本当の自分の許可がないと創造はできないのですか、それとも、在るのにエゴが見えなくさせてるのですか?
どちらかというとエゴが見えなくさせているの方が近いと思います。
かなり乱暴な例えかもしれませんが、常にこの瞬間ごとに、何も知らない生まれたての赤ん坊になれば良いのです。
エゴがこびりつくと、「今は時間が無い」とか、「今は金が無い」とか、色々な理由付けを始めて、創造を曇らせてしまいます。
赤ん坊ならエゴが無いので、時間とか何だとかの偽りの概念が存在しません。
エゴの訴えを「そうか、そうか」と聞いてあげたら、心の問題がひとつ無くなりました。
エゴに蓋をしないで聞いてあげることも重要なんですね。
強烈にエゴが反応するのは、大体、エゴが作ったストーリーの核心部分でもあります。
核心部分が終わると困るので、エゴは強烈に引き戻そうとするのです。
その核心部分に、最も多くの概念や、属性をペタペタと張り付けている事が多いので、それらに気付くだけで大丈夫です。
醜いものや汚いものを見て不快だと感じるのは、私自身が醜く汚いからなんでしょうか?
それは私自身ではなく、エゴの仕業です。
ファミコンのスーパー、マリオはご存知だと思いますが、マリオのプログラマーが世界=自分であり、ゲームの中のマリオがエゴだと思ってください。
プログラマーは、自分の望み通りの世界を創り上げました。
キノコも土管もカメも、まさに完璧な配置で創り上げて、満足しています。
しかし、ゲームの中のマリオにとっては、カメは邪魔だし、土管は飛び越えなきゃいけないし、オマケに、ステージをクリアするのに時間制限もあるし、大変に不快な思いをしています。
マリオは、カメ=すげー邪魔で不愉快、土管=でかいだけで醜い、時間制限=ウザい、キノコ=肝心な時に出てこねえ役立たず、と、次々とレッテルを貼っていきます。
これはこれで、勝手にマリオがやってるだけなので、プログラマーにはどうでもいい事なのですが、いつしかプログラマーが、マリオと自分を同一視し出すと、マリオ(=エゴ)が、レッテルを貼りまくった不快極まりない世界がそこに広がっています。
そして、こんな不快な世界たまらんでござる、と感じて、ネットでスーパー、マリオ、最速攻略動画、とかマリオ攻略スレpart2458、とかを検索しちゃったりするのです。
これでは、エゴの作った嘘の世界で、エゴを満たすために行動しているわけですから、何の変化も起きるわけありません。
つまり、醜いとか汚いとかは、全部エゴがそう思わせているだけなのです。
プログラマーの視点に戻ると、プログラマーは自分の望み通りの世界を完璧にプログラミングしただけなんですよ、そこに快とか不快とかは無いんです、完璧しか無いんです。
言葉を変えれば、全てに愛がありました、とかになるかもしれません。
そのプログラミングに対して、でけえ土管だ、邪魔だ、とか、なんでカメに羽が生えてるんだ、許せねえ、とか勝手に判断しているのはエゴなんです。
何故、プログラマーは完璧な世界をプログラミング出来るのでしょうか。
それは、プログラマーの才能が、そのままゲームデザインに反映されているからですよね。
まさしく、世界はプログラマーそのものの投影と言えるのです。
これが花を見て美しいと感じるのは、花が美しいのではなく、あなた自身が美であるからだ、というのに繋がります。
土管の配置は、プログラマーがやりたいように完璧に配置しているんですよ、だから、土管そのものが美しいのではなく、プログラマーの内面の才能が投影されているから美しいと感じるわけです。
つまり、全て持ってるんですよ、持っているから投影されているんです。
それに対して土管を飛び越えるのキツイぜ、邪魔だぜ、醜いぜ、と喚いているのがエゴであり、それに惑わされるとエゴに操られ、ゲームの中で終わりのないカメとの戦い(=不快や不足を感じること)が待っています。
もっと酷くなると、これはリセットしよう=自殺しよう、と、エゴが喚きだす場合もあります。
プログラマー自身が惑わされれば惑わされるほど、不快や苦しいや醜いが、他人の失敗や、貧困や戦争、その他様々な形で、投影されてくる事でしょう。
しかし、それは決して、あなた自身が醜いからでは、断じてありません、エゴの嘘を信じてしまったが故の幻です。
私の場合、彼氏が出来て、同棲、電撃結婚、というのが願望なんですけど、お友達3人が、この半年以内にバタバタと同棲し、いとこが電撃結婚していますが、どうすれば、自分に実体験として現れるのでしょうか
友達が結婚されたりしているのは、内面の投影なわけですから、すでに実体験されてるといえば、されてるわけです。
エゴは色々と惑わそうとしてくると思いますが、惑わされなければ、何の問題も無いと思います。
結局、「何もしない」になってしまうわけですね。
知覚ではリッチに過ごしている私があると思っているのですが、実際は派遣で働いていて、お金がないのです、どうすればリッチな自分に展開して行くのですか?
それは典型的なマリオ状態に陥っていると思われます。
知覚でリッチに過ごしていると思っていても、それは文字通り、思っているだけで終わってしまうでしょう。
マリオが土管を飛び越えたり、カメを踏んづけたりしてヒイヒイ言っているのに、「カメって素晴らしい」と、無理矢理思っている状態です。
エゴの嘘に騙された状態で、「私って幸せ、俺って素晴らしい」と思っても、それは、嘘の上に嘘を塗りたくるようなもので、1ミリも変わっていません。
そもそも、どうして「貧乏だー」とか、「お金に困っている」とか思っているのでしょうか?
預金が少ないから、狭い部屋だから、借金があるから、派遣だからですか、でも、どうしてそれ=貧乏なんですか、誰が決めたんですか?
それは、エゴが決めただけですよね。
ですから、エゴが勝手に作った話だと、まずは認識するのが良いと思います。
エゴは思考に絡み、様々な物語を作ります。
足を階段に一歩踏み出すだけで、自分の体はこう動いた、自分の足はこうやって動いた、ついでに、自分の目線はこのように動くだろう、とか言い出すと、キリが無いほどに、様々な話を瞬時に作り出します。
足を踏み出すだけで、これだけのストーリーを一瞬で作り出すのですから、普段の生活の中で、いかにエゴの物語に取り込まれているかわかると思います。
「こんなにエゴに操られていたのか、よし、すぐにでも、ぶっとばさなくては!」と思うかもしれません。
しかし、エゴは、ぶっとばして消滅させるようなものではありません、いかにエゴに支配されているかを認識すれば、エゴは消えます。
ルビンの壷という有名な絵をご存知かと思いますが、あの絵に大きなヒントが隠されています。
ルビンの壷は、黒い背景に焦点を合わせると、向かい合った人の顔に見えて、真ん中の白い部分に焦点を合わせると壷が見えるというものですが、エゴが黒い背景とした場合、そこだけに焦点を絞ると、つまり、エゴの様々な作り話に踊らされている状態だと、白い部分にある壷は見えてきません。
しかし、エゴの作り話に気付けば、おのずと白い部分に焦点を合わす事もできるので、壷が見えてきます。
壷が見えれば、別に、ぶっとばさなくても、エゴは勝手に消えてしまうのです。
つまり、エゴと本当の自分は、表裏一体のようなもので、影の部分であるエゴに実体があると勘違いすると、様々なエゴの創作話がスタートするのです。
さて、めでたくエゴが消えて認識が変化したとします。
エゴが作ったストーリーは終わってしまいました、もう何も起きていないし、何もありません。
何も起きていない、しかしリッチなという概念、それに伴う感情は湧いてくると思います。
何で出来るのでしょうか、何も無いはずなのに?
それはあなたが、最初から持っていたから、そういった概念を選択する事が出来たわけです。
前もいいましたが、花を見て美しいと思うのは花が美しいのではなく、あなた自身が美しいからなんですね。
ゴルフでも、ドライバーを持っているのが、当たり前過ぎるほどわかっているから、「ドライバー出して」とキャディーさんに言えるわけで、わかっていなかったら、「ドライバー」という単語自体言えないですよね。
今までは、エゴの強固な作り話と迫真の演技で「貧乏」という概念を選択させられていただけだったのです。
宝くじが当たるかどうかはわかりませんが、貧乏という概念、それに伴う、エゴの作り話を終わらせる事は、エゴに気付けばすぐに出来ます。
実際にゲームをプレイするプレイヤーというのは、どういう立ち位置なのでしょうか?
プレイヤーは存在しないのです。
願望も存在しません、土管を作ろうとかを決めるのはプログラマーであって、そこには、プログラマーの願望というよりは、意図があるだけです。
ゲームはしなきゃいけない物なのかな?
別にゲームに参加する事はありません。
エゴに気付けば、全て何も起きていないし、何も無いわけですから、心配事も悩みも無いのです。
それが心地良ければ、ずっとその状態で居ればいいと思います。
「エゴは気付くと消えます」と言われてますが、全然消えた感じがしない場合は、どうしたらいいんですかね?
消えた感じがしないという事は、もう既に気付いたという事です。
別に影が消えようが、残ってようが、どうでもいいじゃないですか、
消えたら消えたで問題無いし、そのまま残っていても問題無いです。
恋人が欲しいんですけど、その世界をチョイスすればいいのですか?
恋人を認識できるという事は、既に持っているという事です。
「私」って誰なのかと言われますと、「私」とはただの単語です。
実際は、意識を向けたものが全て「私」です。
私は天井にも床にもトイレのフタにもなれます。
もっと言えば、特定の人といる空間自体にもなれます。
ある特定の人といる空間をイメージできるという事は、もう材料は既に持っているわけです、あとはそれになるだけです。
と言っても、特定の人とどうのこうのは、その人に対する感情などが入り込んできやすいので、どうしてもエゴの作り話にとらわれるケースが多い事があります。
お金に関してもそうですが、その人のお金に関する感情、考え方が、エゴの作り話の取っ掛かりになりやすい傾向があるようです。
ですから、願望を抱えたままあれこれメソッドを求めるのではなく、認識の変化を経験する事を優先した方が良いと思うのです。
メソッドがあるから認識が変わるのではなく、認識が変わるからメソッドが生まれるわけです。
最近ある本を読んで、願望が叶った自分から、今の自分に手紙を書いて過ごしてますが、このままでよいのですか
別に、メソッド自体を実行するのは、何の問題も無いと思います。
ただ、エゴの作り話の中に居ながらにして、エゴを満たすための行動は、前にも言ったマリオ状態ですので、その辺に気が付けば、本に書いてあるメソッドの内容とか、手順とかを気にする必要ありません。
結局また怒りがわいて、怒りがとまらない、もはや殺意に近いかもしれません
怒りや殺意が止まらなくても、別に良いじゃないですか、それらが止まらない事に気がついているあなたは、別に怒ってもいないし、殺意も持っていないでしょう。