認識変更って段階があるんだと思う。
勿論、段階をすっとばして、最終的な認識変更に辿り着く人もいるんだろうし、今私が、これが最終的な認識変更だと思っているものも、実際はまだ先があるのかも知れません。
普段、私が私だと認識していた身体、思考は、意識である「全」がそのように意図しているから、私として存在できているのであり、私として思考できているだけである。
意識とは全てであり、全が意図して作った「個」が、他の「個」をいくら変えようとしてもそれは不可能であり、それどころか、「個」は「個」自身すら変化させることができない上に、変化させることができないことすら気づけない。
個が他の個にする質問すらも、全が用意したものであり、他の個から個に与えられたように見える答えすらも、全が個にその役割を与えているだけなのだが、個や他の個はそれに気づかず、各々が起こした言動だと信じている。
個や他の個は、それらを信じ続ける限り、その状態を「全」は与え続けている。
個が「信じるものを変えれば状態が変わるのか」と質問すれば、他の個がいろんな答えを出すだろうが、個が、疑問ではなく、確信を持たないかぎり、与え続けられるのは、疑問を持つ状態である。
個が確信を持てば、確信している状態が、全から個に与えられる。
これがいわゆる「なる」や「全てある」と呼ばれるものだと、「個」である「私」は解釈している。
しかしながら、その確信を持つという行動すら、全が個に与えた状態であると「個」である「私」は解釈している。
物語の登場人物である「個」がいくら悟りを開いても、その悟りを描いているのは作り手である「全」である。
エゴとは、私の解釈では「記憶による思考と五感から与えられる情報による思考」であり、「個」です。
意図の変更直後に、記憶や五感から与えられる情報に負けてしまい、意図を取下げしてしまうこともあります。
例をあげるなら、右手が「個」で、左手が「別の個」であるとき、右手の上に左手が重なっていて、右手はそのせいで自由に動けないと思い込んで左手を憎みますが、左手からみると、自分の許可無しに右手が自分の下に潜り込んできて腹がたっています。
「お前がどけよ、いやいやお前がどけよ」という状態ですが、本来、右手も左手も、動かしているのは脳であり、筋肉であり、血液であり、神経であり、要するに「全」です。
それに気づきさえすれば、右手と左手をあっさり離すことができます
「私は右手である」という情報が消えないかぎり、右手という「個」と、「全」の間を行ったりきたりします。
つまり、エゴという「個」の視点で思考してしまいます。
その境地に至ったきっかけはなんですか?
日ごろ瞑想などしていましたか?
瞑想はあまりしないです。
私がこの認識に至ったのは、「ダグラス・ハーディングの実験」を読んだことが大きいかもしれません。
私は最近、認識の変化のようなものが、少しずつ起こっていますが、心身ともに負荷がかなりかかっていて、エゴが猛威をふるって、一時的に乗っ取られることもある状態です。
「心身共に負荷」とはどういうことでしょうか?
エゴが猛威をふるうというのは、「五感に基づく情報や記憶に基づく思考が、あなたにとって苦しいものである」ということでしょうか?
あなたはどのような状態を求めていますか?
全から個に与えられるのは「状態」であり、変化ではありません。
変化を実感できるのは、五感に基づく思考と、記憶に基づく思考が存在するからであり、個が統合性を取るからです。
好ましくない思考から解放されたいときに必要なのは、「好ましくない状態から好ましい状態への変化」を意図するのではなく、好ましい思考になった状態です。
私の解釈では、思考すらも「全」から与えられたものです
それならば、思考の状態は個がコントロールできるものではなく、全の状態で意図するものです
「全の状態で意図する」とはどういうことでしょうか?
言葉にするとどうしても限界があるというか、語弊を生みかねないのですが、
「全の状態で意図」というのは、「記憶による思考や、五感による思考などの、全ての情報を取り払った状態での意図」と表現するのが近いかなと思います
右手の例えのように、自分が個であるという認識から離れることです。
自分は、意識という「全」の一部の「個」であることを思い出して、「全」に委ねます。
「意図する」というと「お金が欲しい」みたいなイメージですが、「全の意図」とは、「起こるがまま」で、「個」としては、それに「委ねる」ということですね。
さらに言うと、「◯◯が欲しい」という「個」の視点からの望みすらも、「全」が与えたものだと私は解釈しています
「◯◯が欲しい」と思う状態すら、全の一部であり、全が作り出したものですから。
しかしながら、個のままで不足を解消しようとしても、個である以上、「個を含む全」を動かせないので、「全の状態での意図」と表現しました。
「全が自身を個であると勘違いしているため、自身で制限を設けてしまって、動かせないから、「全であることを思い出せ」と言うことでしょうか?
全は判断しません、思考しません、全に勘違いはありません、判断しているのは「個」です。
判断とは、過去や五感の情報など、比較する対象がなければできないものです
全とは、分離した状態ではなく、全てを含む状態なので、比較する対象がありません。
思考とは、対象が存在することによって起こります。
存在しないものに思考することはできません。
ただし、何もない状態に思考することはできます。
それは、何もない状態と相対しているからです。
叶えたいものごとがあるとき、叶えたい対象と相対しているのは、エゴと呼ばれる「個」であり、思考が生まれ、判断が生まれます。
全は、叶えたい対象も、エゴすらも含む「全て」です。
ですから、「個が全の一部であることを思い出す」という表現より、個が全と分離していたという勘違いの思考を維持するのをやめる」というのが個人的にしっくりきます。
個が「実現した」と判断するから、「実現として現れる」ということになりますか?
それは、「認識を変えれば現実が変わる」という、願望現象化のメソッドの話でしょうか?
だとすれば、「変わる時もあるし・変わらない時もある」というのが私の答えです。
理由はいくつもあります。
「認識変更できている」と判断している時点で、「全」と分離しており、できている場合と、できていない状態が存在しています。
他者である「他の個」が、「個の認識が変更できているか否かの判断ができないし、「個」が認識変更できているつもりでも、いくつもの関連付いた認識が存在していたりします。
もっというなら、目に見えているもの、聞こえているものが、「あなたが今認識しているもの」であり、それもまた全の一部です。
「全」はすべてを持っていて、「叶っている・叶ってない」という現実を紡ぎ出すのは「個」であるということでしょうか?
全が全てを持っているのではなく、全てが全です。
あなたも私も、植物や無機質なものも含めた全てが「全」です。
私の解釈としては、「個としては何もできない」と思っています。
物語の登場人物である「個」は、どんな行動も思考すらも、作り手である「全」から与えられたものである」と私は思っています。
ですが、個は全からできています。
作り手と登場人物は繋がっており、別の存在ではありません。
認識の変更のみを目指すスレ6
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1554727897/
391 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2020/01/09(木) 14:35:25 ID:TFAhfF/Y0