【気づき】「選べる立場に立つ」自分が創造主で、すべての権限を持った存在だから、自分が選んだものが正解なんだ。自分が選んだものに従って、現実のほうが辻褄を合わせてくれるわけだ。

体感・気づき・方法論
質問さん
質問さん

「気付けばそれでOK」みたいなことが、潜在意識ではよく言われていますが、「気付いたからといって、状況が変わらない」というのが、延々と繰り返されてる人は多いと思っています。

達人さん
達人さん

気づくっていうのは、「現状に対するリアクション装置になってること」に気づいて、「自分はリアクション装置ではなくて、創造する立場だった」ということを自覚して、本来の自分である、源泉の位置に戻るんだよ。
そこにはすべてがあるので、そこから、自分の好きなものを選べる。

「気付いたからといって状況が変わらないです」ってなるのは、リアクション装置になってることにせっかく気づいたのに、創造できる立場に戻らずに、まだリアクション装置でい続けてるから、状況が変わらないんだ。

先に変わるのは、状況のほうじゃなくて、あなたの立場のほうなんだよ。
状況がどうであろうと、源泉にいる自分に対して「それでいいんだ」と、安心できる立場なんだ。

最初のうちは、いわゆる「タイムラグ」のように、気づいた瞬間に、状況が変化するところまで、いかないことが多いと思う。
それは、まだまだ自分の中に、信頼が足りてないからだけど、自分の気づきに信頼が増せば増すほど、不思議なくらいに、状況は変化するよ。

質問さん
質問さん

今まで私は、思考の対象が常に他人で、少しぼーっとしていると、他人のことばかり考えていることが分かりました。
自愛を知ってから、自分のために時間を使おうと思って、意識的に「自分は今なにがしたいかな」と自身に問いかけてみたら、「しーん」として、何の揺らぎもない、空っぽなものがありました。
他人のことは散々あれこれ思いつくのに、「自分のことだけを考えていい」と言われた途端に、何も思い浮かばないんです。

達人さん
達人さん

あなたは、「ずっと自分を無視して、自分以外のものを見続けてきたんだな」ということに気づいて、「自分を大切にしていいんだ」ということに気づけたんだよね

でもまた、何かをすることで、自分以外の対象を見ようとしてるんじゃないかな。
やりたいことは、見つけようとするものではなくて、自分の中から湧き上がってくるものなんだよ。
だから、自分に意識を注ぎ続けていれば、自然と見つかるものなんだよ。
あなたがまだ、「しーん」としてるなら、もっと自分に愛を注いであげなよ。

「無を見つめてるのが不安」とか、「むなしさや悔しさを感じた」とか、あなたは言っているけど、それだと、自愛としては、まだまだなんじゃないかな。
もっと自分を愛してあげたら、もっと自分を好きになって、心地よくなれるはずだよ。
そしたら、やりたいことがどんどん沸いて出てくるよ。

質問さん
質問さん

私は、気づくことはできるようになりましたが、「気づいた立場から選ぶ」という感覚が、まだよく分かりません

達人さん
達人さん

言葉でいえば、「選ぶ」となるけど、本当は選ぶ必要さえないんだけど、それだけで終わるのもなんなので、もう少し詳しく説明します。

「気づくだけでいい」とか、「気付けばそれで終わり」っていうのは、気づくことで、リアクション装置から創造主である自分を自覚するという意味だと言ったけど、自分が創造できるんだ」ということが、本当に、心底腑に落ちてると、「どうこうしよう」とか、「なにかをする」っていう、エゴ的発想に向かわなくなる。
エゴ的発想というのは、「自分で何とかする」というのが前提の発想のことだ。

つまり、自分から「叶えるために」何か行動をしようとしなくても、右を選んでも、左を選んでも、またはどちらも選ばなかったとしても、どれもが正解っていう次元になる。
なぜなら、自分が創造主で、すべての権限を持った存在だから、自分が選んだものが正解なんだ。
自分が選んだものに従って、現実のほうが辻褄を合わせてくれるわけだ。
だから、気が向くままに行動しても、行動しなくても、そんなことに関係なく、実現する。

これが、「選べる立場に立つ」ということであり、それと同時に、選ぶ必要性はなく、

好きなことをするだけで、「選ぼう」としなくとも、自然にそうなっている」という立場だ。
物理的な物や、行為を選んだり、決定する時でも、自分が心地よく感じるものを指針として、思考ではなく、感性で選べるようになる。

一番大切なのは、「自分がすべての権限を持っている」という、自覚、主体性だ。

それさえ押さえておけば、「何を選べば叶うのか」という視点ではなく、「どれを選んでも、どうせ叶うんだから、好きなことしよう」となる。

そして、欲しいものがあるなら、「それを手に入れた自分」で在ればいいし、特定の願望がない場合は、創造主である自分として、「在りたい自分」でいればいい。
前者が、「なる」であり、、後者が、自己観察だ。

ちなみに、「なる」でうまくいかない人の殆どは、前提が「創造主として、すべての権限を持ってる自分」ではなく、「目の前の現象のほうに決定権を明け渡している、リアクション装置である自分」として、なりたい自分に、なろうとしてる人だと思う。

「在りたい自分でいる」というのは、単純に自分が心地よく感じることを「すること、選ぶことだ。

それは、今この瞬間の自分の感情を、現象次第で、快になったり、不快になったりするのではないし、かといって、「常に快でいよう」とするようなものでもなくて、
快でいようが、不快を感じていようが、それとはまったく関係なく、「ありのままの自分であればいい」ということだ。
怒りたければ怒ればいいし、泣きたければ泣けばいい。
何の制限もなく、ありのままでいられることこそが、最高に心地よいことなのではないだろうか。

これはどういうことかというと、現象に左右されて、「快・不快」になってしまうというのは、現象ありきの、受身反応的な感情だ。
「常に快でいる」というのは、「快でいなくては実現しない」という「条件付けだ。
「快も不快も、まったく関係ない」というのは、感情がどうであろうが、「完全な決定権は、自分自身にある」ということだ。
感情のように、通り過ぎてゆく、不確かなものではなくて、普遍であり、不動の自分に、すべての権限があるということだ。

矛盾を少し感じるかもしれないが、最終的には、「自分に権限がある」という、主体性があるかどうかだ。
その認識がない状態で、現象に反応することと、その認識のうえで、同じように現象に反応することでは、行為としては同じであっても、現象に影響を及ぼす意識のレベルでは、まったく異なる。

たとえ不快になっていても、「叶わないかもしれない不安」が一切なくて、「叶ってる」とか、「どうせ叶う」というのが前提なんだ。

それと、感情、観念といったものは、自分ではないということだ。
「私の」観念とか、「私の」感情というように、「私のもの」ということは、自分自身ではないということだ。

自分自身の在り方、「創造主であることの自覚」だけが、現実を決定するものなんだ。
今までは、感情や観念、その他の「自分以外のもの」に、現象の決定権を与えていたのを、自分に取り戻すということだ。

「創造主」とか、「自分に権限がある」という言葉も、あえて言葉で表現しているので、ニュアンスとして読み取って欲しい。

要するに、すべては関係していないが、「私が生きている」という幻想から、すべては始まっているので、その「私」が、「この世界を最大限に楽しもう」と決めて、たった今そう在れば、世界はそうなるというだけだ。
というわけで、何もする必要はない。

とはいえ、自愛で自分を愛するということも、「生きてることを楽しもう」というものに行き着くし、自己観察的に源泉の意識を持つことも、同じようなものなので、そういったことを通して、段階を経て、自覚していくことでもいいし、それも、自分の「心地よさ」を基準にしてれば、間違うことはない。

あと、「よくわからないんです」とか、「達人さん教えてください」みたいな、自分の心的態度では、自分以外の存在に権限を明け渡していることなので、そこでループしてる限り、なかなか突破口はみつからない。
「理解すれば・変われる」というのではなくて、実現も、理解も、後からついてくるものだ。
そういう態度を改めるだけでも、ずいぶん変わると思う。

潜在意識を使いこなす達人が集うスレ その5
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1315856475/
735 :幸せな名無しさん:2011/09/29(木) 09:26:50 ID:oAxr6/EA0

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