【気づき】「たった今どう在るか」嫌なことが起きても、それは現れて消え去るものでしかありません。それを起点にして、なにかを「叶えよう」とするのではなく、「たった今どう在るか」という在り方でしかないのです。

体感・気づき・方法論
達人さん
達人さん

「現象化」について、「こういう感じかな」と私が思ってることを説明します。

「私」という人間のエネルギーに共振した出来事が引き寄せられてくる」とか、「私」という人間の観念などが、世界に投影されている」とか言われていますが、それらも、ある一つの側面からの見方であり、表現ということです。

「私と世界」は全く切り離されていない、「自分がそのまま世界そのものである」という見方・表現をしてみます。

「それらは瞬間瞬間、エネルギーの収縮と緩和によって、現れては消えています。

広大無辺な「何も無いフィールド」があって、そこには、「何も無い」と同時に、あらゆる可能性を潜在的に含む素粒子が、全く何の方向性も無く、中立に遍在しています。
「無」であると同時に、「全て」である空間です。

そこで、エネルギーの収縮が起きたときに、「私」という感覚を持つことが出来ます。
その「私」というエネルギーの収縮に絡まったエネルギーたちが、「私」の構成要素として、「性格、容姿、思考、感情、記憶、環境」などを構成していて、「私はこういう人間で、こういう環境に生きている」という感覚を持つことになります。

例えば「お金」を例にしてみます。
お金は、この世界では、生活のためだけでなく、多くの関心を満たしてくれる、人生の可能性を物質化したようなものかと思います。
そして、その人生の可能性は、ただ中立に、何の方向性も無く、フィールドに遍在しています。

毎瞬・毎瞬の「私」というエネルギーの収縮が起きたときに、その人生の可能性のエネルギーが絡まったとします。

すると、「私」は、実際には分離していないが、分離したという錯覚をしている、見せかけの分離が起きますから、人生の可能性も、あらゆる可能性から分離して見えてしまうのです。
それが、「お金が欲しい」とか、「お金が無いから色んな制限がある」などという形で、「私と世界」に現れます。

そして、それらは「見せかけの分離」として、一部分だけしか見ることができないだけなので、全体性に広がっている「全ての可能性のほうに意識を向けましょう」という話なのですね。

気づくことは、「私」という収縮を溶解させることで、絡まってるエネルギーが解放されて、広大無辺の全体性の中に溶けることです。
あとは、全体性の中で調和が起きて、最適・最善に物事が起こってくるでしょう。

そして、現象世界とは、エネルギーの波動、振動の世界なので、収縮と緩和、現れては消えるということが、瞬間・瞬間に起こっています。
一つの瞬間に、「私とその世界」という現象が起こり、次の瞬間には、「無」のフィールドにさらさらと溶け去っていきます。
時間が存在する世界では、そんなふうにして、全ての現象が、現れては去っていきます。

それらは、瞬間・瞬間、全く別の現象であって、全ての現象は、その瞬間だけで完結して、現れ、消えていくものです。
ですので、昨日と今日は繋がっていないし、あなたが私の言葉を聞き始めたときと、今この瞬間というのも、全く繋がっていません。
時間の概念があるので、繋がって見えるだけなのです。

「何かを叶えたい」と思うとき、連続して見える世界の中では、今現れている現象を変える必要があるように見えるので、どうしても今の現実を否定せずにいられなくなります。
ですが、瞬間・瞬間、一つの現象として完結している「現れ」というのは、捕まえることも、変えることも出来ません。
それは、ただ現れて消え去るのみです。
私たちは、それをどうすることも出来ないし、どうにかする必要もありません。

「変えたい」と思うことは、時間が繋がった世界では自然なことですが、瞬間・瞬間が、まったく別の世界の現れであるという世界では、全くの見当違いであり、不可能なことなのです。
「私」を含む世界の「現れ」というのは、「たった今どう在るか」、それだけなのです。

とはいっても、タイムラグなどによって、即・現象化が起こらないことに対して疑いがある人もいるでしょう。
現象化にこだわる人は、「たった今そうなってるのに、いつ現象化が起こるのか」という疑いは、なかなか消えないでしょう。
それは、「早く叶わないと困る」とか、「そうでなければ幸せではない」などという思いが根底にあります。
結局は、その思いが、その人の在り方として、そのまま「世界そのものとして現れています。
そして、それもやはりエネルギーなので、気づけば解放されていくんですね。

ですので、変えられないものを変えようとしたり、掴むことの出来ないものを掴もうとしたりすることは出来ません。
それは疲れるだけの不毛なことです。
ですが、何かを「叶えよう」とすることは、まさにこういう行為です。
嫌なことが起きても、それは現れて消え去るものでしかありません。
それを起点にして、なにかを「叶えよう」とするのではなく、「たった今どう在るか」という在り方でしかないのです。

自己観察スレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1359912334/
439 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2013/11/24(日) 02:04:00 ID:.4bLqsfY0

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