思考を見ているものを探すと、追いかけっこになってしまって、よくわからなくなります。
思考に気づいている事に気づくだけでは、意味がないのでしょうか。
思考を観ている者を探しても「見つからないよ。
探そうとする者は、「エゴなんだから、探し始めた瞬間に、エゴに同一化しているんだ。
それは「観ている者」ではなく、「観られる方」だね。
そうやって、エゴがあれやこれやと活動している「場」があるでしょ?
それが「観ている者」なんだ。
「観ている者」って言うよりは、「場」といったほうがいいだろうね。
思考が現れている「場」なんだ。
思考を観察していれば、その「場」があることに気づいてくると思うよ。
「場」と言う表現を使うと、「場って何なのかな、私は人間だけどな」っていうように、疑問に思う人も多いと思う。
でも「私は人間だ」というのも思考だし、「私」というのも思考だよね。
となると「ここに私が居る」というのも思考なんだ。
全部が、記憶・思考からの主張だよね。
記憶や思考を基にせずに、今、正に今、そのまんま、ありのままの今を、あえて言葉にした時に、ここに在るのは、「場」、「空間」、「世界」だ。
それらがこの意識上に顕れているんだ。
それは、誰の意識でもないんだよ。
「私の意識」と言いたい所だけど、意識の中に「私」が顕れているんだから、順序が逆だ。
「自分=世界」とか、「私自体が別の領域だった」とか、達人が言っていたと思うけど、そういうことなんだよね。
なぜそのことと、願望実現が結びつくのでしょうか。
「自分=世界」は、自覚・無自覚に関わらず、真実だとして、目の前に広がる世界はコントロールできるものなのでしょうか。
例えば、寝ている時の夢をイメージするとわかりやすいかもね。
夢って意識が作り出しているものでしょ?
「夢の世界=意識」だよね。
その意識が、この世界を「自分の作った夢とは気づかずに、「私」という「経験者」を置いて、夢の世界を体験してるよね。
その「私」というのが、いわゆる「エゴ」にあたるんだ。
そして意識は」、「私」という「体験者」を置いて、夢の世界の出来事に反応して、次の夢を展開させているよね。
夢の中でオバケが出れば、「体験者」は逃げるシーンとか、戦うシーンを体験するよね。
反応によって、次のシーンを「意識は作っているよね。
その構造が、「私=世界」の気づきによって、崩れるんだ。
実は私は」、「体験者」ではなくて、この夢そのものだったんだ」っていう気づきなんだ。
そうなれば「体験者」の経験、記憶も「意味を為さなくなるから、作られる夢も、自ずと「意識が望む世界になってくる」っていうわけだね。
達人の受け売りだけど、この説明が一番わかりやすいかと思うよ。
でも、真実がどうなのかは、はっきりとは断言できないよね。
だって、こうやって言葉で説明してる以上、私が「この説が真実です」っていう夢を見ているわけだからね。
あくまでも「イメージとして理解してもらえると良いかな。
「場」というのは、思考が浮き出ている「背景」でしょうか。
たしかにそれはあるんですが、それが自分だとは思えないのですが、実践していけばわかってくるんでしょうか。
そうだね、思考の起こる背景とも言えるし、今目の前に起こっている現象世界全部が「意識とも言えるかな。
それが自分だとは思えなくても良いよ。
逆に、自分だと思っているものが「エゴ」だ。
それは、思考だったり、肉体だったり、意識に現象として顕れているものなんだ。
それに対して、「自分」というレッテルを貼っているんだ。
でもこれは」、「私=世界」に、完璧に目覚めた時の話で、そこまで目覚めなくても、「世界は私の意識で作られてるんだなぁ」、「ということは、全部在るんだなぁ」、「こっち側で観ている存在が、本当の私なんだなぁ」、「この本当の私は、あらゆる観念、記憶・思考に縛られていないんだなぁ」くらいでいいと思う。
この立場が、いわゆる「選択する立ち位置」なんだ。
過去、記憶、思考に惑わされない「今に在る自分」という立場から選択していくんだ。
願望実現としての自己観察は、長年やって来た結論だけど、「選択する自分、「エゴ」を残しておく」ことだと思っているよ。
自己観察スレ3
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978 : 幸せな名無しさん :2019/04/15(月) 23:48:22 AL/Ww5f60