願望を叶えるために、叶った場面をイメージングするのは、ベストな方法ではないのでしょうか
イメージングだろうと何だろうと、所詮エゴの枠内です。
その枠内には、一時的に、叶ったという喜びはあるかもしれませんが、新たに、失うかもしれない、失敗するかもしれない、あれが足りない、などの不足を呼びます。
エゴの望みをイメージそのまま叶えたところで、所詮はエゴなので限界がある。
それは、新たな不足が生じる、ラットレースですよ。
私はラットレースは嫌なので、一抜けしただけですよ。
いちいちエゴで、あれこれ具体的に頼んでいてはキリが無い。
あれは手に入ったがあれが足りない、またイメージングしなくては、など、いちいち面倒ですし、終わりは無いですよ。
細々と細部の細部まで、ご自身でやりたいなら別ですよ、止めはしません。
私は面倒は嫌いなので、全部くれ、でいいじゃ無いですか。
自分でやらず、その道の完璧なプロに任せた、それだけですよ。
そして、やはりプロは凄いな、自分ではこの発想は無かった、自分だとこんなに出来ないな、と関心しているだけです。
理屈はなんとなく分かってるつもりですが、神に全てお任せしても、全然どうしていいのか分からない状況です。
理屈の理解はいりませんよ。
神に全て任せた、それで終わりですよ。
貴方はエゴが納得出来ないと言っているだけです。
エゴを納得させることは、貴方には出来ないので、諦めてください。
エゴは、エゴ自身で勝手に納得するのです。
理解してから、わかる、納得する、というのではないのです。
ですので、エゴが勝手に感嘆の声をあげるまで、放っておけばいいです。
いついつまでにこうしなきゃならないけど間に合いそうにない、というケースでも、すべて神にお任せすれば解決してますか?
期限付き、ということ自体が、エゴの枠です。
結果的には、実際の神の完璧は、そんなものは無効にしてきますから何とも言えません。
ですが、私のスタンスは、期限を守る、と決めて、全力で取り組みますね。
結果的にどうなるかは神任せです。
108さんは、すべての活動で、知覚のシフトが目的だと言った。
知覚のシフトとは、この世界の完璧たる所以がわかる、ということです。
理解、納得は必要ない、わかるのです。
私が言っている歓喜というのは、この世界の完全性を知る事、すべてのものから自由になる事です。
特に、自分から、自分の束縛から自由になることです。
自由に夢中に、毎日冒険だった頃のようにワクワクしながら生きる事です。
自由こそ最大の祝福ですよ。
願いが叶ったりなどは、私にとっては当たり前の事であり、オマケです
神の完璧を見ると意図したけど、特にわくわくしません
全力で生きてみてください。
全力でマイナスな感情も感じていますか?
貴方は今、安全な場所にいる。
貴方はそこから出ていないのではないかと思うのです。
そこから出るべきなのですよ。
貴方が不足もある、と考えているこの世界は、このままで完璧なのです。
だから、安心して全ての場所で、全ての感情を全力で感じて、全力で取り組んでみてください。
貴方が避けてきたことに向かい合ったり、チャレンジしてもいいでしょう。
意外な発見ができるかもしれない。
日向ぼっこというのは、目を閉じている状態です。
それは、心を安らかに保つためのものです。
そして、大抵の本は、そこを目的としている。
108さんはそうではないのです。
そこから一歩踏み出して、外に出ろと言っている。
かつて苦手だった、避けていたもの、感情など、それらの本当の姿が見えたとき、歓喜の声をあげる、ということなのです。
この世界の本来の姿が見えること、それは日向ぼっこではあり得ません。
貴方は自由になれるのですから。
心の動きも全力で楽しめ、というわけですね
勿論です、人生は最高のエンターテイメントですよ。
映画などを見て、心を揺さぶられたことはありませんか、そういうことですよ。
それは、映画が安心して観られるからなんです。
世界が完璧だとわかっていれば、安心して感情の上下も楽しめるんです。
貴方が避けていたこと、諦めたこと、嫌だと思っていたことをすればいい。
あまりこだわらずに、大したことではなくとも、真剣に、全力でやることを意識してやってみてください。
好きなことを全力で取り組む、好きでないことも全力で取り組む。
日向ぼっこは、好きでないことをやり過ごす、ということです。
やり過ごしていた感情を感じる、新しいことにもチャレンジする。
全力でチャレンジしたが、無理だったなら、それ以上する必要はない。
以前のあなたが避けていたもの、苦手だったもの、敬遠していたもの、ありとあらゆる全てを全力で味わえばいい、ということです。
新たに気付くことがあるはずです。
私が、何故ラットレースから抜け出したか、というと、物理現実上に現れた、神の完璧の無限の力と、壮大さをまざまざと見せつけられて、エゴが完全に全面降伏したからですよ。
今までの、エゴがマイナスだとラベリングしていた出来事も含めて、エゴが全面降伏した出来事がありました。
神の完璧の伏線、完璧を完璧にするためのパーツだった、という事が開示されたからです。
神の完璧を見せてみろと見る決意をして、そうなりました。
ここまで完璧なのか、全て計算だったのか、と驚いて、今ではもう、多少エゴが不快だろうと、、寧ろこのエゴが不快と感じた、最悪だと感じた出来事が、どのような神の完璧を見せてくれるのか、ワクワクしかないです。
そして毎回、期待、予想を見事に裏切る、大幅に上回る、もう叫びたくなるくらいのレベルのものです。
エゴの認識とは関係なく、既にあるんです
それは、生み出したり、創り出すものではありません。
ですので、貴方がどう思おうと、既にある。
もう別次元の話ですよ。
繰り返しになりますが、貴方の思考ごときで、神の完璧は揺るがない。
既にあるものは、消えたりしないのです。
そもそも、消えたり現れたりするものではない。
信じようが信じまいが、それも関係ない。
思いっきり疑ってくださっても結構です。
こう考えたら消えてしまうのでは、現れるのでは、現れないのでは、と揺らいで頂いても結構です、一切の影響を受けません。
勘違いされている方が多いのですが、普段どう過ごすか、ということと、既にある、ということは、全く繋がりがありません。
視野の話ですが、針の穴くらいに狭い視野だったので、全面が黒しか見えていなかったが、離れてみると、巨大な白い布に針の先のような黒い点が付いていただけだった、ということです。
白い布は元々あるんです。
しかも、地球を覆うくらい、それ以上巨大なものだが、貴方は視野が狭くなっているので、膝をつけて、目を近づけて、黒いシミしか目に入らないようにして、黒いシミを消して、白い布にしようと躍起になっている。
全体を見渡せば、白に圧倒され、黒いシミなど見えなくなる、どうでも良くなる。
そもそも黒いシミが見つからないので、もともとあったのかも怪しくなる。
取り敢えず立ち上がって、何歩か後ろに下がって見てみるだけでもわかりますよ。
出来る出来ないは関係ありませんよ、ただ、やるんです。
神の完璧を見る、ただそれだけですよ。