【悟り】【自分さんpart2】裏付けを求める人は、富を得ても、また何かを求め続けるだろう。それは苦しい世界である。あなたは幸せを簡単に作り出すことができる。【自分以外のすべてが自分】

達人part
質問さん
質問さん

仏教を齧ったと思われる人の唐突な書き込みって、いかにも難しげな単語を持ち出して、わかったようなことを主張するだけで、説得力がないんだよ。

達人さん
達人さん

よいことを教えてあげよう。
あなたが説得力のあると思い込んでいるすべての事象、つまり、1+1=2、光合成や蒸発、ボールは地面に落ちる、栄養、物事のバランスなど、それらの説得力は、どこから来ているのだろうか。

逆にあなたが、怪しげで難しげだと思っているそれらの説得力のなさは、どこから来ているのだろうか。
あなたの捉えるそれらは、あなたの見る、世界という箱庭の中だけのものだ。

地球は自転することで、朝と夜があると、我々の視点は観るが、宇宙から見れば、単に小さい惑星が回っているだけで、朝も夜もない。
それはつまり、朝も夜も同時に存在しているということになる。
理屈で解明しようとすれば、かならず科学なりの裏付けに頼りたがってしまう。
だが、科学は概念である。
それそのものを示すことは絶対にできない。

たとえばあなたが、現在サッカーが好きでたまらないとしよう。
何をしていても頭の中はサッカーのことばかり。
きっかけは、たまたまテレビで見たある選手に興味を持ったことだ。
それまで全く興味もなかったのに、今は火が着いたようにハマっている。
楽しくもあり、刺激的である。
書店やウェブニュースで、まずスポーツ欄が目に留まるようになる。
好きな選手の背番号に関連した番号を、日常で多く目にするようになる。
サッカーという枠を超え、サッカーを通じて得られる精神論にまで達するようになる。

だがあなたは、ほんの少し前まで、サッカーにまるで興味がなかったのだ。
しかしサッカーは、ずっとそこにあったし、それ自体は何も変化をしていない。
変えたのはあなたであり、つまり、あなたがサッカーに概念を創ったのだ。
あなたにとって、サッカーは存在していない。
あるのは、あなたの概念だけだ。

そしてある時、不思議に思うだろう。
なぜあの時、たまたまテレビで、そのサッカー選手を観たのだろうか、それがテニス選手だったら、自分はテニスに溺れているのだろうか

サッカーが好き、芸能人の誰々が好き、ギターを弾くのが好き、コーヒーの香り漂うカフェで読書をするのが好き、など、好きなことに没頭している時、ポジティブな感情が浮かんだとき、その時の心の中をよく観察してみると、その対象は重要じゃないことに気付くだろう。

つまり、好きなことをしている時、ワクワクするAという感情が湧くが、10年後、今とは別の興味を持ったとき、同じようにAという感情が湧いている。

だから対象はなんでも良いのだ。
あなたの中でAを味わえれば、それで最高なのである。

金持ちになりたい。
幸せな結婚生活を送りたい。
世界中を冒険したい。
それらも、Aという感情を浮かばせたいがための手段である。
じゃあ、何かをしなければAという感情は浮かばないのか?

金持ちになった気持ちになってと願望実現の本には書いているが、確かに一瞬、Aな気持ちになる。
だが多くの人は、その裏付けを求めてしまう。
金持ちになった気持ちでワクワクしても、実際金持ちじゃないしとね。
でも実際に、大きな富を得たときに得られるAは、イメージにより想像されたAと同じものである。
裏付けを求める人は、富を得ても、また何かを求め続けるだろう。
それは苦しい世界である。
なぜなら、あなたの宝のAは、最初から簡単に作り出せることを忘れてしまっているからだ。
あなたは幸せを簡単に作り出すことができる。

あなたの目の前にティッシュがあるが、それはティッシュではない。
ティッシュという概念を与えているだけなのだ。
それが本当は何なのか、誰もわからない。
概念とは何か。
簡単に言えば名前である。

海水も、樹木も、石も、動物も、プラスティックも、それぞれ名前を与えてしまったから、個別の存在として認識してしまう。
だが、単なる、地球という物体の一部分であり、地球も、宇宙という物体の一部分である。
我々人間は私は生を得てからと話し出すが、実際には、単に、地球という星に発生したカビと同じようなものである。
そのカビやらコケのようなものが、自他との境界を作り出し、苦しみ怯えて生存している。

我々は生まれたのではない、ただ発生したのだ。
庭の石をめくったしたで、ゴニョゴニョと蠢く小さな虫や菌類と、一体何が違うのか。
樹木や道路の縁石は、ただいまを感じている。
自らが木や石であることすら、認識していない。
ただ感じているだけだ。

言葉を捨てよ。
我々は感覚に言葉を与えすぎている。
じっと脳裏を観察しなさい。
すべてに言葉を付与していることが見えてくる。
街を歩いて視界に飛び込むすべてに言葉を与えない。
ただ、それらが蠢いているだけ、それを感じるだけ。
常に、ただ感じなさい、言葉を捨てなさい。
そうすれば道路の縁石になれる。
朝も夜もなく、暑いも寒いもない、時間もない。
ただ、その時その瞬間を感じるだけ。

何が過ぎ去ろうとも、雨が降って濡れようとも、ただ、それがあるだけ、ただ、そういう事態が起こっているだけ。
自らが何であるかも認識していない。
ただ在るとは、言葉で説明すればこういうことである。

質問さん
質問さん

マネーゲームからの脱出本の内容に、最初は納得できず放り投げたが、今は本の内容には納得できる部分は沢山ある。
まあ、全てが嘘みたいなものだからなのかもしれない。

達人さん
達人さん

嘘であることも、本当であることも、あなたの生涯の中の出来事なのだよ。
つまり、それらはすべて本当にあったことになる。
あなたが証人だからね。
だからこの世界のすべては、あなたなんだよ
あなたから観て、どうしても理解しがたい人生を送っている人が、大勢いるとする。
例えば、子供を虐待しながら円満な夫婦生活を送る人や、行き当たりばったりの博打のような暮らしで将来性もまるで見えない人や、金になるからと、高齢になっても、体を売ることで生計を立てる人など、それでも彼らは生きている、
人生を全うしている。

それが悪か善かは、その概念を持つそれぞれが異なる答えを持ち、子供を虐待する夫婦たちが幸せならば、彼らはとても愛に満ちた幸福な生活をモノにしているのだ。
ちなみに我々は、牛や豚、鳥の悲鳴を無視して、今夜も料理を食べている。
それが善か悪か。
それは重要なのだろうか。
この地球上で起こる暴力や虐待などを含めたすべての出来事は、単なる地球の新陳代謝にしかすぎないのではないか。
さらに、宇宙の視野から観れば、地球こそが単なる細胞のひとつにすぎないのではないか。

そして、宇宙を含めたすべて、それらが描かれている一枚の画用紙には、概念すら存在していないのではないか。
概念がないということは、その存在を認める術がないということだ。

質問さん
質問さん

幸せならば、子供を虐待しようとは思わないと思う。

達人さん
達人さん

それはあなたの基準なのだろう。
だが、それを基準としない人、つまり当事者は幸福なのだろう。
ただ、あなたは幸福になれない、
なぜなら、そういう世界を否定しているからだ。
前にも言ったが、どんな事柄もあなたの生涯の中の出来事なのだ。

嘘も本当も、正義も悪も、あなたの生涯という箱庭の中の出来事であり、それらは確実に存在していた。
だからすべてが等しくもあり、すべてに愛を感じる。
なぜなら、それら、つまり、あなたの創った概念があるから、あなたが存在を感じているのだ。
つまり、それらがあなたである。
あなたの観ている世界こそが、あなたなのだ。

東京は人情のあるいい街だ、という人もいれば、東京は冷たい人の集まりだ、という人もいる。
どちらにしても、そういうあなたの生涯の中の出来事が生まれていることに気付けば、あなたは愛に満たされるだろう。
道を歩いていて、騒音を立てて通り過ぎる若者の車も、それを感じていれば、あなたの生涯の中だけに生まれた出来事なのだ、そこには感謝しかない。

あなたは、さぞ、嫌な光景を目にするだろう。
あなたは、さぞ、すばらしい光景を目にするだろう。
それが人生だが、言い換えれば、あなたの創った概念を観ているに過ぎない。

根源となるそれは常にそこにある。
だがそれを観るとき、概念というフィルターを通して観ることになる。

クラシックが好きな人もいれば、ヘヴィーメタルが好きな人もいる。
悲痛な虐待事件も、スーパーマーケットですれ違った乳母車の、赤子の可愛い笑みも、それが悲痛であるか可愛いであるかは、それは私の概念だ。

発展途上国では当たり前の光景かもしれないし、野良猫の世界では、自らの子供を、足出まといに感じて捨てることは、取るに足らないことなのだ。
だが、それらの事象を知っている私は、それらが私の箱庭の中の世界であると知っている。
つまり、どちらでも良いのだ。
私というゲームという中のイベントに過ぎない。

そこに喜怒哀楽が生まれるだろう。
だがそれも、箱庭の中で生まれたパラメーターみたいなものである。

気付かなければならないのは、箱庭が描かれている背景、紙に書かれた絵を観ているならば、常にそこにあるはずの、紙自体に気付くことである。
あなたの箱庭は、なんとさらに大きな箱庭の中にあったのだ。

質問さん
質問さん

でも、子供が虐待されてる叫び声を聞いて、スルーは出来ないでしょう?

達人さん
達人さん

すまないが、私の人生でそれが起こっているとき、私はスルーできる。

あなたが言っているすべては、あなたがこれまで生きてきて蓄えられた概念をもとに形成されている。
あなたが、それは悪いことと覚えているならば、それは悪いことなのだろう。
では聞きたいが、それは良いことと覚えていれば、それは良いことになるのではないか?
現に良いことをたくさん判断できるだろう。

例えば、今日は恋人と楽しいデート、おいしい料理を食べてきました、あと、試験に合格しました、頑張った甲斐があった、と、良いことばかりの話であっても、その料理が創られるためには、多くの動物が犠牲になり、デートに来ている服も多くの貧しい人たちの生活が背景にあり、そして試験に合格したということは、誰かが悲しい思いをしたということだ。

これらのことがあるから、あなたはデートを楽しんだ。
これが因縁生起である。
すべては調和しているのだ。

現代風の、つまりモダンな認識で、児童虐待は悪に値するのだろう。
だが、その出来事が調和をもたらせるから、その出来事が起こっているのだ。
つまり、犠牲になる動物は、あなたが恋人とおいしい料理を楽しむ為に、起こるべくして起こった出来事なのである。

聞くのは辛いかもしれないが、日夜騒がせる児童虐待のニュースは、あなたのためにあるのだ。
因縁生起とは、そういう意味である。
般若心経で詠われる内容はほぼ、こういうことだ。

ひとつ言えるのは、これらは、あなたという人生の箱庭の出来事である。
だからすべてを等しく受け入れる準備が、あなたには必要だということだ。

質問さん
質問さん

すべてを等しく受け入れる準備、その準備は相当かかると思う。
その感覚を完璧に壊すことがマネーゲームからの脱出なら、私は脱出不可能です。

達人さん
達人さん

あなたが掲示板に書き込みをしているとする。
それだけで多くが犠牲になっている背景がある。
あなたはそのことを知れば、そうはなりませんとなるのだろうが、それを知らない今は、それすらも概念に浮かび上がらない。

あなたがどれだけ貴重な今に在るのかわかるだろう。
だが、そのいまに気付かない限り、すべての犠牲は報われないのだよ。
そしていずれ気付く。
すべてがあり、自分があるのだ と。
つまり、すべてが自分である、とね。

だけどあなたは優しい人だ。
あなたはそういう世界に生きているのだろう。
あなたの世界は、あなたの概念だからね。
私はたまたま、こういう世界を知ったまでであり、あなたも私も完璧なのである。
これを聞いている人も、完璧の世界に生きている。
つまり、我々は完璧に失敗しているのだ。

自己の確立に失敗していることに気付き、そしてそれを受け入れることで、全体が見えてくる。
理解に時間がかかる人はかかる。
でも己の欲求のみに生きているような、つまり本能のみで生きている虫のような人は、理解に時間がかからない。

◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12◆◆
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/esp/1367946032/
615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/11(火) 20:58:47.28 ID:r1XBrKf4

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