【方法論】【詭弁さんpart25】「選んでるんじゃない。記憶によって全て選ばされているの。」全ては記憶の産物であって正しい判断ではないということだよ。記憶が変わればいとも簡単に形を変える。

達人part
【方法論】【詭弁さんpart25】「選んでるんじゃない、記憶によって全て選ばされている」全ては記憶の産物であって正しい判断ではないということだよ。記憶が変われば、いとも簡単に形を変える。【再編集】
質問さん
質問さん

今を楽しむ生き方について お話をお聞きしたいです。

達人さん
達人さん

よくいうよね、旅行は計画してる時が一番楽しいとか、恋人は付き合うまでが楽しいとか。
私のレスを読んだなら、認識が進んでるだろうから、踏み込んだことを話すね。

あなたは、川が上流から下流に流れることを止めようとは思わないよね。
それと一緒で、今を生きようとする試みも、実は、川が上流から下流に流れるのが気に食わないからそれを止めようとするのと一緒なんだよ。
お腹が減るのがむかつくから、お腹が減るのを止めようとするのと一緒なんだ。
結局これは、よく言ってるようにゲームをやめようとするゲームなんだよ。
願望実現に触れる人ってのは、大筋の辿る流れってのがある。

まず、ゲームに勝とうとするんだ。最初のうちは勝てたり勝てなかったりする。
うまくすれば常勝気味になるが、例え勝ち続けてもつまらなくなる。
だからこれは不毛だと看破し、ゲームを辞めるゲームをはじめる。
でも、結局これすら同じ枠の中で起こってることなんだ。
ゲームを辞めるゲームがうまく行ったところで今度はまたゲームをやりたくなるんだよ。

達人さん
達人さん

お腹が減るのをやめたら、お腹も膨れなくなるから、美味しいものを美味しいと思って食べれなくなる。
それが不満と感じるようになるんだよ。それが、永遠に繰り返されるだけだ。

何とかゲームを抜け出そうとする試みすら、ゲームの中で起きている。
全ては、世界という対象物によって、当たり前のように引き起こされる、条件反射のようなものだ。
その条件反射をどうにかしようともがくから、苦しみに対して二重に苦しむことになる。
だから、ゲームからは逃げられないことを受け入れること。
あなたはわざわざゲームをやめるゲームをすることはない。

不満を何らかの方法で潰しても次の不満が湧いてくることがわかっていれば、向き合い方も変わるだろ?
ゲームをやめられないことがわかれば、ゲームを辞めるゲームもやらなくなるし、ゲームにそこまで入れ込むことも少なくなろう。
ゲームからは解放されないが、それを知れば、「解放されようとする不毛なゲーム」からは解放される

上善は水の如し。
やめられないからこそ、抵抗をやめ、無理に楽しもうとするのをやめ、全て受け入れて、自らを水として捉えることができる。
自ら(思考や感情)が水のように生きようとするのではなく、自ら(思考や感情)が水のようなものと気づける。

理不尽な仕打ちを受ければ怒りが沸き、好きな芸人のネタを見れば笑う。
それは、水が冷たい風にさらされれば凍り、暖かい陽気にあたれば溶けるのと同じこと。
それは当たり前のこと。その思考や感情が沸くのは、ごく当然のこと。
楽になりたいなら、楽になるために水のように生きるのではなく、楽になりたいと思う心そのものが水のようなものと気づくことだ。

質問さん
質問さん

何もしなくてもいいし、何をしてもいい。こういうことなのかな?

達人さん
達人さん

あえて「する」ことはないよ。
それは、あなたの思考や感情が水のように生きることを心がけようとするただの「反応」でしかない。
いいかい、ここはとても大事なのだが、思考や感情が意識して水のように生きようとするのではない。
私の書き込みを見て、あなたの「思考や感情が意識して水のように生きようとする」その反応そのものが、まさに水そのものなんだよ。

いわば、氷が、日差しという反応を受けて溶けただけだ。
氷には、自らで自ずと水に戻る選択肢は与えられていない。
熱という刺激を受けなけば、水に戻ることはない。
逆説的に言えば、そういう刺激を受ければ常に水になるという反応が否応無しに起こる。

選んでいるつもりが、常に選ばされているんだよ。
それが、思考や感情というものなんだ。
そこに間違いも正しいもない。
ただそうあるべくしてあり、そうなるべくしてなったんだ。

だから、あなたが私の書き込みを見てどう思おうが何を是としようが、そこに本質的な問題は何一つない。
それはそういうものだったということなんだ。
全てが反応に過ぎないのなら、そこに改善の余地も改悪の余地もない。

だからなんだと思う人もいるだろうが、それはそういうものなのだと知れば、「こころ」という不確かな存在が「こころ」自らをどうにかしようとはしなくなる。
くすぐられたら笑ってしまう反応をどうにかしようとは思わないのと一緒だ。
それはそういうものだとしてみるようになる。

で、まあ、それはそういうものとしてみるようになるということは、すなわち「許し」なんだよ。
「反応」が今までに連綿と折り重なり続け、今という瞬間がなるべくしてなり、おこるべくしておこったんだ。
全ての自他、生命、非生命、思考、感情問わず、そうあるべくしてそうなっている。
それを思考レベルで見破ることにより、結局、最終的には全てを包み込む「許し」そのもの、実在・愛そのものに還るんだよ。

質問さん
質問さん

ただただ眺めるしかできない。
あーもうよくわかんないや

達人さん
達人さん

この話は、ある程度認識が進み、願望実現後の虚無感やループそのものに不毛さを感じていないとピンとこない話だと思う。
どういう話を聞いても、それを利用して願望云々とか、こうすればよいのか?という発想に至るということは、まだ、~を手に入れれば幸せに違いないという感覚が非常に強いんだ。
そういう状態では、どうしても言わんとすることが理解しづらいし、全て反応→だから何だということになる。

同じように自愛も、願望に囚われてるほど、だから何だって感じになるから理解しづらい。
幸せは一時的なもので、過ぎ去るものだという実感が、頭では理解しててもいまいち伴っていないからだ。

だって、全ては反応だからといって、ただ眺めるしかないと言ったって、何のために?それすら反応なのに?
とにかくあなたの中には、願望実現のため、が大元にあるだろ?
そうなっちゃう時は、この話を理解するのはひとまず置いておいた方がいい。

大金以外でもいいから、何らかの願望に強く執着し、手に入れてしばらくした後と手に入れる前の気持ちを冷静に比較することができれば、この話も腑に落とすことが出来るようになると思う。
それまでは、素直に叶えるために、現実的な対処でもメソッドでもなんでもいいから、徹底的にやるのをオススメするよ。

質問さん
質問さん

「なる」などの直結はどうお考えですか?

達人さん
達人さん

なるはシンプルだから、詳しい説明はあまりないな。
強いて言えば「現実がxである。故にyになっている。」という理屈を、「yになっている。」にすること。完全なる自己完結。
「そうであること」に対する証明をしないの。

質問さん
質問さん

「1+1は2だよね…」って感じに近いです。

達人さん
達人さん

ちょっと気になったんだけど、『偽りのあなた』がいなくなれば、『1+1』という表示はただ『1+1』でしかないよ。
なんで、『1+1』=『2』なの?なんで、答えを出せるの?
それが分かれば全ての答えになるよ。
本当は、なにも始まってないし、何も終わってない。
何も不足してないし、持っているものも何もない。最初からずっと、そうだった

ゲームは終わる。いや、終わらせるゲームが幻想であるとわかる。
なぜ1+1が2だとわかるのか、なぜ今が不足しているのか、なぜ現象化を求めるのか、なぜそれを幸せだと思うのか。
偽りのあなた(思考と感情)は何に踊らされている?

質問さん
質問さん

自分が考えたように見えて、実は全て源泉から来てるんだよね

達人さん
達人さん

それも確かにそうなんだけど、もうちょっと言うと記憶があるからだ。
我々の思考や行動、そして感情というものは、常に記憶という名の枠に絶対的に押しとどめられている。そこは絶対に越えられない。

思考や感情は『見たもの』ありきという呪縛からは逃れられない。
なぜそれを幸せだと思い、なぜそれを不足していると思い、そもそもなぜこの文字の羅列が理解できるのか。

全部過去ありきなわけだ。
思考や感情はストーリーに踊らされるしかないから、そこを起点にしていたらいつまでも狭い世界でずっとストーリーに踊らされ続けるだけ。

思考や感情は、そういうものなの。
だからまあ、思考や感情が~しているというより、思考や感情は(記憶によって)~させられている、んです。常に。
選んでるんじゃない。記憶によって全て選ばされているの。
勝手に起こるものといえばそうだし、源泉から勝手に湧き出てきてるというのも間違いじゃない。

例えば、街中で自分好みのタイプを見つけたとして、その人に一目惚れしたとする。
そして声をかけようとするが、恥ずかしくてできなかったとする。
この場合、そもそも、自分の好みのタイプだと思うのも記憶の産物であり、その人とは初対面というのも記憶の産物であり、付き合えたら幸せだなーとか、まだ付き合ってないとかまだ結婚してないとかいうのも、恥ずかしいというのも、だから声をかけられないというのも全て記憶の産物であり、その逆さえも全て記憶の産物なの。
で、これを読んで考え方が変わるのも記憶の産物なの。

だからどうしたっていえば、全ては記憶の産物であって正しい判断ではないということだよ。
何々だから幸せってのは、全部記憶の産物であって、普遍的なものじゃないの。
水を飲めることに大した幸せを感じないのは、我々の記憶のせいで、逆にそこに大きな幸せを感じるのも、その人達の記憶のせいなの。

ゆえに、何々だから幸せーとか不幸だーなんて、結局は記憶に縛られた極めて限定的なもの。
記憶が変わればいとも簡単に形を変える。そして、そこを信じるということは記憶を信じるということでもある。
記憶という前提上でしか振る舞えない思考や感情という部分に自分を同一化するということは、記憶を真実とすることなんだよ。

質問さん
質問さん

思考と感情は何に踊らされているか…
思いつくのは“未来”でしょうか…

達人さん
達人さん

未来というのも間違いじゃない。
前後のレスでも書いているが、思考と感情は、『時間と記憶』という概念に踊らされているんだよ。
思考と感情は、そこから抜け出ることは不可能だ。
あらゆる人の思考も、感情も、行動も、それによりほぼ決定されている。

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