私ね、借金があったの、たぶん、今もあるけどね。
その借金は、騙されて、負わされた借金ね。
その時はチケットを知ったばかりで、全然理解もしてなかったんだけど、掲示板に助けてーって泣きついた。
そしたら、とにかく金を集める方法を考えるんだって言ってくれたんだけど、でもさ、そんな方法思いつくなら、掲示板に助けを求めないじゃん、ふざけんなボケって思ったよね。
問題は借金だから、お金を手に入れて完済するのが、普通の問題解決じゃん。
だから、お金を集めろって言ってくれたんだけど、今思えば、私は問題解決をしたかったわけじゃなくて、お金を払いたくなかった、それだけだったんだよね。
認識が少しずつ変わってきていたので、あ、叶ってたわって、この時思った。
数年後の今も、お金は払ってない。
たまに弁護士事務所から、手紙みたいの送られてくるけど、ビタ一文払いたくないし、払うつもりもない。
問題解決しなきゃ叶ったって言えないと思うかもしれないけど、私にとっては解決しようがしまいが、心底どうでもいいので、あえて解決しようと思わないし、思えない。
借金のことは、マジでその辺に転がってる、石ころ程度にしか思えないんだもん。
解決するのが私にとって最良ならするんだろうし、しないのが最良ならしないんだろうなぁって思ってる。
一言でいえば、問題解決が願望だったと勘違いしてたけど、実は金を払わないが願望でしたって話ね。
今、借金の100倍のお金が手に入って、払えば解決するとしても、今後も払いませんよ。
私、借金を払わない事に対して、全然罪悪感がなかったんだよね。
そもそも、相手を信用した自分がいけないんだけどさ、それ以上に相手を信用してたんだ。
肉屋で肉売ってるのって当たり前じゃん、肉屋に肉を売ってないなんて思わないじゃん、そのくらい当たり前に、相手を信用してたの。
もし、自分が散財して作った借金だったら、返したくないけど返さなきゃって思ったと思うんだよね。
私、根は真面目だから。
少しでも返さなきゃって思ったら、そこで、返す・返さないの選択肢が出来ちゃって、罪悪感から、借金を返すことを選んだんじゃないかなと思う。
エゴが崩れた瞬間について話します。
私、家賃は大家に集金に来てもらうんだけど、こいつが怠慢な奴で、こっちから家賃取りに来いってLINEしないと来ないわけよ。
この前の集金日の朝にLINEしなきゃなぁって思いつつ、忘れてたのね。
そしたらさ、LINEしてないのに、珍しく、大家が夕方集金に来たのさ。
アンタやれば出来る子じゃんって、家賃払ってさ、
その後にふと思ったの、アレ、今まで私が、LINEをしなきゃ集金に来ないと思って、LINEをして、その結果集金に来てたけど、別にしなくても来てたんじゃね、奴が集金に行こうと思う前にLINEしただけで、LINEしなくても思い出してくれてたんじゃねって思ったの。
これでエゴが崩れましたよね。
108さんの水の話も、やっと理解出来た。
今まで、自分がしていたことで、結果に結びついていたと思ってたけど、関係なかったんだ。
エゴがビックリですよ。
私たちは日本という国で生きている以上 社会的常識というのがついてまわります。
もちろん、常識があるからこそ、社会が保たれているというのも分かります。
でも、常識を破ると、常識外のことも起こると思っています。
借金問題を石ころ程度にしか見ていないというのは、凄いことだと思いますよ。
やっぱり罪悪感がポイントかなと思ってる。
もともと常識なんてクソ食らえタイプですけど、社会常識やルールは、幸せであるなら、破る必要すらないのではと、最近思っております。
借金問題が石ころというのは、今思えば、その程度にしか思ってなかったので、願望にもならなかったのかもね。
目の前の状況に左右されず、何もしないというのが、私の理想です
今までは、何かしてたつもりだっただけで、結局のところ何も出来ねぇじゃねーかっていう事ですね。
何かしたから出来たワケじゃなくて、しなくても出来たかもしれない。
だったら、何かをして快ならすればいいし、何もしない方が快ならしなきゃいい。
ラスボスに気付いた瞬間について話します。
そんなこんなで、結局私の出来る事って二択しかないやんって気付きまして、別の領域は体感しないとわからない、エゴでは納得出来ない、ということを言う人もいますが、全然そんな事ないです。
私のエゴは超理論派で、曲がった事が大嫌いの、正論大好き人間で、だからこそ論破出来たワケです。
まあ、目の前に全部あったとか、世界と一体感なんて未だないですが、そのうち体感あるんじゃないかって、石ころ同然に思ってます。
そーすると、じゃぁ、お金でも手に入れちゃおうか、なんていう、よこしまな考えが出てきちゃうワケですよ。
欲の塊だけど、だって選べばいいんでしょ、っていうか、それしか出来ないんでしょ、って思う。
でもね、どうしても選べないんですよ。
通常なら、お金を手に入れる、そうすると、「エゴが騒ぐ、結果、無理」となるところですが、エゴはもう騒がないけど、「手に入れる→無理→手に入れる→無理」のエンドレスになる。
なんでだろうなぁ、わっかんねえなぁ、よこしまな動機だからかな、自分を信じてないからかな、金が手に入ったら別の領域を信じてやろうとか、ちょっと思ってるからかな、本当の願望はお金じゃないからかな、罪悪感があるからかな、働かないとお金は入らないって、まだちょっと思ってるからかな、など、色々考えてしまって、エンドレスになる。
考えてもわからなかったけど、ついに発見しました!
ラスボスは、手に入れる、無理、←こいつです、「無理」というのがラスボスでした。
巧妙に隠れてましたわ、まさに、ウォーリー並みです。
こいつに気付いた瞬間、無理も消えました、というか、出て来ない。
本当に全然出て来ない、エゴが消えるってこういうことね。
常にいる役人、エゴ役人に、妙に納得した。
気づいたのはまだ数日前だから、お金は手に入ってないけど、お金も別にいいんじゃね、くらいの、石ころに変わったようです。
執着が取れるってこう言うことかと、エゴ役人と納得しあっております。
認識の変更ってさ、結局、「知ってる事を認める」ということだと思うんだよね。
今までは認識変更したいという一心だった。
「なんで認識変更したいの、願望叶えたいからでしょ?」なんて言われてさ、「違うよ、あの映画が面白いって言われたら自分も観てみたいって思うでしょ、それと一緒だよ、叶えたいとか願望関係なく、その世界を見てみたいんだよ」って反論してた。
でもエゴを崩した後に気付いたんだけど、認識変更「したい」って、「したい」が付いてる以上、認識変更自体が願望だったんだよね。
今までずっと願望のことばかり考えてたから、願望がこの世に存在しないとわかった今、考える事がない、やりたい事も特にないし、さてどうしましょうって感じ。
その辺はもう丸投げするしかないよね。
でも、私のエゴ役人は、やりたがりなの。
例えばケーキをつくる場合、なんとも下手クソなワケ。
お客様は満足してくれても、私が満足してないワケですよ、思った通りに作れない。
そしたら、私が世界を作るように、ケーキを作れば良いんだと考えた。
それは、小さな小さな願望実現です。
作りたい形をイメージして、それを作ると意図して、違う事を考える。
なぜ違う事を考えるかというと、やりたがりのエゴ役人は、自分でこの角度でクリームを絞って、ここにナイフを入れて、とかやりたがるんすよ、下手な癖にね。
意図した後は、エゴ役人にやらせないために、エゴ役人には違う事を考えさせるの。
そしたら、ちゃんと満足出来るケーキが出来上がるんだ。
まさに、意図して手放す、願望実現ですね。
108以外質疑応答【14】
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1454787925/
542: もぎりの名無しさん :2016/04/10(日) 13:25:33 ID:34f5RKdE0