自分がずっと希望していた事が叶って、喜んでいたのですが、「この選択は間違っているのかもしれない」、「これを選択した結果、将来不幸が起こるかもしれない」と感じるような出来事が起こって、これからどういう気持ちでいたらいいのか悩んでいます。
問題が起こらないのであれば、その選択を取りたいのですが、怖いです。
「私が懸念している問題が起こっても構わない」と宣言してみてください。
「問題は起こらない」というのではなく、「起こっても構わない」なのですか?
そうです、「問題が起こっても構わない」です。
問題だと思っているのはエゴです。
問題をでっち上げるのがエゴです。
「問題が起こったら困る」と言っているのはエゴです。
「問題が起こったら大変なことになる」と言っているのはエゴです。
そのエゴに対して、エゴとは別の領域の視点から、「問題が起こっても構わない」と宣言するんです。
ちなみにこれは、チケットの1章に書いてあるメソッドです。
エゴは問題を運んできます。
そのエゴに対して、「そうなっても構わない」と宣言します。
あなたが言っている「問題は起こらない」というのでは、不安を打消そうとしてしまって、かえって不安を強化することになってしまいます。
なので、いったんエゴを受け入れて、「それでも構わない」と宣言をするのです。
「問題が起こっても構わない」という結論を出すことによって、今後は問題が起こるかどうかを不安に思うことはできなくなります。
問題が起こることを受け入れてしまえば、もうエゴはお手上げなのです。
「問題が起こらないように」と思ってばかりいたのですが、問題が起こることを受け入れることより、「そうなるかもしれない」とビクビクする方が、現実化のリスクが高いということでしょうか?
「問題を問題と思わなければ、問題は起きないのですか」と言っているのはエゴです。
「問題が起こってしまったらどうしよう」とビクビクしているのはエゴです。
そのエゴに対して、「問題が起こっても構わない」と宣言するんです。
そう言われると、「問題が起こっても構わないと言ったら、本当に問題が起こるんじゃないか」と思うかもしれませんね。
もちろん、「問題が起こっても構わないと言ったら、問題が起こるんじゃないか」と言っているのもエゴです。
そのエゴに対して、「問題が起こっても構わない」と宣言するんです。
エゴにとっては、「いやいや、問題が起こったら困るよ」と思うかもしれませんが、エゴの相手をしていても、エゴは次から次へと問題を持ってきます。
エゴの相手をしていてもキリがないので、「問題が起こっても構わない」と宣言することによって、エゴと距離を置いてみてください。
おそらくあなたは」、「問題が起こっても構わない」と宣言したくないんだと思います。
他にもっといい方法はないのか、問題が起こらない方法はないのか」と思っていませんか。
例えば私が、「問題が起こっても構わない」と宣言すれば、「あなたの問題は起きませんよ、安心してください」と言ったとしたら、あなたは一時的にホッとするかもしれません。
でも、あなたの中には問題は残ったままです。
あなたは、何かのきっかけで、また不安をいだくことになります。
そして、「やっぱり問題が起きてしまうのではないか」という不安が、あなたの中で大きくなっていきます。
これでは、いつまでも問題が現れてきてしまいます。
なので、「問題が起こっても構わない」と宣言してみてください。
その宣言は、エゴには理解できないでしょうが、エゴが理解できなくて構わないのです。
確かに「問題が起こらない方法」ばかりを考えて、欲しがっていました。
ですが、やはり気持ちとしては、問題は起こってほしくないし、「問題が起こっても構わないとは思わない」のですが、「問題が起こっても構わない」と心から思えていなくてもいいのでしょうか?
「問題が起こってほしくない」と思っているのはエゴです。
「問題が起こっても構わないとは思わない」と思っているのはエゴです。
「問題が起こっても構わない」と心から思えなかったとしても、なにも問題はありません。
なぜなら、そう思えないのもエゴだからです。
エゴの理解は必要ありません。
エゴは問題をでっち上げるのが仕事なので、エゴにとっては理解できるはずがないのです。
なので、「問題が起こっても構わない」と宣言してみてください。
それは、エゴを別物と考えて、「問題が起こっても構わない」という認識をしている存在が、エゴを不採用しているイメージなのでしょうか。
問題が起こっていい理由はないので、「問題が起こっても構わない」という言葉は、やはり「なんでだろう」と思ってしまいます。
理由や意味を納得するよりも、エゴのループを止めることが目的なのでしょうか。
「エゴを不採用すれば問題は起こらないのでしょうか」と言っているのはエゴです。
「問題が起こっても構わないなんて思わない、なんでだろう」と言っているのはエゴです。
「エゴのループを経ち切れば、問題は起こらないのでしょうか」と言っているのはエゴです。
エゴは理解をしようとしますが、エゴの理解は必要ありません。
エゴは理解をして、なんとか問題から逃れようとしています。
「問題が起こっても構わない」と宣言するだけでいいのに、どうしてあなたは宣言をしないのでしょうか?
どうして理屈で理解しようとするのでしょうか?
エゴの理解は必要ないのです。
エゴは「問題が起こってしまったら困るんだよ」と言ってくるでしょうが、それでも構わずに」、「問題が起こっても構わない」と宣言してください。
「問題が起こっても構わない」というのは、別の領域の見解です。
「問題が起こったら困るんだよ」というのは、エゴの見解です。
別の領域の見解を採用するか、それともエゴの見解を採用するかどうかの単純な話なんです。
エゴは「問題が大好き」なんです。
そのエゴに対して、「問題が起こっても構わない」と宣言するだけでいいんですよ、簡単なんです。
あなたが別の領域の見解を採用したくないのであれば、それでも構いません。
「問題が起こったら困るんだよ」という「エゴの見解」を採用すればいいだけです。
あなたが好きなほうを」選んでください。
理屈や意味が分からないと、「その言葉の理由が腑に落ちない」というか、頭に入ってこないんです。
これも理屈なのかもしれませんが、問題が起こることを受け入れてしまえば、実質「不安ではなくなる」みたいなことなのでしょうか。
あなたは、今までずっと」エゴの見解を採用していたから、「問題が起こっても構わない」という別の領域の見解を採用するのが怖いんですよ。
別の領域の見解は、エゴからしてみれば、理解不能なんです。
理屈で理解したいのはエゴです。
意味がわからなくても、「問題が起こっても構わない」なんです、簡単です。
「問題が起こっても構わない」ということを、心からは思えていなくても、理屈や意味が分からなくても、「問題が起こっても構わない」という言葉を、おまじないのような感覚で意識をしてみようと思います。
「おまじないとして唱える」というのは、問題が起こってしまうのが怖いから、おまじないにしているんですよね?
それはやっぱり、「問題が起こってしまったら困る」と言っているエゴなんです。
エゴは問題を握りしめて離さないんです。
それはエゴの仕事なのでしょうがないのです。
でも、そのエゴに対して、同意はしないでください。
エゴの見解はキッパリ断って、「問題が起こっても構わない」という「別の領域の見解」を採用してください。
「問題が起こるかもしれない」ということへの執着は和らいだ気がするので、「将来への不安よりも、せっかく手に入れた物を心から楽しみたいので、そちらに意識を向けたい」というのが「新たな課題」だと思っています。
今あなたは、新たな課題をつくりましたが、それをつくっているのもエゴです。
そのエゴについてもキッパリ断ってください。
そして、「私は手に入れたものを楽しめなくても構わない」ということなんです。
あなたには問題はないし、課題もありません。
あなたに「問題がある」とか、「課題がある」とか言っているのはエゴです。
エゴの見解はキッパリ断ってください。
「問題が起こっても構わない」と宣言するのが、嫌ではないんです。
ただ、意味をある程度理解しないと、頭に入ってこないので、納得して取り組めないんです。
「納得して取り組めないと駄目だ」という意識があるのかもしれません。
理屈で説明しすぎると、エゴが理屈を利用しようとするので、あまり理屈を説明し過ぎないようにしています。
エゴは理屈で理解したがりますが、そもそも別の領域の見解は、エゴには理解できないんです。
理解は必要ないんです。
「問題が起こっても構わない」という宣言をしたくないのは、エゴなんです。
そのエゴを超えるのが、「問題が起こっても構わない」なんです。
この宣言はエゴを超えているので、エゴが理解できないのはしょうがないです。
理解するのではなく、ただ宣言するだけです、簡単です。
「おまじないとして唱える」というのは、「問題を起こさないためのおまじない」ではなく、「エゴに負けないおまじない」のようなつもりでした。
「エゴに負けないためのおまじない」ということですが、エゴとは戦わないほうが賢明です。
エゴと戦おうとすると非常に疲れます。
エゴが「問題が起こったら困るんだよ」と言って来たときに、「問題は起きないんだよ」と張り合おうとしないことです。
「問題が起こったら困る」と思うことが、「エゴを採用すること」、「エゴに同意すること」ということですか?
「問題が起こったら困る」と、「思うこと」が、エゴを採用することではないです。
思い浮かんだとしても、別に構いません。
そのエゴの意見に同意しなければいいんです。
「楽しめなくても構わない」というフレーズには、やはり抵抗があるというか、「なんでだろう」と思ってしまいます。
「楽しめなくても構わない」というフレーズに疑問を感じるなら、あなたの中に「楽しめなくてはいけないんだ」という思いがあるのではないですか?
とにかく、「問題が起こっても構わない」と宣言するだけです、本当に簡単なんです。
前にも言いましたが、これはチケットの1章に書いてありますので、私の説明で腑に落ちないのであれば、一度読んでみるのもいいかもしれません。
「楽しみたい」という気持ちに対して、「楽しむことに義務感を持っている」と指摘されたことが、よく分かりません。
「不安に苛まれるよりも、楽しみたい」という気持ちがあるだけです。
ですが、「この選択が正しかった」と実感する為に、「楽しまなきゃいけない」と思っているのかもしれません。
「問題が起こったら困る」と思うこと自体は、エゴに同意するわけではないのですね。
エゴを退治しようとして、エゴに対抗することで、「かえってエゴに呑まれる」ということでしょうか。
理屈も意味も目的も分からなくても、宣言するってことなんですね。
でも「なんの為にするのだろうか」と思ってしまいます。
「なんのために宣言するのか」「目的はなんなのか」ということですが、別の領域の見解を採用するためです。
「問題が起こったら困るんだよ」というのは、エゴの見解なんです。
エゴは問題をでっち上げますが、本来は問題など存在しません。
もしかしたら、もうあなたは既に、問題とかどうでもよくなっているのかもしれませんね。
それなら、宣言はしなくていいと思います。
ただ宣言するだけのことでも、エゴにとっては非常に抵抗があるということが分りました。
あなたにむりやり宣言させるような形になってしまってすいません。
本来は、あなたにしなければいけないことはありません。
したければすればいいし、したくなければしなくてもいいんです。
何をしようがしまいが、あなたは完璧なんです。
さらに言うと、あなたは「不安に苛まれたくない」ということですが、不安に苛まれたって何も問題ありません。
あなたの選択が間違っていたとしても、何も問題ありません。
あなたが楽しめなかったとしても、何も問題ありません。
あなたがエゴに呑まれたって、何も問題ありません。
それらの思考・感情も、全て完璧なんです。
もしかしたら、今すぐにはそうは思えないかもしれません。
でも、そう思えなかったとしても完璧なんです。
ついでに、チケット1章の「問題が起こっても構わない」について、私なりに解説してみます。
エゴは問題をつくりますが、その問題に対して逃れようとすると余計に不安になってしまいます。
なので、「問題が起こっても構わない」というように、エゴを一旦受け入れるんです。
エゴにとっては、「いやいや、そんなわけないよ、問題が起こったら大変なんだよ」と騒ぐでしょうが、それでも、「問題が起こっても構わない」と宣言するんです。
エゴにとっては全く理解ができないでしょうが、問題が起こることを受け入れることによって、エゴはとりあえず満足できます。
これを繰り返していくことによって、エゴの働きが弱まります。
今まで大音量で喚いていたエゴも、次第に声が小さくなっていくでしょう。
エゴを無視するから、エゴはさらに大音量になってしまうんです。
結果的に、エゴも安心できる結果、問題のない世界が、現象として現れることになると思います。
こう言われると期待をするかもしれないですが、でも、現象なんてはっきり言ってどうでもいいんです。
なぜなら、そもそも問題なんて存在しないからです。
実は、あなたとのやり取りで、気づきがあったのは私のほうでした。
あなたがしつこく食らいついてきてくれたおかげで、私の認識が間違っていたことに気づきました。
あなたは、「どうしても理屈で理解ができない」と何度も言っていましたが、そもそも、エゴが理屈の中にいるのだから、エゴに分かるわけがないのに、なんでこの人は」理屈で分かろうとしているのだろうか」ということを、私は不思議に思っていました。
理屈の見解、つまり、「こうなったら、こうなる」というのを採用するのではなく、理屈とは別の領域、つまり、「安心、充足、平安」の見解を採用するだけでいいのに、なんでそうしないのかな」とずっと思っていました。
でも、私の意見を「あなたに押し付けようとしていたことに気づきました。
達人が、しばらく語ったあとにいなくなるのは、いくら説明をしても納得できない人がいるからだと思っていましたが、そうではなくて、そもそも、自分の認識を「困っている人はいない」というものに変えていたんだということに気づきました。
認識が変わると、「困っている人」、「わからない人」に説明をしたくなるのですが、でも、そうやって「困っている人」、「わからない人」を、自分で作り上げていただけだったんですね。
本当に「自作自演」ですよね。
なので、「分からない」と言っているあなたも完璧だし、あなたはなにも変える必要はないんです。
そしてそれは、あなたに限ったことではないんです。
あなたを変えるのではなくて、自分の認識を変えるだけでよかったんですね。
なので、あなたに言うべきことは、もう何もないんです。
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492 名前: 投稿日:2021/04/03(土) 22:23:31