そのままでいいと意図しなくても状況が整う時があるのはなんでなのかな
それは、執着度、重要性の具合によると思います。
今までは状況を変えようと思っていて、そのままでいいと、状況を受け入れたんですよね。
つまり、問題や不足が、そのままでいいって思うことで消えたんです。
叶えなきゃいけない状況があるから叶えようとしてたわけなので、その前提の叶えなきゃいけない状況も一緒に消えたんです。
このとき、心の中の状態に注目すると、わかりやすいです。
そのままでいいってやったとき、すっきりしてませんでしたか?
変えようとしてたとき、嵐が吹き荒れるような感じじゃなかったですか?
現実は内面の投影っていうのは、そういうことだと思います。
私は意図してくださいというのが、あまり得意ではないのですが、それは、幸せに生きるとか充足を見るとか、ざっくりとした全体的な方向性、足を踏み出す方向性だと思っています。
あと、執着度、重要性が低いことほど、意図は簡単だと思いますが、執着度、重要性が低いことは、意図しようとすら思わないですよね。
不足にそこにいてもいいよってやると消えるのは不思議だね、不足を認めると不足じゃ無くなるんだ
そうだね、不足=幻想なのが、よくわかると思う。
今を認めずに、今から遠ざかること、どこか遠くを目指すことがエゴの仕事だね。
意図しなきゃっていうのは、力むイメージがあるので、そこはあまり考えないようにします
自分が特定の事柄に対して、つまり、不足を感じてる事柄に対して、意図するぞと決意するのは、意図をメソッド化してるから、あなたが言うように、力むことになると思います。
チケットの7章を読み返してみたんですが、あなたの願望は叶ってます的なことが書かれれば書かれるほど、願望が叶うためには、7章を適応しないといけないってループしたことを思い出した。
108さんは、あなたの願望は叶ってます、それを見てくださいというので、願望に対する執着心を解除して、エゴを自由にしてくれようとしたのが今ならわかるけど、私にとってはエゴの営みを強化するだけだったなぁ、一気に飛びすぎたんでしょうね。
不足、悲しみ、怒り、焦り、不安。
そして、充足、喜び、笑い、安心。
対極的なこの二つが、相反するものとして存在してるわけじゃなくて、全部まとめてそれぞれ存在していることを知ったから、何々しなきゃ、とか、悲しい、とか、ないというのが沸いてきても、それをそのままでいさせることができるようになった。
今までは、沸いてきたふの気持ちを、どうにか解消しなきゃ、と思っていたけど、これもこれで立派な存在なんだと感謝したら、何かを型にはめたり、切り取ったり、加工したり、どこかを目指したりしなくて良くて、ただ沸いてくるものをそのままでいさせられるようになった。
全部、そのままでいいって手放したんだ。
悲しむこともあるけど、すごく楽だ。
あなたの発言から、私は願望について考える毎日が当たり前になっていることに気づきました。
頭で考えちゃってるときには、とにかく動くといいらしいです。
体を動かしてみると、ほんのちょっとだけ、気分がマシになってる自分に気づく。
気分がマシになってくると、さらに違う考え方ができるようになる。
もっと動こうと思う、そして、徐々に振動数があがってくる。
楽しいと思うことをなんでもしてみてください。
今日1日を丁寧に過ごすって素敵です。
丁寧に布団を畳んで、丁寧に着替えて、丁寧に顔を洗って、いい一日を過ごしてくださいね
私は長い間、どうにかしたいって思ってる気持ちをどうにかしないと、叶わないからどうにかしなきゃ・って、いつもいつも、どうにかしたいって気持ちと戦っていた。
叶わなかったら、すべてが終わる、そんなふうに思ってたから、叶わない世界や、その自分を受け入れたくなかった。
でも、気がついたんです。
どうにかしたい、願望についてどうしても考えてしまう、
それなら、それでも、そのまま、なすがままで、どうにもしなくていいんじゃないか。
今までは、叶えるために、反射的に、解消したい、押さえつけたい、そんなふうに思っていた。
不足が湧き出てきたら、不足を感じてしまっても、それはそれでいいんじゃないか、
思い切り、感じてしまっていいんじゃないか。
人間が生きてるんだから、楽しい感情ばかりじゃいられない。
たとえそれで、うまく仕組みが働かなくて、願望実現ができなくても、しょうがないんじゃないかって、それでもいいじゃんって、底が抜けたんだ。
これが私の7章だと思ってます。
ネガティブと言われる気持ちたちは、ポジティブと言われる気持ちたちに変わって、私を変えるために出てきているわけじゃないんだ。
ネガティブはネガティブだし、ポジティブはポジティブでいい、
それでも私は変わらない。
ただ、そこに在るだけ、在るしかないんじゃないか。
コントロールする必要なんて、ぜんぜんなかったんだ。
全てがそのままで、完璧だった。
コントロールしたい気持ちを手放すのは未だに難しいよ
あなたは頭がいいから、あれこれてきぱきと自分で処理できる、現実的な、しっかりした人なんでしょう。
だからこそ、自分の状況判断に自信があるし、願望が叶わないとどれくらい困るか、その願望を叶えることでどのくらい自分が幸せになれるかを的確に把握していて、だからこそ、より執着心が強まるんだと思います。
私はおりこうさんじゃなくて、うっかりものだし、横着ものだから、丸投げしてしまう。
それは自分が正しくないことを知っているから。
何がなんだかわからないのに叶ったら、ラッキー・ハッピーで、何がなんだかわからないのに叶わなかったら、ぎゃああ・悲しいだよ、それで終わり、それ以上でも、それ以下でもない。
叶わなかったときの、惨めだとか、悲しいとか、そういう気持ちも受け止めます。
それでも自分は自分だし、自分を愛します。
だから、叶わないことが怖くない。
叶ったときの喜び、願望を持てた喜びだけに目を向けるのが、私なりの自愛のやり方でしたね。
あと、叶わない・という判断は、どこの時点でするんだろう。
究極的な話になってしまうけど、期限を区切らなければ、願いは全部叶うと思うんです。
対象を他に移したり、他のもので妥協したりしなければ、いつかはやってくるんです。
って言うといつかでなく今叶えてってなりますよね。
アクロバチックに、今すぐ叶えたい・と思えば思うほど、『叶ってない今』を引き寄せるってのは有名な話ですね。
コントロールしたい気持ちが、湧いてきてもいいんだと思いますよ。
ていうか、そう思ってしまってもいいと思うんですよ、人間だもの。
ただ、それに乗るか乗らないかは、選択できるんです。
コントロールしたい気持ちを手放そうが手放すまいが、実は願望実現には関係ないんですよって言ったら、どうしますか?
いろんな方たちが色々説明しようとしてるのは、思考ではなく、心の中のある状態なんですよね。
自愛が完璧なのは、今の自分で完璧と認めていくと、もう何もすることがないんです、不足も一緒に消えてしまう。これって7章と同じでしょ?
とりあえず賢いご自分は愛してください。
願望が叶ってても、叶ってなくても、とても素晴らしい長所だと思います。
最近、エゴがどんどん小さくなるのを感じて、エゴが動いても、エゴを凌駕する存在が内側にいてそれを笑っています。
isaさんで自愛を学び、桑田さんに世界の不思議を学び、よしおさんにどれも関係ねぇ・つなげてんの自分だろ・とあっさり言われましたが、エゴの作った嘘に住んでた自分に気がついてしまいました。
エゴは関連付けが大好きでした。
あと、引き寄せという概念を知ってしまうと、目に見えないことでも法則や因果を気にしてしまって、執着があるからダメだ、手放せないからダメだ、純粋な愛じゃないからダメだと、さらなる判断基準で内部格闘をしてました。
願望には、良いも悪いも無い。
願望をいだいた時点で、叶ってるし、叶えていい。
ていうか、それが当たり前、そのままの自分でいい。
悪人になる必要も、罪悪感を消す必要も、純粋になる必要も無い。
その願望が、本当に自分にふさわしいのか、その願望で本当に幸せになれるのか、その願望は、常識的に見て叶ったら、自分が悪人になるかどうか、考えあぐねて、ぐるぐるしなくてもいい。
そして、ぐるぐるしてても叶えていい、というより、叶ってる。
自分にその資格がないとか、うまくできてないからとか、何かを獲得するまでに実現を延長せずに、今許可することです。
そのままの自分で叶えていい、そのままの自分でも、それにふさわしい。
というか、なんで受け取ることにそんなに抵抗してるのか、全くわかりません。
だってあるのにね、素直に受け取ればいいのにね。
エゴの力ってすごいですね。
大丈夫だと、108さんも書いていましたが、そのときは何が大丈夫だよ・気休めかぁ・と思いましたが、本当に大丈夫でした。
私は大丈夫なんだと気づくことが、別の領域、7章なんだと思います。
自分の内側がどうあれ、外側の世界は、いつも自分にとって望んだこと、さらに、プラスアルファのことしか起こらない。
まさに、チケットの通りでした。