私は、「このままの自分でいいんだ」ということを認めて、自分が今いるこの場所で、今この瞬間幸せに浸る」ということを実践しているのですが、悩みが大きくて、不安で必死になってしまいます。
そういうときは、自己観察だけを淡々としたほうがいいでしょうか?
自己観察もいいと思うんですが、エゴに気づくことで、かえってエゴに焦点が当たってしまう人」もいるようですよね。
なので、たとえば不安とか、ざわざわ・もやもやして、思考に巻き込まれてしまうときは、「今にある」ということを意識してみてはどうかと思います。
「今にある」とか、「自分自身に意識を向ける」とか、「別の領域に浸る」とか、「エゴに気づいてる意識に気づく」とか、「別の領域に気づく」とか、いろんな言い回しがありますが、表現に振り回されてしまい、分からなくなってしまった人や、考えすぎちゃって分からなくなってる人に向けて、ちょっと整理してみます。
「今に意識を向ける」というのは、たとえば、目を瞑って、3~4回、呼吸に集中してみてください。
軽い思考停止状態になるかと思います。
そうしたら「呼吸している肉体」が自分なのか、「その肉体を見てる、感じてる、気づいてる」意識のようなもの」が、自分なのか、よく分からないような感覚になるんじゃないかと思います。
そのよく分からない感覚の中で、「意識というものがある」というのは、感じ取れるんじゃないかと思います。
当たり前のように、いつもそこにあった、自分の意識です。
その意識に集中してるときに、架空の過去とか、未来はなく、「今」しかありません。
ということは、「○○がない」という過去の記憶データもないし、「だから○○が欲しい」という、希望とか執着もありません。
「そこ」がすべての始まり、現実の起点ということになります。
エゴからしてみると、なんだかよく分からない虚無なので、落ち着かないので、すぐ思考に戻りたくなります。
その状態を続けていると、周りの音がふと気になったり、皮膚感覚とかに気をとられたりして、いつの間にか思考が出てきたりもするんですが、その思考に引っ張られないように、といっても、強く意思を持つとかじゃなくて、リラックスしつつ、意識としての自分を感じ続ける、という感じでいると、何もない、空っぽの中に、別の領域の感覚である心地よさとか、優しい気持ち、穏やかな感覚を感じやすくなってきます。
慣れるまでは、思考が出てきて難しいと感じる人もいるかもしれませんが、最初のうちは時間をとって集中するとかよりも、「10秒だけやる」みたいな感じで、気軽にやるといいかと思います。日常の中で、ふとしたときに、そこに意識を向けてみる、っていう感じです。
そうすると、「それがなんになるの?」みたいな気持ちになるかもしれませんが、そこの意識を感じてるときは、今ここにいる、「気づいてる意識そのものになってる状態」です。
ここで気づいていれば、「気づいてるだけでいい」と言える状態です。
自己観察で「エゴに気づくだけでいい」というのは、この「意識に気づいてる状態」でいるとき、本来の自分でいるので、エゴなんて関係なくなってしまうということなんですね。
「それがなんになるの?」というエゴの主張が気になるようであれば、その意識でいられていないってことになるし、「それがなんになるの?」というエゴに気づきながらも、その意識であり続けていれば、そのとき本来の自分として、「在る」ことができているということです。
本来の自分として「在る」ことができるからこそ、そこから生じる現象を選べるというか、自分がすべての可能性そのものである状態なので、現象でも調和がとれてくるというか、全部とつながってる場所なので、何もする必要がないという感じです。
あなたが実践している、「このままの自分でいいんだと認めて、自分が今いるこの場所で、今この瞬間幸せに浸る」ということを、10秒、というか、一瞬でもOKですが、体現することが、「今幸せそのものである」ということになります。
なので、悩みを想起してしまったときなどに、気軽にやってみてはどうかなあと思います。
108以外質疑応答【5】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1311180098/
435 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/08/17(水) 16:19:37 ID:psg5Ebes0