この現状は、「本当の自分」が体験したくて選んだんだという意味を、まだ納得できない自分がいますが、自覚するだけでいいんですか?
私はエゴではまだ納得したくないんだなー、と淡々と気づいてればいいと思うよ。
わからないとか納得できないことは、思考でぐるぐる分析するより、納得できないけどまいいや~、そのうちわかるだろぐらいで放置してたほうがいいんじゃないかな。
気楽にいきましょう
例えば若くして、酷い苦しみを伴う病の果てに亡くなるような人は、そういうのも全部本当の自分が望んだことなんですか?
人生の一場面だけを切り取って考察してみても本当のところはわからないけど、むしろ、本当の自分が望んできたことを否定し続けた結果、制限に苦しむことになったのではないかと思います。
投影結果の中にいて結果を変えようとすると、どんどんフィルターが増えて制限が多い中で生きることになるし、本当の自分が望んでいたことを体験すると、フィルターが消えて、より自由な世界で生きられるようになるからです。
様々な体験は、より自由な世界で生きるチャンスを与えてくれてるんじゃないかな。
これって愛だなと思います。
本当の自分に納得してないのに、これは本当の自分が望んだことだからって考えちゃうと、感情に蓋をすることになりませんか?
納得できないのに、これは本当の自分が望んだんだと、不満を感じることを許さないなら蓋になるでしょうね。
私はある程度頭で理解しながら体験として実践していったほうが、スムーズに認識の変更ができるんじゃないかと思ってるんですが、納得できないことは放置でいいと思いますよ。
本当の自分に気づいてれば、蓋にならないのですか?
本当の自分というより、まずはエゴでどう感じてるかを自覚することじゃないでしょうか。
苦しみも、悲しみも、本当の自分にとっては遊園地のホラーハウスや絶叫マシンみたいなものかな?
だから、いつでも完全無欠に戻れるし、制限のあるゲームを楽しむ事も出来るし、もう乗った後に絶叫マシンはイヤだと思ったら他を選べばいい。
本当の自分は自由なんだね。
そうそう、その自由さをもっと感じて、退屈しない程度に多少の制限を楽しみつつ、要らないと思った制限を外していけば、人生ってほんと楽しいよね!
重たい現実を抱えていらっしゃる方はとてもそんなふうに思えないと思うけど、まずは今よりも自分を深く知っていくことからはじめると、少しずつ状況が動いていくんじゃないかと思います。
現実は本当の自分が望んだことだから受け入れろについては、本当は受け入れたくないのに受け入れたつもりになって、感情に蓋をしてしまうのではとか、とても受けいれられないし、信じたくないとか、いろんな反応があるようですが、基本はisaさんの愛せない自分も愛せと一緒です。
リリースも自愛も全部同じなんですが、自分が何を認めていないのかというところに気づけなければ、何度やっても同じところをループするだけでかわれません。
自分を許す、でも許せない自分も許す。
何を考えていようが、何を感じていようが自分を丸ごと受け入れるということは、本当は認めたくないのに本当の自分が望んでいるらしいから受け入れようとしている自分が、実は本当は認めたくないと思ってるんだということを認めることです。
とてもじゃないけど受け入れられない現実を選んだ自分を恨んでしまう、そんな自分がいても、そんな自分を認めて許すことです。
個人的には、淡々と自己観察して自分に気づいていることが楽だと思ってますが、ご自分のやりやすいやり方で、自分をもっと深く知っていくことが、自由な人生を手に入れることだと思います。
認めたくないものを認めると、なんで現実を変えることが出来るのかな?
例えば子供のころ、親に怒られて悲しいのに我慢しなさいなんて言われたって、素直に受け入れられないよね?
気が済むまで泣いたり物に当たったりしたらスッキリするでしょ?
感情は基本的に、その場で解放してれば後を引かないんだけど、大人になると、感情的になることは社会的に良くないと見られるから、なかなか解放できなくなったりする。
何か嫌なことがあっても全然嫌じゃないよ、私は快だよ、って思い込もうとすると、嫌な目にあった自分の感情が抑圧されちゃう。
で、その感情は解放されて楽になりたいから、何度も訴えかけてくるんだけど、見ないふりしてるうちに、エゴのレベルでは本当にないと思い込んでしまう。
認めたくないのは、このことを認めると自分は不快な感情を感じるだろうからそれを避けたいと思ってるってことを、潜在的には気づいてるのに、エゴ視点では気づけていないってことです。
実際の現実は、エゴで思ってることじゃなくて潜在的な意識状態が投影されてるので、このことを認めると、自分は不快な感情を感じるだろうからそれを避けたいと思ってるということが現実になる。
認めれば、抑圧されてた感情のブロックが解放されるので現象化されないってことです。
認めるのは別に泣いたりわめいたりする必要もなくて、嫌だったんだなー、それを認めたくなかったんだなーと、ただ気づいてあげればいいだけです。
恋愛で相手と音信不通とかまったく動きがないというのは、音信不通っていやだな、ずっとこのままだったらいやだなっていう感情にフタしちゃってるのかな
全く動きがないのは、その人と仲良くなりたいと思ってるのに今の自分じゃこの人に好かれないかもとか、この先に進むことへの抵抗とかがあるのかもしれないね。
でもそこでまた蓋探しをする必要はないんじゃないかな。
過去を振り返ってあれこれ分析するよりも、この先彼と会ってるときとか、彼のことを思ってるときに自分の思考を観ていれば、今まで無意識に感じてた不安とか、コントロールしようとしてたこととかがわかってくると思うよ。
で、自分が今にいることができると、相手にもしっかり意識を向けることができるし、なぜかうまくコミュニケーションできたりするのは、それって深いレベルでつながって作用してるんじゃないかなーと思う。
自己観察する時は、感情に同調してあげたほうがいいんでしょうか?
自分が楽になれるんならいんじゃないかな、自分の感覚を信頼したらいいと思うよ。
例えば蓋を作る人っていうのも、自分の本当の気持ちをスルーして、正しいと思える型に自分をはめようとするから蓋になるんだよね。
自愛とか自己観察の仕方の基本型も参考にしつつも、自分の気持ちを優先してね。
自分の気持ちを疎かにしたら自愛になんないよ。
別の領域の心地よさは、ほんとにひとそれぞれだと思う。
あんまり人の体験に縛られないようにね。
心地よさを期待して感じようとすると余計にわかりにくいのかもね。
何があるのか感じてみようとか、そんな感じでやってみたらどうかな。
現実を変えたい気持ちや、この現実が嫌で堪らん、と思う気持ちも認めていきたいと思います。
そうだね、ネガティブだ、良くないと思ってしまうと、抑え込もうとしてしまいがちなんだけど、ネガティブだろうとなんだろうと、そこに気づいてればいいんだよ、簡単でしょ。
気づいてればエゴと一体化してないってことだからね。
本当の私はエゴじゃなくて、それを観ている本体ってことなんだよ。