絵画や写真というのは、その瞬間を描いているように感じる。
つまり、時間の止まった状態=時間の存在していない世界である。
だがそれは、絵が無であるからだ。
しかし、その絵が、部屋というさらに大きな無に飾られていれば、絵はたちまち概念と化し、部屋の中の人から見れば、絵は時とともに風化し、紙自体も劣化していく。
壁に飾っていれば、落として破損しているかもしれない。
だが、純粋に絵の中だけの世界は、無である。
どこに意識をフォーカスするかで、物事の捉え方は変わる。
仮にあなたが、そこで死体になってみよう。
脳が働かず、ただ物体として置いてある感じをイメージしてほしい。
すると、その周りの景色を含めた絵の中にいることに気付く。
つまり、時間が存在しない、純粋な瞬間である。
絵は、それ自体が空間=無であることは、時間も存在していない。
だから、その無自体を客観的に観れば、その時点でそれは無ではなくなるが、つまり絵のようなものだ。
絵とは不思議である。
そこに描かれている中身にレッテルを貼らずに、それそのものを感じることができる。
瞑想中に度々訪れる、見ているが、見ていない状態を表現するならば絵が近いかもしれないな。
私はちょっと忙しいが、自分をなくすと書いて、忙しいとなり、文字通り、まさに無意識状態だ。
意識的に生きなさい。
つねに体を感じながら、意識しながら生活しなさい。
意識的とは、自己観照のことではなくて、単に物事を意識して行なう、ということですか
常に体の動作を意識していると、いわゆる今に在ることが容易にできる。
その状態であれば、それら体の動作を観ている意識に、気付くことができる。
それは観照者である。
観照者の意識にあれば、行っている動作のすべてが、超客観状態である。
つまり、足が勝手に動き、そして歩いている。
足を動かしている実感を伴わないから、風景がこちらに迫ってきている。
つまり行為をしているのは、出来事が起こっているだけであり、自分はただ観ているだけなのだ。
行為の観照に専念すると、全力で事に当たれない気がします。
車を運転してて方向を間違えるとか、仕事をミスってしまうとか、肝心な事がおろそかになりませんか
あなたはひとつ、理解を超える必要がある。
それは、あなたが全力で当たろうと、そう感じていようと、そうでなかろうと、単に出来事が起こっているだけだということだ。
どれだけ意識的にあろうが、交通事故は起こる時は起こる。
仕事のミスにしても、起こるときは起こる。
つまり、寝ぼけてようが冴えていようが、どちらでも良いのだ。
勝手に起こり続ける物事の中で、あなたは流れているだけなのだから。
全力で当たるというのは、あなたの言うとおり、自我の単なる納得である。
少し話は変わるが、あなたに人生のヒントを送ろう。
あなたがどれだけ精魂込めた努力をしようが、すべては単に流れていく。
つまり、悩みや不安などの問題は、別に解決する必要もない、なにもしない、これに限る。
なにもしないとは、起こった出来事に対して、必死に、命懸けにならなくてもよいということだ。
呼吸のように何も考えず、身を任せているだけでよい。
もちろん出来事に自らを同一化し、執着に溺れた取り組みをしても構わない、あなたの自由だ。
その行いを、古くから苦行と呼ぶ。
苦行をしてもしなくても、必ず結果にたどり着く。
我々は努力や苦労をしたから、良い結果になった、と思い込んでいるが、別にそんなことをする必要もないことは、あなたが苦行を捨てたときに、理解できるだろう。
あなたが観照者の視点で物事を観ているとき、そして、仕事や運転などの行為を行っているとき、全力で当たれない、そう感じている。
それこそが、なにもしていない、つまり、苦行を脱した行為者である。
釈迦は歩かず、歩きなさいと伝えたが、まさにその通りである。
ただ自我の視点では、事故が起こるんじゃないか、仕事でミスをするんじゃないか、と騒ぎ立てるだろう。
だが前述した通り、起こるものは起こるだけであり、あなたがどのような意識状態であろうが、それは無関係だ。
むしろ、余計な心労を抱えないので、事態は好転していく。
心労を抱えない人は、他者にとって好意的に写るからね。
そういう意味では、良い世界になっていく。
意識して事故らないも、意識しないで事故るも、それは単に無意識が選んだことであり、どちらを選ぶかは初めから決まっていた、という事ですか
あなたが起こす行動は、起こっている出来事である。
つまり、あなたが目を瞑って運転すれば、そういう結果になるだろう、ただそれだけのことである。
ひとつ言っておくが、自我にとってベストな結果を導く、スピリチュアルなどない。
つまり、日々生まれ起こる出来事に、いかに苦悩しないか、そういう消去法的なスタンスこそが、苦しみのない道である。
だがそれは、幸福の道ではない、あくまで苦しみのない道なのだ。
般若心経が、なぜあれはない、これもない、という、ないないづくしなのか、それは、出来事は起こるからである。
マネーゲーム本もそうだが、貧乏は貧乏だ。
勝手に起こる出来事の中で、富を得られるときもあるのかもしれないし、一生貧乏かもしれない。
だが、貧乏とはどういう定義なのだろうか。
そこに幻があり、その幻(=概念)を破壊するのが、釈迦の示した苦しみのない世界である。
だがそこでは終わらず、その境地に立てば、あなたを取り巻くすべてが、あなたのためだけに用意されていることに気付くだろう。
結果は必ず訪れる、だから結果から観るのだよ。
人は快の方角にしか進めないので、目をつむって運転するのには、恐怖という不快が伴うので、有り得ないことに成るとおもいます。
あなたが目を瞑って運転することをしないのであれば、そうしないのだろう。
つまり、そういう出来事は起こらなかっただけのことだ。
あなたはあなたではない、まずそれを自覚してはどうだろう。
あなたが掲示板に書き込みをしていて、返信に思案している、それらも生まれ起こった出来事だ。
遠くのコンビニで万引きがあった、株価が変動した、誰かが告白をした、それらと同じく、単なる出来事である。
だれがあなたの思考を起こらせたのか、それは私である。
つまり私は、あなたを起こしている。
つまり、あなた自身が起こしているのではない。
あなたは単に反応でしかない。私も同じだ。
あなたへの反応で、私は在る。
意識せず、どうしてもなりたいことや、やりたいことには従うべきなのですか、なにがエゴだか解らなくなってきました。
あなたは何に疑問を持っているのか、何を行おうとして、何の失敗を恐れているのか?
具体的な部分はわからないが、やりたいならやればいいだけだ。
ただ、これをやって、こうなったらどうしよう、とかいうのは、愚問である。
とりあえず、野良猫のように生きてみなさい。
腹がへれば飯を探し、飯を喰らい、理想も、希望などの概念もなく、ただ生きる、ただ在るのみだ。
なりたいというのは、あなたではない。
あなたは最初から完璧な存在なので、別の存在に変容したいとなれば、それは苦行となるだろう。
ただ欲求を満たすだけ、それは野良猫が飯を漁る、その意味である。
それだけで、あなたは価値がある
どうやっても貧乏が嫌だし、お金持ちになれなくとも、素直に貧乏は嫌だ、お金もちになりたいと、エゴの声に従ったほうが、まだ苦行に感じないかなと.思います
野良猫になりなさい。
常に今に在り、等身大の自分で生きなさい。
腐った死体でも良い、そのようになりなさい。
幸せ、ラク、苦痛、金持ち、そんなもの捨て去りなさい。
すべてどうでも良いことだ。
なぜならば、あなたの為に世界があるからだ。
この意味を理解するとき、あなたは自由になるだろう。
明日、会社に出社せずに、今月の支払いも気にせずに、突然アフリカなどへ飛び立って、生を満喫するだろう。
何が怖い、そうしたら、そのあとがどうなるかって、そんなもの、どうでもいいのだよ。
なぜなら、成るように成っていくからだ。
あなたがいまの人生に苦しみを覚えているならば、それは自らの変容を求めているからだ。
そういう変容は苦行である。
だが、あなたの世界(=概念)は、自由に崩すことが出来る。
あなたが一生を終えるときに、必ずこの意味はわかる。
今日のあなたは、昨日までのあなたの最後の自分であるから、その意味は理解に容易い。
だから、思う存分欲求を満たし続ければ良い。
だけども、自分を忘れないようにしなさい。
つまり、今の自分を変えたいとか、環境を変えたいとか、ああなりたいとか、そういうのをしないことだ。
蝶は10日程度しか羽ばたけないが、彼らにとって、今が永遠ゆえに、寿命はない。
なるべく、今を意識して生きるように意識してみます、ありがとうございました。
あなたが明日、極端な行動に出ても良いのだよ、覚えておきなさい。
あと、人の死と出会う切っ掛けを、なるべく多く作りなさい。
葬式でも良いし、海外のニュースの記事でもいい。
大きな病院に出入りするのも良いかもしれない。
なるべく直接、遺体や死と遭遇できる機会を設けるとよいだろう。
欲求の赴くままに生きなさい。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法13◆◆
160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/22(土) 09:24:41.96 ID:m2mK8czy