意図した内容に取り組まないことが、「手放す」方法の一つです。
好きなことをすることで、「意図した内容に取り組まない」ということになります。
「豊か」という状態になったまま、「お金が無い」ということに取り組まずに、「好きなこと」に取り組むという事です。
「好きなことをする」ということは、それに集中しているということです。
集中しているので、そのときは思考が優先されていません。
思考が優先されていない状態が行き着く先は、「ゾーン」というものです。
ちなみに、365日、24時間、1分1秒、ずっと途切れなくゾーンに入るのは無理です。
「願望実現のためには好きなことをすればいいのか」と思われるかもしれませんが、そういう意味ではありません。
あくまでも、意図を手放すための一つの方法だということです。
「好きなことをする」というのは、叶えるための条件ではありません。
「ゾーンに入るために好きなことをする」ということでもありません。
それは結果論であり、副産物みたいなものです。
「好きなことをする」というのを、叶えるための条件として捉えてしまうと、「好きなことをしなければならない」となってしまいます。
強制的になってしまっている時点で、それは違います。
好きなことをするということは 目の前に展開されていることを、ダイレクトに受けているということです。
「ダイレクトに受けている」ということは、現実世界を受けているということです。
現実世界を受けているということは、受け入れているということです、認めていることです。
なので、「好きなことをする」ということは、受け入れて認めているということになり、受けいれているということは、「ある」ということを採用しているのです。
「ある」は肯定的です。
なので、「好きなことをする」ということは、肯定的になるための方法の一つであり、「でも・できる」に繋がります。
自然にやっているようにみえても、いくつかのアクションを起こしているのです。
受けいれるための一つの方法として、「全力で臨む」・というのがあります。
物事に全力で望めば、思考が優先されにくくなり、その結果、ゾーンに入りやすくなります。
運動することも、思考が優先されにくい状態になります。
思考が優先されにくくなると、「気づき」などが勝手に沸いてくることがあります。
「好きなことを全力でやること」、「物事に対して全力で臨むこと」、これらをすることで、意図や問題を手放し 思考が優先されない状態になります。
条件付けすることは駄目であるかのように言いましたが、全面的に駄目だとは言いません。
取っ掛かりとして、条件付けで臨むこともあるかと思いますが、その条件の「しなければならない」という状態を、いつまでも続けているのは意味がありません。
自愛もそうですが、自愛をするとき、「自愛をしなければならない」という状態になっている人」も多いと思います。
「自愛をしなければいけない」というのも、最初の取っ掛かりならいいと思いますが いつまでもそうだと、それはもはや」「自愛」ではありません。
「自愛をすれば何とかなると思っているからそうなる」・というだけのことだと思います。
その結果、なんとかなったかもしれませんが それは副産物のようなものです。
それを期待してするのは自愛ではありません、それとは別に自愛をするということです。
私の解釈は、どこまで言っても解釈なので真実ではありません。
例え話のようなものです。
解釈なので、無限にある中の一つに過ぎません。
答えは無限にあります、唯一の答えはありません。
なので、自分に沸いてきた答えは間違いではありません。
何を選ぶかは自分次第です。
108以外質疑応答【15】
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709 名前:前スレ10 投稿日:2016/08/30(火) 08:13:15 ID:lSkyeJjk0