1年くらい前にストーカーに嫌がらせを受けてまだ気持ち悪さや怒りが抜けない、自己観察をしてもしこりが残ります
私も昔セクハラを受けたことがあって、そのときは人生最大の屈辱というか、本当に相手に呪いをかけてやろうかと思うくらい激しく怒ったことがあります。
当時チケットは知らなかったけど、現実が自分の投影だということは理解してたので私にそれを引き寄せる要素があったんだと納得しようとしたけど、そう考えると余計に苦しかったです。
まずは7章認識とか、これはエゴの幻想だとかで納得しようとするよりも、自愛で自分の声をとことん聞いてあげるとか、怒りを感じつくしたほうがいいような気がします。
私は本当は、相手のことが思いっきり憎いのに、人を憎むのは良くない、私はそんな人間じゃないとか相手の男は人間的に未熟なんだから私はそれを許してやれる寛大な人間になってやろうとか、そんなふうに良い人間でいようとして、怒りが不完全燃焼でした。
これはちょっと引き寄せとかスピリチュアル的に現実を見ようとしてる人にありがちなんじゃないかと思います。
私の場合は友人に話してもなかなか理解して貰えなくて辛かったんだけど、カウンセリングを受けてみても、知らない人に自分の嫌な話をするというのが苦痛だったので、一回ですぐやめて、結局自分でその怒りに向き合ったほうがいいと思えたのでそうしました。
なので、一人で向き合うのが辛いようだったら心療内科もありだと思いますが、その場合も、ちゃんと心理療法が充実したクリニックを探したほうがいいと思いますよ。
とにかくどんな自分でも許す。
怒りを感じてもいいし、汚されたって思ってる自分も許す。
幻想だから責める必要がないってわかってるのに、責めたいと思ってる自分も許してあげる。
結局7章認識って、どんな自分でもいいって心底思ったときに、なーんだって安心することなんだと思いますよ。
自己観察とか自愛とか、色々なメソッドをやってみるものの続けることができず、何も変わらないのだけど、どうしたら変われるのかな。
人って今の自分ではだめだ、変わらなきゃいけないって思ってるから苦しいんだよね。
でも変わらなきゃって思ってる限り、どんなに変わろうとしていろんな方法を試しても変われないよ。
人生は変わらなきゃとしてる限り変わらなきゃとする自分を引き寄せるので、変わらなきゃというループから抜け出せないようになっています。
そんな自分でもいいんだって思えたときに初めてそのループを切ることができるんです。
フィルターという観点から言えば、変わらなきゃっていうフィルターをつけてるときというのは、
変わらなきゃ仕事がうまくいかない、変わらなきゃ人間関係もうまくいかない、変わらなきゃ何もかもうまくいかない、っていう、変わらない限り○○できないっていうフィルターをたくさんつけてるってことなんだけど、変わらなきゃが変わらなくても自分はこのままでよかったんだと思えたときに、変わらなきゃに支えられてた○○できないっていうフィルターも全部なくなっちゃうんですよ。
そうすると、今まで自分を縛ってたフィルターがなくなるので楽になるし、現実も変わってきます。
自愛は変わるための方法ではなくて、変わらなきゃって思ってたけど、今の自分でよかったんだと気付くための方法だと思う。
自愛は、引き篭もっていようが、何度も失敗していようが、自信がなかろうが、こんな自分じゃ良くない、こんな自分は嫌だと思ってる自分でも、そんな自分でも愛してるよって許して認めてあげることなんです。
自己観察的にいえば、普段何気ない出来事に対して変わらなきゃって思ってる思考の癖に気付くこと、気付くたびに、変わらないでも私は完璧なんだったって思い出すことです。
(余計なフィルターつけてるから完璧じゃないと思わされてたんだ、でももう騙されないもんねという感じです。)
自愛でも自己観察でも、どちらでも自分のやりやすいほうでやったらいいと思うよ。
別の領域を深く信頼することができるようになればなるほど、安心して委ねることができるので自由に生きることができるようになりますが、どんなに理屈でわかっていても、信頼することは難しいと思います。
なので自分がいちばん心地よさを感じられる方法で、別の領域に触れる時間を増やしていけば、段々信頼できるようになると思います。
そのための方法のひとつとして、自己観察と別の領域に浸るということを書いてるんですが、私がよく自愛やisaさんの名言を引き合いに出すので、自愛と自己観察がごっちゃになってる方がいると思います。
別に一緒にやっちゃいけないというわけではないけど、一応違いをはっきりさせておいたほうがいいと思ったのでお伝えします。
まず自愛は、とことんエゴの声を聞いて受け入れてあげることです。
どんな自分でも許す、許せない自分も許す、どんな自分でも丸ごと愛して受け入れる、エゴが納得してくれると愛に統合されていきます。
自己観察は、今の瞬間の自分に気づいていることです。
今ここにいることです。
自分の思考や感情を観察する地点にいる自分に意識をおくことです。
気づいた時点でエゴが静まればそれでいいし、静まらなくても一体化せずに眺めてるほうの自分に意識をおいていれば十分です。
この気づくだけでいいというのが簡単すぎて信じるのが怖いのかもしれないんですが、気付くってことは今この瞬間(=別の領域)に在るってことなのです。
だからこの別の領域にいる自分にもっと信頼できるようになるために、その領域に浸る時間をとることもセットにしました。
自愛が愛してるよーと声をかけ続けてエゴを安心させてあげることに対して、自己観察は淡々と眺めて、自分はエゴではなく別の領域を選択するという意思表示をするようなものです。
両方されてる方は、普段は自己観察して、気付いたエゴを自愛するという感じだと思います。
メソッドとして実践するというよりも、愛とか安心感を感じることが重要だと思います。
引きこもりって、別の領域のほうへ引っ張りたいんじゃないかな
私も引き篭もり経験者だけど、全然悪いことじゃないと思う。
人生はいつだって変えられる、ただし、変わらないでいいと思ったときにね。
そのことに気付くための時間だったと思えるなー。
人生はいつだって変えられる(ただし、変わらないでいいと思ったときに)、というのは、100億もらってもこんな人生嫌だと思うくらいの人生を生きてきた人間には、厳しいお言葉です。
自己観察していると、嫌な気持ちの外に立つことは出来ますが、常にそこに居られない以上、どうしても変えたい気持ち、うんざりする気持ちを感じてしまうのです。
いつになったら、どうしたらこの重苦しい救いの無いような人生を終わらせる事が出来るのでしょうか?
あなたは人生なんてそんな簡単に変えられるわけないじゃん、変わらないでいいなんて思えるわけないじゃんと強く反発してるってことですよね。
自己観察していくら別の領域を感じても、ちょっと気が紛れるくらいでしかない、そう思ってらっしゃるんだろうと思います。
つまりあなたは、人生を変えられるということも、別の領域にそれだけのすごい力があるってことも全然信じられないのだと思います。
私としては、自己観察しながらエゴに主導権を渡さないことと、少しずつでも別の領域での安心感を信頼できるようになれば、個人差はあるけど必ず状況は動きますよ
ということを、何度も書き続けてるんですが、ひどい人生を送ってる方だろうとそうでないかただろうと、私には同じことしか言えません。
100億もらってもこんな人生嫌だと思うほど、それくらい嫌な人生を本気で変えたいと思うなら、こんなひどい人生がそう簡単に変わるはずないと思ってるのは、誰でもないあなた自身なのだから、少しやってみたくらいでだめだったというのではなく、本気でひたすらやってみてはどうでしょうか。
あなたが今まで本気でなかったとは思いませんが、今一度自分の本気度と向き合ってみてはどうでしょう。