【体感】「無であり、全てがある」絶対的に「在る」うえで、「無」である。「在る」があるから、すべての可能性が存在できる。絶対的な「無い」というのは、存在できないのです。

体感・気づき・方法論
質問さん
質問さん

「私」は無くて、「本当の私は意識である」ということが真実なら、どうして、眠っている時には意識が無くなってしまうんでしょうか?
この肉体と心が自分で無ければ、病気のことを気にする必要も無いし、食べていく心配もなくなるし、生きていく為の、もろもろの心配や悩みから一切解放されますよね。
でも、その意識というのが信用できないです。
眠ったら、意識はなくなってしまうじゃないですか。
寝ると意識が消えるなら、やっぱり「肉体が自分なんじゃないか」と思ってしまいます。
そんなものに全てを委ねてしまっていいのかと不安になっています。
意識が自分なのに、どうして肉体が眠ると意識がなくなるんでしょうか?

質問さん
質問さん

意識は眠らないです。
「眠らない意識」っていうのは、「自分の意識」ということではなくて、いわば「背景」みたいなものです。
それが変わらずに在るから、私達は眠っても再び目覚めることができる。

人は「背景」には鈍感なんだよ、絵を鑑賞する時には、描かれた絵にしか目がいかない。

質問さん
質問さん

その背景が本当の私で、不滅の意識が自分だと分かれば、怖いものは無くなると思うんですが、意識について知りたいです。

達人さん
達人さん

「意識について信用できない」ということですが、これは信用できるとか、できないとか、信用する必要があるとか、そういうことではなく、単に焦点の問題だと思います。

その「大いなる意識」は、眠ってるときも、死んでからも消えることはありません。
それは、生死や時空、個人を超えて存在する「根源」なのです。
眠っているときになくなるのは、「ある」・「ない」を認識してる、個人の意識のほうです。

個人の意識というのは、「私は○○という人間だ」とか、「こういう容姿で、こういう性格で、こういう症状を抱えていて」などと、普段改めて考えることはないでしょうが、それらのことを認識してる意識のことです。

このエゴの世界で生きるということは、時間や肉体という制限に支配されているので、「私」という制限された個人意識は肉体とともに眠ってしまいます。
そうなると、大いなる意識が存在することを認識することができませんよね。

「背景としての意識」というのは、もっと根源的な意識のことです。
絵画という美しい比喩を拝借して説明すると、あなたは今まで「絵の対象物」が「自分」でした。
そこに気に入らない絵が描かれていることを嘆き、どうにか書き換えようと頑張ってきたと思います。

でも、一部を書き換えようとしても、ほかとのバランスが取れなかったり、余計に酷くなったりして、なかなかうまいこと書き換えることは難しかったと思います。
それは、あなたが絵の対象物になりきっていて、全体の構図を見ることができない位置にしかいなかったせいです。

そして、あなたはふと、後ろのほうに背景らしきものを見つけました。
対象物にとって背景とは何でしょう。
すべてを支えてくれる土台、それが「在る」からこそ、絵として存在することができます。

そもそも、背景となるものが存在しなければ、私だと思っていたものも、世界もすべて、存在することはできません。
この背景が、原初の「在る」です。

自分自身だと思っていた、絵の具で描かれた色彩を消し去ってしまえば、そこは何も描かれていない、まっさらな状態になります。
これが「空」であり、「無」であり、「ゼロポイント」であり、そして、「私は『在る』」です。
背景のみのキャンバス、「何も無い状態」が在る、「それが自分であった」、という気づきです。
「無」でありながら、「すべてがある」という、矛盾が同時に存在する根源です。

絶対的に「在る」うえで、「無」である。

「在る」が在るから、すべての可能性が存在できる。
絶対的な「無い」というのは、存在できないのです。

根源からの視点で見ると、自分が存在することさえ気づいていなかった意識が、突然、「あ、自分在るじゃん」と気づけた、原初の気づきです。
その意識が「自分が在るじゃん」と自覚したからこそ、「そこから思いを発して、現象化する」という、「現実を創造する」という感覚が生じたのです。
すべてはそこから起きています。

自分が無、ゼロだと悟ると、そこに何が描かれようが自由でいられます。
不安や苦しみが描かれていても、あなた自身は、その描かれた絵ではなく、背景そのものですから、対象物から離れて「在る」意識、「背景」であれば、そこは「すべてがある」場所ですから、
そこに調和して「在る」ことで、おのずと調和した現象が生じます。

描かれている対象物は毎瞬変わっていきます。
楽しいときもあれば不愉快なときもある。
そのすべてを受け入れる場所に在るからこそ、その対象物を変えられる力があるのです。

「私は在る」という存在感覚を深く感じて、実感を伴う理解として腑に落として、これが本当の自分だという根本的な気づきが、いわゆる「悟り」です。
悟りは何段階も無限にあって、私自身、その途中にすぎません。

あなたが今この瞬間に「在る」に留まるなら、時空を越えて、その根源の「在る」にいることになります。
「在る」という自覚、存在感覚、「その存在に気づいていること、覚醒している状態」、「自分に気づき続けること」、それが「在る」ということです。

今までは、この状態を「自己観察状態」と表現してたけど、自己観察という表現は、どうしても「Do動詞的」なので、「ただ在るだけ」でいながら、「目覚めてる」状態、「Being」です。

この世界はエゴの世界ともいえるので、苦しみや不安が存在します。
エゴの世界が幻想だというのは、変わっていくもの、不確かなもの、という意味での「幻想」です。
起きている現象を「問題だ」としているのは「エゴ」です。

なので、不安や苦しみをつかんでいるエゴから解放されて自由になれば、問題は起きなくなってきます。
そのエゴを超えて、現象が起こる源である本来の自分・「在る」に焦点を当て続けることで、確かな真実である喜びや愛、調和が実現されてきます。

開放されるには、「在る」にあることです。

「在る」という気づきだけが、時間を越えて実在するものだからです。
エゴが繰り返し起きるのは苦しいかもしれませんが、そこに気づき続けることで「在る」がより確かなものになっていきます。

それは別に」、劇的な感じてもなくて、誰にでもある、前から知ってる感覚です。
修行してるお坊さんとか、「探してるから気づけない」んじゃないかと思います。
「そこに在ればよかったんだ」・と気づくことだったんですよね。

私たちはあまりにも普通に存在しているので、その根源的な「在る」を捕らえることが難しいのです。
簡単なものほど難しい、というやつですね。

でも、だからこそ、存在の源泉である「在る」という気づきを深めることが、何物にも変えがたく、これを経験したくて、この体験の世界が存在している」・といえるくらいの大きなものだとも言えると思います。
その「在る」にフォーカスすることで、今まで気づけなかった根源的な喜びを知ることができ、根源の無限さ、愛、そういったものが、「本当の自分だった」と悟ることができます。

あなたが気づいた「不動の意識」は、まだ「確かなもの」として、みることはできないと思いますが、体感を重ねながら、実感として理解することが大切です。
「在る」ことで、だんだんクリアになってくれば、今まで自分だと思ってきたもの、苦しいと思っていたものは、エゴの観念だったということがわかってきます。

そして「ある」に強力にフォーカスしてると、現象なんてものは結構あいまいというか、不確かなものとして、「幻想とはこういうことか」・と感じるようなことも起きやすくなります。

そういうふうに聞くと、期待するエゴもいると思いますが、それも「在る」にフォーカスすることで、超えてください。

エゴの側から「それがあるな」と感じるのではなくて、その不動の意識そのもので在ってください。
そこが、すべての創造の源です。
時空を超えた根源、すべてを生み出す源泉で、「在る」ことで、そこから起こる現象がうまくいきます。

今度から、誰かに質問したくなったり、愚痴を言いたくなったときに、そうする前に「在る」に意識を向けてみてください。
質問することがいけないわけではないですけど、そうするよりも、「在る」に意識を向けるほうが確実だと思いますよ。

あと、行動については、ただそこに在れば、必要なことが起きてくるので、抵抗しなければいいだけです。

意図と実現はひとつです。
「すべてはひとつ、すべてが自分」という領域ですから。
ただ、時間の中では、「意図してから実現される」という流れがあるように見えるだけです。
その流れに逆らわなければ、行動を含めて、すべてが自然に起きてきます。

108以外質疑応答【5】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1311180098/
128 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/07/31(日) 14:49:38 ID:psg5Ebes0

タイトルとURLをコピーしました