今、たった今、思い込みや常識、記憶を脇に置いて今をよく見てみる。
するとどうだろうか、願望は叶っているだろうか、叶っていないだろうか?
もし「叶っていない」と思ったならば、何を見てそう思ったのだろうか?
過去の記憶を見たから「叶っていない」と判断したのではないか?
もしくは、「このような状態では叶ったとは言えない」という思考を見たのではないか?
もう一度、「今」だけを見てみる。
よく「今」だけを見た時、そこは叶っていないとも言えるし、叶っているとも言える、
フラットでニュートラルな場所ではなかろうか。
どのようにでもラベルを貼れる、無限の可能性を持った創造の分岐点ではなかろうか。
「いや、何何がないよ」と思ったならば、それはまた思考を見ている。
さらに掘り下げるならば、今見たその「叶っていない」という思考も、今ここで何のラベルも貼らなければ、「今」と同じフラットなものなのではないか?
そのフラットなものに「これは叶っていない記憶である」というラベルを今自分で貼ったのではないか?
今がフラットな場所なら、頭に浮かんだその場面もフラットなのではなかろうか?
わざわざそれに「不足の思考」というラベルを自分で貼り、それを剥がそうと頑張っているのではなかろうか?
そのように気づくと、どんな記憶も思考も恐れることはないのだ。
それは、記憶でも思考でもなく、あえて言うなら「現れ」なのだ。
「現れ」に、「これは記憶、これは思考である」と自分でラベルを貼っていたのだ。
「記憶・思考」もラベル。
「過去」もラベル、「時間」もラベル。
「叶う・叶わない」もラベル。
「願望」もラベル、「神も仏」もラベル、「私」もラベル。
「今」もラベルなのかもしれない。
「無」しかない。
全部自分で貼ったのだ、ラベルを貼ってストーリーを創っていたのだ。
気づき
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1455295724/
44: 幸せな名無しさん :2016/12/29(木) 17:17:21 ID:5x2TGMaM0