MM0

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