「エゴ視点の認識・思考」というのは、意図や行為、出来事から、必ず「遅れる」ということだ。
意図や行為、出来事が起こったり、与えられたり、湧いてきた後からでしか、エゴ視点の認識・思考は生まれない。
つまり、エゴ視点の認識・思考は、常に、必ず「後付け」だ。
例えば、住宅街をのんびりブラブラ散歩していると、何かを見て、何かを思う。
「エゴは後付けの認識」という観点から説明すると、「すてきな家を見て、こんな家に住みたいと思った」、となる。
この、何かを見て、何かを思った時点までが全自動であり、私であるエゴは関与していない。
つまり、この時点での「思ったこと」は、「起こったこと、与えられたこと、湧いてきたこと」だ。
細かく状況をみれば、「散歩している」というのは後付け認識であり、「家を見ている」というのも後付け認識であり、「すてきな家だな、住みたいな」と思うのも後付け認識だ。
そしてこの後に、「こんなすてきな家に住みたいな、と私が思った」というふうに、「私=エゴ」の視点から「認識」する。
この時点で、「世界と分離」しているということだ。
さらにその後、「金持ちなんだな、高いだろうな、夢のまた夢だな」、などなど、私であるエゴの「思考」が展開する。
この一連の流れは、「いまキッチンで水を飲んだ」ということを、水を飲んだ後に、ダイニングテーブルまで戻ってから気付くのと同じことだ。
しかも、後付けの認識・思考でさえも、実は「起こっているだけ、与えられているだけ、湧いてきているだけ」だとしたら、もう私たちには、何もすることができない。
できることは、ただ全てを見ていることだけ、全てを受け入れるだけだ。
「願望に気付いたらそのまま放っておけ、楽しく普通に暮らせ」と達人は言っている。
これが腑に落ちたら、「何もしない」、「願望の手放し」、「自愛」の本当の意味が分かるのではないでしょうか。
もう私たちには何もすることができない、と言いましたが、これがいわゆる、「自由意志がない」ということなんだけど、「もう現状を受け入れるだけで、どうにもならない、願いは叶わない」ということではない。
こうしたい、ああしたいという「意図が湧いてきた」こと、「私であるエゴが願望として認識したということは、今から「本当の私である世界は、この方向に流れていきますよ、展開していきますよ」という知らせだ。
意図や行為、出来事はすべて、「勝手に湧いてきている」んだから、
そのまま、放ったらかしにしておけば、勝手に全自動で」そっちに流れゆくということだ。
言い方を変えれば、「既にある」ということになるだろう。
また、「願望は実現する」、「幸せはデフォルト」、ということになるだろう。
意図や行為、出来事すべてが、「勝手に湧いてきている」のなら、無いものが「湧いてくるはずがないし、湧いてきようがない。
既に在るものしか「湧いてこれない」ということだ。
なぜなら、「現実に」湧いているんだから、当然「既に在る」としか考えられない。
「無」は、あくまでも「無」である。
今湧いてきて「在る」と認識しているなら、当然「在る」だろう、なぜなら「在ると認識している」のだから。
では何故、意図、つまり願望は実現していないのか。
それは、願望と、違う方向を見ているから、違う方向に歩いているからだ。
では何故、違う方向を見てしまうのか、違う方向に歩いてしまうのか。
それは、エゴの思考によって、余計な考え、不要な観念が、願望に付着するからだ。
本来の湧いてきたままの願望は、全自動で実現というゴールに向かう。
これは法則であり、重力の法則と同じで、揺るぎない。
しかし、エゴが願望を「認識した段階」で、これまでの記憶や経験という、エゴ視点の限られたデータベースの情報や、エゴ視点の感情によって生まれた思考が付着する。
すると、「それが私の願望である」と「勘違い」してしまう。
この勘違いが、本来の願望とは違う方向を見る、違う方向に歩いてしまうということだ。
エゴの思考である心の声は、たびたび間違うし、アテにならない。
このアテにならない思考を採用し、正しいと勘違いしてしまうから、
本来の願望が歪められ、違うルートを辿ることになり、ゴールに到達できない。
だから達人は」、「思考するのをやめろ」「感情はそのまま流せ」と言っている。
願望と、「思考・感情」を「関係づけるな」と言っている。
願望は、ピュアな形のまま「そのまま」にしておけばいいんだ。
それが「神に全託する」ということ、「手放す・執着しない」ということ、「命綱を切る」ということだ。
認識の変更のみを目指すスレ2
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1456149329/
475 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2016/04/16(土) 19:28:43 ID:zvoknlBc0