最近、現実がぼんやりと幻のように感じ、その透けて見える向こうから、ただただ愛だけを感じる。
現実ももちろん変化したけれど、ここの居心地の良さがわかってよかった。
よしおさんじゃないけど、本当に何にも関係なく、ただ在るだけなんだな。
これをロジックで関連付けしようとした瞬間に、違うものになる。
頭で考えるのは、ある段階まででいい。
なんとかエゴが理論で納得したがったけど、七章は理論での理解は無理だった。
思考と理論を放棄した先にあるんだ。
ただ、「だから思考を放棄しよう、理論を放棄しよう」だと、これは思考と理論の復活になる。
それに、何を考えていようが、放棄を適用できなかろうが、エゴまみれの思考だろうが関係ない、関係ないと思い込もうとしなくていい、本当に関係ない。
ただ「在る」と感じたら、思考をプツンと切るくらいでちょうどいい。
もう、「世界はただ自分だったんだな」って実感したら、願望とかどーでもよくなっちゃった。
今グチャグチャと考えてる願望の対象、手元にないと感じている「それ」は、なぜ手元にないのに、目の前に見られないのに意識できるのでしょうか。
それが存在するということを、なぜ理解出来るのでしょうか。
自分は、サハラ砂漠に行った事ないんだけど、知識から、「たくさん砂があって、空が綺麗で、砂漠のバラとかあったりして」っていう感じに、意識を飛ばせる。
その空想上のサハラ砂漠は、現実と違うかもしれない。
だけど、今その砂漠を認識している自分はなんだろう。
その認識している自分の感じる、この砂漠に対するリアリティーはなんだろう。
その認識していることに気づいている自分て、なんだろう。
サハラじゃなくても、特定の何かだろうが、例え地球の裏側だろうが、過去の生まれる前のものだろうが、空想上の生物だろうが、それを認識できてる意識ってなんなんだろう。
自分の生きる世界すべてが、まずこの認識している意識ありきで作り出されていたんじゃないかって感じたら、今までバタバタしてたのが、嘘みたいにすべてがつながった。
全部、自分の認識ありきで世界はできていたと言うことだ。
世界と自分の境界線なんてなくて、ただ自分がつくりだしていただけだと言うことだ。
すべては調和していたことだ。
自分はこの世界にとって、一つの現象だったということだ。
一つの現象だけれども、世界のすべてが詰まっていることだ。
到底ばからしい結論だけど、すべて叶っていたことだ。
願う事ができなくなって、正直さみしいのと、途方にくれてる感じがある。
どうしていいかわかんないけど、しばらくはこの世界との一体感でも感じてみようと思います。
なんでそんなふうにぶっ飛べるんですか、羨ましくてたまらない。
あなたは私の言葉を聞いて、強烈な分離を感じたから、羨ましいという気持ちが出るんだよね。
まだ納得できなくても、その分離感はエゴから出たもので、本質では幻です。
切り離して、離れたところから見ようと思えば、見る事ができると思う。
思考や渇望自体は、エゴというものから自動で起きる現象で、自分の本質の意識とは関係ないものです。
どんなにリアリティーがあって、苦しくても、却下してください。
あなたの本当の意識は、エゴからの思考を客観的に眺められるものだし、何からも分離していません。
私のさっきの言葉も、あなたの世界のもので、あなたのものです。
私もつい最近まで、なんでこんなにがんばってるのに叶わないんだ、わかったと思ってもまた無い感覚に戻るし、私がなんか悪いことしたか、このままなんて嫌だって、死にそうな感じだった。
わかった、世界は愛だったんだとか、達人の言葉を聞くうちに頭で理解できたし、体感もすごいのが何回もあったけど、なんかの拍子で戻ってしまって、死にたくなってた。
なぜ戻るかっていうと、わかった後からの後付けだけど、体感しても、その意識、別の領域を信頼しきれてなかったから、怖くなって戻ってたんだよね。
この意識を信頼した流れとしては、桑田さんとか自己観察さんとか、とにかく自分にとって心地いい言葉を、とにかく聞いて、聞きながら実践、体感していくことを繰り返した。
特にエゴがまだ強かった頃は、自己観察さんの言葉をずっと聞いて、エゴからの声から遠くに身を置いて、その状態の時に感じる静けさを、時間をとって意識的に感じようとしてた。
そのうち、そこで感じるものが心地よくなってきて、大きくなってきて、自分を取り巻く世界に溢れ出てきて、それを世界全てに向けたら、世界は自分だったんだって実感した。
最初は意識的に、苦痛が伴っても、エゴからの声から引いた場所にいるようにするほうがいいと思う。
それが蓋になって苦しいようなら、ひたすら自愛するのがいいかな。
エゴからの声は、無視すると苦しいかもだけど、リアリティーを与えているのは、あくまで自分で、リアリティーを取り下げることが出来るのも自分です。
そのことに気づいて、乗っ取られないでいてください。
そうすると、自分がエゴの立場でも、それを見る大きな意識でも、どちらでも選ぶ事が出来ます。
苦しい時は有限です、
そこにリアリティーを与えないでください。
エゴのリアリティーが強くて、自己観察、自愛、瞑想など、色々やっても距離を取るのが難しい場合は、どうすればいいのでしょうか?
距離をとることが難しいことに、あなたは気づいているじゃない。
気づいている場所は、エゴとは違う場所だよ、そこにいる感覚を大事にしたらどうかな。
エゴのリアリティーが、幻をまだ採用できなくても、「どうやら幻らしい」と、とりあえず思っていればいいよ。
私は意識して、気づいている自分の方が本物だと信じ続けたよ。
最初は苦痛でも、続けていれば意味がわかるし、幻だったとすんなり理解できるよ。
そこはみんな通る道だよ、必ず先がある。
あなたが叶っていない、苦しい、とリアリティーを与えている根拠ってなんですか?
その根拠がニセモノなんだよ。
でも、「実際に何々なことが目の前で起きて、この事実は覆らないんです」って思うかもだけど、あなたの立ち位置が、まず「叶っていない、苦しい」なら、そう見えるための根拠が、自動的に生産されていくんだ。
でもね、自動的に生産される、ということは、後付けされたものだということで、どんなに記憶と辻褄があっていても、ニセモノだからね。
ニセモノだなんて信じられなくても、今までの常識として、真実は時と場合、そして、受け取り手次第で、どのようにも受け取れるって知ってるよね。
その常識を、あなたが握っている根拠に向けて欲しい。
それはニセモノだと断言するよ
気付いている自分というのがよく分からないのです。
でも、気づいているとき、違う立ち位置のときに、確かにエゴは遠くなったでしょ?
遠くなったってことが、まずすごいことなんだから、もっとちゃんと信頼したらいいよ。
だって、エゴはあなたじゃなかったんだよ、あんなにひどい渇望感、リアリティーを伴ったものでもね。
自己観察する時は、エゴと決別できてる自分が信頼できれば出来るほど、その場所への信頼が強まるよ。
あと、観察してるとき、後付けしてない?
「うわぁ、こんなん大きすぎて、強すぎて無理やー、とてもじゃないけど冷静に自己観察できんわ」ってね、これも後付けだ。
気づいたら、ここからさらに外に出てみて、気づいたら出られるよ。
叶っていない、苦しい、とリアリティーを与えている根拠は、やっぱり五感ですかね。
五感だったとしても、例えば、欲しいものが人だった場合、そばにいない時だってあるでしょ。
モノだって、いつも欠かさず持ち運ぶかな、持ち運んでたとしても常に触ってるかな、
ポケットにいれて、忘れてるときだってあるでしょ。
手元にないからって、それとリアリティーは結び付けなくてもいいんだよ。
その、「あ・無いんだな」っていう感覚も、無いの立ち位置から産まれた、後付けだよ。
それを認めたら、無いはキャンセルできる。
無い感覚をキャンセルできたら、それは叶った状態だ。
ただし、その感覚は、「やった叶った、ヒャッホーイ」じゃないかもしれない。
ああ、「元からあったのね」とか、「今までだってそこにいたじゃん」って感じで、そっけなく感じるかもしれないけど、ひりつくような不足をスパイスにした高揚感ではなく、穏やかさそのものかもしれない。
でもそれは、不足と表裏一体のものではない、本当の充足への扉だよ。
この穏やかさを感じられたら、しっかり浸って欲しい。
そのうち「辛いことって、全部夢みたいなものだったなぁ」って目が覚めるよ。
あと、あなたは、「やってみた・うまくいかない・どうして?」で、無意識に止まってる。
「どうして?」からは、「どうして?」が生まれるよ、その立ち位置だからね。
「そんなこと言ったってできないよ」って悲しい気持ちになるかもしれないけど、わからないも後付けだから、キャンセルしてほしい、必ずわかるからさ。
そして、このキャンセルすることって、みんな普段無意識にやってることでもあると思う。
108式実践・成功体験談スレ【3】
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16: もぎりの名無しさん :2012/08/30(木) 13:46:38 ID:2otF8hCk0