私は、「思考停止」というものを「何となくやりはじめて、気が付いたら「自愛」みたいな流れになりました。
「思考停止」の「思考や感情に振り回されない状態」って、自然と、「判断」というか「判別」しない状態になりませんか?
この状態って、凄く楽ですよね。
自分に対しても、誰かに対しても、現状に対しても、何かに対して「思考を働かせない」っていうのは、「判断しないこと」と「意味が同じような感じがするんです。
「攻撃」も「防衛」も必要なくなる」という感じです。
「判断しない」っていうのは、いわゆる「ありのままを受け入れている状態」であり、それは自然と、「無条件の愛」っていうものなのかなと思います。
思考に流されていた時はよく分からなかったけど、「思考停止」をしていたら気付くことができました。
どのくらいの期間でその状態にまで達したんですか?
期間は4ヶ月くらいです。
思考について意識的に生活していると、今まで自分が」ありとあらゆることに対して、「良い」「悪い」、「正しい」「間違い」というように、ジャッジをしていたことに気づきました。
ジャッジが出来るのは思考です。
例えば、「自愛ができない」っていうように「思考」したとします。
それはそれでいいんですけど、無意識でいると、思考はそれに重ねて更に思考をします。
「それはダメな状態だ」っていう思考が湧いてきて、そして「ダメだという思考」がぐるぐるしだして、苦しくなります。
「思考停止」を意識的にしていると「自愛出来ない」っていう思考がわいても、問題ではありません。
「それがなんなの」っていう感じで、良くも悪くもない、ただ「そういう日本語だ」みたいな感じです。
仮に「ダメだ」っていう思考に繋がったとしても、問題はないです。
わいてきた「思考」や、それに付随した感情とかに言葉を繋げなければ、その流れは止まります。
流れを止めて、胸がモヤモヤしたままでも、そこから「ダメだ」とか、「上手く出来ない」っていう思考で判断しないことです。
その体の感覚に言葉をのせなければ、イライラも、モヤモヤも、ただの感覚に過ぎません。
思考で判断しなければ、「良い」も「悪い」もないんです。
私は「思考停止」は、だいぶできるようになったのですが、「怒り」の感情の処理が難しくて、どうしたものかと悩んでいたところでしたが、「言葉に繋げない」というのが参考になりました。
「怒り」という感情がわいてきても、そこに言葉をのせなければ、それは悪いものでもなく、ただあるものです。
「嬉しい感情」のときと同じように、適当に感じておけばいいんです。
そうしているときは、自然に、意識が「今」にあります。
そしてそれは、ありのままの自分を受け入れている状態です。
思考停止に意識的になれば、判断することから解放されます。
判断とは、「プラス」「マイナス」のような、「陰陽」の概念です。
「叶う」とか「叶わない」とか、「成功」「失敗」、「金持ち」「貧乏」、「勝ち負け」とかもそうです。
「思考停止」というのは、もしかしたら、それを手放すことかもしれません。
それを越えている「本来の状態」に気付くことなのかもしれないです。
思考、言葉がなければ、判断ができないので、それすらもないような気がします。
達人スレ元祖1式
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482 : 幸せな名無しさん :2015/03/10(火) 21:25:33 uTs58t320