私は、自分と判断している「思考」、「いわゆるエゴ」は、存在してないのではないかと感じています。
もちろん、そこから生まれ出る感情、思考、欲求もしかりで、思考から出てくる「願望」も、同様に存在しない。
「存在している」という錯覚を与えられているのではないか。
錯覚というか、本当の自分の「仮置き」ですね。
エゴと呼ばれるものは、本来は防衛システムだったのではないかと思います。
それが観念、欲求と混ざり合い、一人歩きするようになった。
だけど、意識は存在している。
この意識が、いわゆる「別の領域」なのではないかと思います。
だとすると、ほんとに何も起こってないし、何も関係がない、ただ在る、という感じです。
その立場にみんないるから、そこから「選べる」ということではないでしょうか。
「選ぶ」というか、「創造する」のほうが近いでしょうか。
だから、観念のクリーニングや、自愛、完璧認定とかっていうのを、叶えるためにやると、本当に自作自演になっちゃうんですよね、エゴの中でくるくる回ってるイメージです。
自愛やセドナなどのメソッドは、そこに気づくためにあるのだと思いました。
それに気づいたら、ほんとになんにも関係がなかった。
「バンジージャンプ」のたとえは、自分自身の価値観や思考、思想を全て捨てることだと思いました。
その中にはもちろん、今認識しているもの全てが含まれています。
そして「再構築する」、「今までの考えと違うことを受け入れる」、それが「愛」である。
ここに抵抗がある人が多いんだと思います。
この世は全て認識です、認識で出来ている。
だからその場に立って、体験したいことを選択するだけで良かったんだ。
私は、どうしたら認識を変更出来るのか分からないです。
あなたは間違いなく認識変更できます。
要は、視点の幅を広げることがポイントなんだと思います。
スマホで例えるなら、思考や観念などで構成されている「自分」が、アプリケーションであり、意識、つまり「別の領域」が「OS」なんですね、この構成に気付いてください。
APPからOSは、絶対に知覚できません。
だけど、APPはOSがないと立ち上がりません。
だから「思考できる」ということは、「OSはある」という証拠です。
ループする理由は、このアプリケーション内で実現しようとしている、ということです。
それは不可能なんですよ、なぜなら、このAPPは「展開する」ことしかできない。
OSは、様々なAPPを「創造」できます。
「既に叶っている」とよく言われますが、ニュアンスとしては「創造」のほうが近いと思っています。
そして、エゴはひとつのAPP内で、世界の全てだと勘違いをしているんですよ。
APPはひとつではなく、無数に創れるんです。
認識の変更とは、それに気づく、ということなんです。
そして、気づいたら今のAPPを落として、違うAPPを立ち上げましょう、ということなんです。
だから、「充足を見る」っていうのは、違うAPPもあることに気付いてください、ということです。
APPの落とし方は、「思考しない」、もしくは、「関係なかった」と、ばっさり捨てることです。
そして「充足をみること、ワクワクすること、快になること」は、違うAPPを立ち上げることになります。
APP内で考えていることは、OSには何も繋がっていないんですよ。
文字通り、関係ないんです、なので、今のAPPでは願望自体が虚構なんです。
でもOSからしたら、実現させているんです。
「願望を追っかけるゲーム」APPを立ち上げてるから、実現するわけないです。
だから、APPを一度落として、「願望入れ食いゲーム」APPを立ち上げてください。
同じ願望でも、こちらのAPPで設定してください。
これが「立ち位置」とか言われていることだと思います。
感覚で得られた情報から離れることはできますが、何年も収穫がありません。
視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚は、単に感じる器官です。
その後の判断がエゴで、自分だと思っている存在は全てエゴで、本当は存在してません、すべて対象物の反応なんです。
その反応は光速なので、あたかも実在しているような錯覚を持ってしまいます。
そして、「願望=欲しい」としてしまうのが、「願望を追っかけるゲーム」APPを起動してしまうキーです。
「願望=持っている状態」が本当です、ここに気付きましょう、それが認識の変更です。
本当に関係ないです、何も繋がってないです、繋げて勝手に認識しているんです、この世界は認識で出来ています。
「願望=欲しい」と浮かんだら、「関係なかった、捨てよう」でいいんです。
それが難しいなら、「願望」「欲しい」自体を捨ててしまってかまいません。
あと、思考は生命活動が続く限り出てきますから、不都合なことは採用しない、「都合がいいものは採用する、認識する」くらいに、軽い感じでOKです。
あと、私が認識変更に至った経緯も話しておきます。
全員にあてはまるとは思いませんが、ひとりでも気づいていただければ幸いです。
私も少し前までは、願望なんて努力して行動して運がないと叶わない、ないもんはないんだと、もんもんとしてました。
潜在意識やチケットを知って、「こうなればいいな」という気持ちが大半を占めていました。
最初に疑問に思ったのは、上司とのたわいもない会話です。
仕事のことで上司に相談していたとき、「好きの反対は嫌いではなく、無関心なんだよ」と言われたことがありました。
「確かに興味なければそうだよねぇ」くらいに、右から左へ軽く聞いてたんです。
それならば、「嫌いの反対は何だ」と聞けば、それも「無関心」だというのです。
上司曰く、その意味は、対象を頭の中に持っているかどうかであり、好きも嫌いも、頭の中に、その対象が浮かんでこないと認識できない、そもそも、認識がなければ、頭の中に出てこない、そのうえで、好きか嫌いかを判断しているんだ、というのです。
確かにそうだと、その時は納得したんですね。
そして、通勤中にまとめサイトを覗くことが日課になっていた私は、その日もサイトを見ていました。
その時、「ない」というのもただの判断ではないか?」と、ふと疑問に思ったんですね。
だって、本当になければ認識ができない、というか、そもそも思考にも出てこない、それなら、なんで「ない」って認識できるんだろうか?」と疑問を持ったことから始まりました。
ということは、対象は実在していて、自分で「ない」って判断してたってことなのか、と思いました。
そこから「チケット」を読み直してみると、やっぱりそうだった!と思いました。
最初に「チケット」を読んだときは、「こういうふうになりたいなー」くらいだったのに、「もう既にあるじゃん、自分で決めたらいいじゃん」と思いました。
これが最初の認識変更でした。
しかし、このままでは「叶ったり叶わなかったりで、願望入れ食い状態とは言えませんでした。
「何が悪いんだろうか、観念か、欲求か、手放してないからなのか」と、ここでくるくる回りました。
アファや自愛、セドナなど、メソッド漬けでしたが、それでも変わらない。
「叶えるためにやってるのが悪いのか!」と、ここで爆発しました。
「もうわからん、知らん、チケットも潜在意識も引き寄せも全部すてる、こんな考えも全部捨てる!」とわめいたんですね。
そしたら、「あれ、この思考ってどっからくるの?」と疑問がわきました。
「そりゃもちろん自分でしょ、あれ、自分って何だ?」、「自分って自分、あれが趣味で、これが好物で、この仕事してる・などの自分」、「じゃぁ、その自分ってどうやってできたのか」、「そりゃあ、こんな経験があってこう学んで、こう成長したんだ」、と自分の中で会話してきました。
その途中で、観念や欲求を捨てる知識も持ってたので、不都合なものは消していこうとセドナもやりました。
「この記憶を削除します、あれ、これ全部消したらどうなるのか」、というか、「消せるってことは存在していないってことじゃないか」、ということは、「自分と思ってるこれも、もとから存在してないのか」、と気づきが生まれました。
というか、「この世界って意識しかないんじゃないか、今見えているものは、この不確かな自分がそうさせてるんじゃないか?」と、その瞬間わかりました。
今まで自分が決めて抵抗していたこと、そんな自分が考えている思考に意味がなかったこと、
そして、本来の意識とも関係なかったことに気づきました。
幻が幻に反応して、その連続が続いて、あたかも実在しているように感じているだけ。
要は、自分と思っているAPPを立ち上げて、その中でくるくるしていただけだったんです。
多分、この先の認識変更もありますが、全てが在るうえで、無い自分を選択していたことに気付けました。
それなら、無い自分を選択しなかったらいいだけです。
先人たちが言っていた、実践が大事、認識の変更は人それぞれ、という意味もわかりました。
そして、気づきのきっかけはスルーされやすいので、「意識的に生活する」ことが大事だと思います。
私が言えることは、「みんな思い出せるから大丈夫」ということです。
認識の変更(チケット)のみを目指すスレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1467386279/
305 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2017/12/06(水) 03:25:12 ID:eJYPQayY0