
世界で色々なできごとが起こるたびに傷つくし、苦しむけど、でもそれが、無限の豊かさへの入り口だと思っている。

無限の豊かさとは、視界をはみ出すほどの財宝のことではない。
財宝などないのだ、と、理解することである。
あるのはあなたの人生だ。
それはあなたではない、だが、あなたである。
あなたは、あなたの赴くままに従えばいい、それだけでいい。
明日自殺をしても、それはそのような心境になったからだ。
明日事業を起こしても、それはそのような心境になったからだ。
明日アフリカに向かっても、それはそのような心境になったからだ。
なぜそのような心境になった?
それが大いなる意識である。
でもこの表現は持ち上げすぎている。
単に、あなたの人生が、いつもどおり、あなたにそう仕向けているだけのことである。

善悪がないからといって、被害者に強烈なトラウマという観念を植え込むことを、肯定はできません。

あなたが正義を持つように、他者も正義を持つ。
だが、どちらも正義に変わりはない。
ナポレオンは、自国民からすれば英雄だが、敵国からすれば悪魔だ。
あなたの肯定は正しい、私の肯定は正しい。
これが常にあり、そういう世界に生きていることを理解しなさい。
あなたにとっての幸せは、誰かの不幸である。
では、幸せになれないのか?
それは間違いだ。
幸せなんてものは存在しない、そういう視点になれば、幸も不幸も無いのである。

私がきみを中途半端だと思うのは、どうでもいいと言いながらも、やりたい事という欲求に執着する点だ。
全ての執着を手放すという事が、徹底されていないように見える。

あなたの言う通りである、私が学ぶために、あなた方がいる。
私の視点はそうである。
ただ、私が学ぶにつれて、私と同様に、理解が広がる人もいるかもしれない。
なぜ釈迦やキリストが教えを伝えたのか。
それは自らが、まだ足りない何かを学ぶためだったのかもしれない。
覚者に対して、それは妄想だと言われるかもしれないが、確証はないだろう。
では足りない何かとは何だ?
すべてを知っているのに、なぜ人に伝えたのか?
覚者であれば、世界すべてが己、という境地に達する。
だから伝える必要はない。
だがそれは消滅を意味する。
仏陀もキリストも、消滅は記録に残されている、つまり、本来のワンネスの境地に溶け込んでいなかったのだ。
溶け込んでいれば、名を残さない。
しかしなぜ、仏陀やキリストは人に伝えたのだろう?
全部つながっているんじゃないのか?
悟りを開いた者と言われながら、実は修行を続けていたのではないだろうか?
修行を続けていたということは、欲していた、ということである。
それは、ワンネスとはかけ離れた分離の世界である。
なぜ、分離を生きていたのか、それは本来の宇宙の原理の目的を、果たしたかったからだ。
人の優しさは、出来事を通じてしか、体験できない。
それはつまり、人生が運んでくることであり、自ら発生できないからだ。
つまり分離があるゆえに、優しさを感じることができる。
釈迦もキリストも、それを当然理解していた。
意外なことに、彼にも我々と同様に人生に生きていたのだ。
だから多くの人の人生=自分にもたらされる愛を、観ていたのだ。
だから私は学ぶ。
あなた方も何かしら、学んでいる。
だから感謝しかないのだろう、ありがとう。
みんながいるから、私は学ぶことができる、私は存在を与えられている。

仏陀やキリストはワンネスの中にいる。
でも大衆は分離された自我の中にいるんだよ。
彼らが教えを説いたのは大衆が苦しみの中にいることを知っていたから。
自分と同じ境地に来て欲しかったんだろう。

同じ境地にきて欲しい、というのは、あえて分離をしていることだ。
なぜ仏陀やキリストが、わざわざ分離を経てまでして伝えたのか?
ワンネスにあるならば、伝える必要はないはずだ。
つまり、あなたの言うように、他者を導きたかったのだろう。
だがそれは欲望である。
だがそれは優しさである。
なぜこんなに美しい世界を捨ててまで、解脱したいのだろうか?
苦しみや、ささやかな幸せを享受できる、こんな美しい世界が見えていないのかもしれない。
それは私も同じである。
誰かが言っていたように、悟る者は語らない。
だが、我々が悟りというものがある、それを知っている時点で、悟りを得たものが、語っている歴史があるということだ。
だが、伝えるということは、自我の納得のことである。
つまり、欲望を満たしているということだ。
仏陀もキリストも、みんなわかってくれたらいいな、という欲求を満たしたかったということになる。
つまり、自我に囚われている、という見解になる。
だが彼らには優しさがあった。
優しさもエゴである。
だが、エゴこそ人生であり、エゴこそ苦しみであり、エゴこそ嬉しさであり、エゴこそ悟りを認識するシステムであり、つまりは、悟っていたのだ。
だから、大いに苦しみ、大いに喜べばいいのだ、それが人生だ。
人に伝える、これはエゴだ。
つまり、仏陀もキリストも、エゴに囚われた人生を送っていたことになる。
なぜなら名を残している。
欲望に塗れた人生であり、犯罪者と何が違うのだろうか。
逆に言い換えれば、語らない覚者はそういう人生を送れただけのことであり、犯罪者も仏陀も、そういう人生を送れただけのことである。
ただ、犯罪者も仏陀も、名を残した。
だが、悟る者は語らないという覚者は、名を残していない。
つまりは、我々が行きたい向こう側はこちら側があるからであり、こちら側こそが境地なのかもしれない。
ワンネスであれば、嬉しさも、優しさも、苦しみも感じられない。
ならばなぜ、生まれてきた必要があるのだろう?
大いなる意識と呼ばれるものは、あえて分離を作り、それは自らを体験したいがために、我々を生んだのではないか?
悟りとは、それに反する行為なのではないか?
だから、仏陀、キリストは、分離であることを望んだのではないかと、私は思う。
犯罪者の話では、その犯罪者がなぜ犯罪者たる人生になっていったのかに論点を置いている。
つまり、そのような環境に生まれ育ち、そのような人格にならざるを得ない人生背景が、犯罪者や、オリンピック金メダリスト、大工、政治家、ペットトリマーを作ったのだ。
端的に言えば、それに興味を持つきっかけがなければ、その人生に触れることすらできない。
では、そのきっかけはどのように訪れるのか。
さらに突き詰めれば、興味という切っ掛けを持ったところで、その世界観に次へと進むきっかけPART2が現れなければ、あなたは単に知っているだけで、そのものには成り得ない。
つまり、我々が日頃偶然のきっかけの重なりで、いまに至ると思っていることが、実は、それら偶然と思われていることだけで、あなたという概念、そしてあなたが生きている世界が形成されているのだ。
では、もう一度問おう。
あなたが、ある犯罪者と同じ人生を歩んでいたら、あなたは犯罪を行う以外に無かったのではないか?
なぜならば、いまのあなたの常識判断を、その人生では持ち合わせていないからである。

犯罪者という呼び方が既にレッテル貼ってるし、しかも人生のせいにしているので、微妙だ。
犯罪者と同じ人生を歩んだからといって、誰もが犯罪者になるわけではあるまい。

人生のせいにしているのではない。
あなたをとりまく人生こそが、あなたなのだよ。
あなたは人生の中でしか、意思を持つことはできない。
サッカーという枠の中では、基本的に手を使うことは許されない、これは前提である。
あなたが貧しい家庭に生まれたならば、富豪の暮らしはできない、ただそれだけである。
人生のせいではなく、人生が、そもそもの、あなたという箱である。

記憶が今の自我に影響を与えてる部分はあるが、それだけではない。
何事も人生のせいにする事はできない。

あなたがそう思うならばそうなのだろう、そして、あなたは私と同じことを言っている。
何事も人生のせいにすることはできない、なぜならば、人生という背景こそが、あなたを形成しているからだ。
つまり、人生こそが、あなたなのである。
それをもっと深い視点で感じなさい。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法13◆◆
90 :82:2013/06/21(金) 00:22:16.37 ID:BEbk1Usz