
恋愛などを石ころにするにはどうすればいいんでしょうか?
恋愛のことを考えずに日常を過ごせばいいってことなんでしょうか?

例えばね、基本的にモテる人ってのは、それが当たり前だと思っているとか、あと、そもそも恋愛に対して重要性を抱いてないとか、そういう人でしょう。
どちらも、モテるということに対しての認識は石ころみたいなもんだよね。
「当たり前」か、「どうでもいい」か、どちらかなわけ。
どちらにしても現象面には「手放し」状態だよね。普通に暮らしてるだけ。
だからその、恋愛を石ころにするにはどうすればいいかというとね、
前の話にも関連するけど、石ころにするのを諦めればいいの。
例えば、モテたいなら、モテないということを100%受け入れて、モテることを諦めてしまうことなんだよ。
諦めたから、どうなっても構わないというスタンス。手放しだよね。あとは普通に暮らせばいいよ。
現実的な話をすれば、どうなっても構わないというスタンスなら、異性に対する媚びもなくなるし、自然に振る舞えるようになる。
同性のように自然に話せるだろうし、一緒に遊びたかったら自然と誘えるようにもなる。
そういうスタンスで普通にいれば、そりゃ、モテるようにはなるでしょう。
あくまでも例え話だけどね。

現象化を諦めろとおっしゃってますが、今まで諦めたけど叶わなかったもの、思い起こせば色々ありました。
完全に諦め忘れていたのに、なぜ叶わなかったんでしょうか?

あのね、諦めるってのは、作為的に何もしないようにするとかではないよ。
そういう風に捉えて、敢えて何もしなかったらニートになるしホームレスになるのは当たり前。
すべきことじゃないんだから。
的に矢を当てるのを作為的に諦めても、矢が当たるわけないでしょ?散々それは言ってるよね。
諦めたから、手放したからなにもしませーん、じゃないの。諦めるってのはそれだけで完結するもの。
諦めたから自由ではあるが、支払い期限がきたら大人しく支払うし、仕事もお金がなければするんだよ。
諦めるというのは、何かを敢えてしないようにするのではなくて、普通に暮らすってことなんだよ。
作為的に諦めて、作為的に全ての取り組みをやめたり、手を出さないようにするのではないの。
それは、諦めることに対する誤解。それは、突き詰めれば自殺になるでしょ。
そうじゃなくて、諦めたうえで、それでもことに臨むんだよ。
勝負事に対して、勝ち負けを気にせずことに当たるようなものだ。
なんで諦めるだけなのに、何もしないようにしたり、支払いをやめたり仕事を辞めたり、
相手に連絡を取らないようにする、相手を殺す!みたいな発想になるの?(たとえだよ)
そりゃただの、自暴自棄だよ。

なんで一日中ネットに張り付いて ここでレスしてるんですか?仕事とか他にすることは?

煽りじゃないならちゃんと答えるけど、それ、全てあなたの偏見じゃないかな?
そもそも、割と書き込みにブランクはあったし、他の有名な達人さんとやらは、ほとんど年単位で板に張り付いていたように思うよ。
あれだけのテキストがまとめになるんだからね。
でもそれ、別に悪いことじゃないと思うよ。
単にそれだけ余裕があるんでしょう。
実現報告はあなた方の益にならないから、しないようにしてるけど、やりたい仕事やら人間関係、全て叶ってるし、お金にも困ってないし、時間は腐る程ある。
その中で、バリバリ仕事をして、やりたいこと見つけてやって、プライベート忙しく駆け回るのもいいけど、それはあなたから見た、いわゆるリア充・達人の捉え方だし、今は割とダラダラしているのが好きなんだ。
とてもプライベートは充実してるよ。 ここに書き込むのも好きでやってるし、面倒になったら離れる。
もし、君が仕事バリバリこなして、プライベート忙しくしたいなら、そうすればいいし、私もそうしたい気分になれば、そうするだろう。
「諦めて過ごしてた、普通に過ごしてた、けど、何も叶わなかったんだけど!どういうこと?」みたいなのは、私のレスをちゃんと読んで欲しい。
諦めたら叶うとかいうわけじゃないんだよ。
諦めることだけに限らず、「~すれば、叶う」なんていうアドバイスの「~」の部分なんか当てにならない。
私はそういう観点から話してないよ。そこは全然重要じゃない。
諦めろとか普通に過ごせとかいうのは便宜上そう表現してるだけだから、メソッドとして捉えられてもニュアンスが違ってくる。諦めるのは「すべきこと」ではない。
私の書き込みをどういう視点で読むのかにより、矛盾が出てくるかどうかも変わってくる。
叶えるための方法論として読まないで欲しい。

そもそもの「無い(だから)得る」 というのが知覚不全。
というか、もはや「得る」という概念そのもの自体が知覚不全(?)
最初から「全て既にある」。
なので「全て既にある(だから)もう持っている」というのが知覚完全。
こんな感じですかね?

ほぼその通り。ただ、知覚完全にはなれない。基本的に私もあなたも知覚不全。
なぜなら、知覚するということ自体が、「全てある」ところから、
知覚しているものだけに焦点を当てている状態だから。
その前提で生じる思考やら行動やら、感情やら何やらは、今見ているものが前提、つまり、今見ているもの以外が「ない」が絶対的前提になっている。
どうあがいてもそこからは逃れられないわけだね。
知覚不全というか、知覚=不全(全の否定)なの。
壺を見たら顔を見れず、顔を見たら壺を見れない。まさにルビンの壺。
基本的に私達は常に、今ここにない何かを得ようと動いている。
だから、今を知覚してる自我のいうことなんてのは、未知の全てある領域からしてみれば、どう転んでも正しくなんかないわけ。
どう転んでも正しくないなら、諦めて(手放して)普通に暮らすしかない。
まさか死ぬ訳にはいかないんだから。その中でやりたいことがあればやる。それだけ。
それで、落ち着かないなら叶った自分でいるだけ。
あとは知らない。わからないんだよ。全く。何がどうなるかなんてわからない。未知だからね。

過去に手放して叶った経験が何回かあるから、それを利用して、手放して「叶えよう」としちゃう。

そんなあなたに、ってわけではないけど、いいメソッド思いついたから、
それだけ書いて寝るね。
「今日が終わったら死ぬと仮定して生きてみる」メソッドだ。
今日で死ぬんだから、願望なんて叶うの待ってられないだろう。
今の状況で、やりたいことが出てくるから、それをやる。
何もやりたいことないや、家でゆっくりしたいな。
とかでも、それをやればいい。
その次の日、状況は少し変わっているだろ?
その日も、今日が終わったら死ぬと仮定して、与えられた状況の中で、生きてみるんだ。
それを繰り返す。
今日が終わったら死ぬんだから未来に期待を抱いてる暇はない。
願望を叶えるためにではなく、やりたいことをやらないと損だろ。
その心持ちで過ごしてみるといい。
あ、願望を叶えるためにやらないように!笑
今日で死ぬんだから、意味ないぞ笑

俺はどんな願望でも叶えることのできる男になったが、どんな願望もゴミにしか思えないのだ。
一体俺はどうしたらいいんだ?

面白いレスがあるねえ。
前も言ったけど、あなた方は呼吸をするたびに幸せを感じるかい?
この方にとっては、呼吸に限らず、今や全ての願望は呼吸をするようなものだ。
だから、願望の実現から幸せを得ることはできない。
この方の言う究極的な幸せは、現象的なものでは、もう永遠に「感じる」ことはできない。
何を実現したって同じ。世界平和だろうが、空中浮遊だろうが、テレポーテーションだろうが、死者の蘇生だろうが、タイムリープだろうが、おんなじ。
というか、実現できる領域が拡大すればするほど、物事に意味はなくなり、人が求めている「幸せや愛情」などという、概念としての意味は求められなくなる。
金持ちが金に幸せや意味を持たせられなくなるのと同じ。
人が求めてるものというものは、常に「好ましい刺激」であり、それは、とても皮肉に満ちたものなんだよ。その好ましい刺激を、人によっては幸せとか愛とか、定義してるけど、どれも同じものだ。

潜在意識を「活用」し、願望を自在に実現する状態を「目指す」ということは、つきつめていけば、現象面に、好ましい刺激、夢や希望、大切さ、意味、重要性を感じられなくなるということだよ。
それが良いか悪いかとかではなく、そうならざるを得ないんだよ。
だから、段階的に実践をしていく中で、段階的に潜在意識の「活用」が上手くなってしまうのは、実は、とても不幸なことだ。
なぜならそれは、「求める」という自我の構造の中で、それに依存し、維持し、張り付いたまま、「求められることは必ず得られる」領域を目指すことだからだ。
求める立場で求められることが必ず得られる立場になってしまったら、この世は最高につまらないものになる。
たとえるなら、チートを使って、レベル99ステータスMAX状態でRPGをやるようなものだ。
「ゲームをやることによる幸福感や楽しさ」という刺激は依然として求め続けたままなのに、そんな状態になってしまったら、絶望しかないだろう?
最初は楽しいかもしれないが、とたんにクソゲーになる。
ゲームをやることで幸せや楽しさが得られる立場にいる限り、チートを使って願望を実現するのが当たり前になってしまったら、結局はクソゲーになるんだよ。
だからね、潜在意識の活用なんてのはチートを使うことなんだから、まずは実現の喜びがなくなってしまうことを覚悟しなければならなかったんだ。
ゲームをやる幸福感がなくなってしまうことを覚悟しなければならなかったんだ。
「求める」という自我の立場にいる限り、全てが実現するようになってもクソゲー、実現しない状態でもクソゲー、という八方塞がりみたいな状態になる。
「今ないものを求める」という自我の構造に気づかないと、たとえ全てが実現したとしても、いや、全てが実現してしまう状態からこそ、自我は絶望する。
今ないものが求められなくなってしまうから。

結局は霊的な幸せとかに辿り着くんかな?

物理的な幸せに意味がないのはそうなんだけど、霊的な幸せとやらにも意味はない。
サイババや霊的な幸せが最終的に目指すべきもの、とかそういうことではないんだよね。
いろんなものに意味を見出すから、「今ないものを求める」という構造の中に落とし込まれるし、幸せとか愛情とか、そういう形のない概念的なものを求め、さ迷い歩くことになる。
どれだけ実現能力が高くなっても、そこが変わらないと、何も変わらない。
この方を何度も引き合いに出すのもアレだけど、実現能力だけがどんどん飛躍を遂げてしまうと、それはそれで、悩みも出てくるんだ。掲示板で、達人と呼ばれる人の中にも、そういう人は少なからずいると思う。
ちょっとニュアンスは違うけど、宝くじが急に当たった人みたいなもんだ。
全てが容易に満たせるようになって、急に虚しくなるんだ。
これが特定の願望についてだけの虚しさであれば、他の願望に目を向ければいいだけの話だが、全的に全てが満たせるようになってしまったら、全てが虚しくなってしまう。
よく言うじゃないか、貧乏人に宝くじが当たったら不幸になるとか。
「今ないものを求める」ということがいかに馬鹿馬鹿しいことか気づけば、それでゲームは終わるだろう。
願望が叶うとか叶わないとか、幸せとか不幸とか、そういうものを超越することだよ。
ぶっちゃけ、ただの精神論でいいんだ。
そこに「願望を叶えるため」とか、そういう意味や理屈はいらない。