【体感】【桑田さんpart2】認識の変化は、簡単に言えばエゴ視点ではなく、周りの空間や状況視点になる事です。【自分は波ではなく海である】

達人part
【体感】【桑田さんpart2】認識の変化は、簡単に言えばエゴ視点ではなく、周りの空間や状況視点になる事です。【自分は波ではなく海である】
達人さん
達人さん

そもそも、なんで願望を達成しようと思うかというと、不足を感じてるからなんですよね。
ここに願望達成の罠というか、ある種のパラドックスが発生すると感じているんですが、例えば「ある願望を達成したい」と思った瞬間に、多くの人が陥るパターンが存在します。
願望を達成したい、それは何故かというと、その目標なり願望なりを、手に入れてないからですよね。
つまり、不足を感じているんです。
願望を達成したい=不足を感じたい、なんです。
なぜなら不足を感じてなきゃ、目標だの願望だのは出てこないからです。

ここからあるドラマチックなストーリーが展開されます。
「願望を達成したい」と、そう思った彼は、引き寄せの法則やら、成功哲学やら、様々な願望達成の書籍を読み始めました。
なんで読むのかといえば、「願望が叶っていない」という不足を、常に感じているからです。
しかし、なかなか願望が叶いません、彼はさらに研究を続け、ネットで情報も検索しました。
なぜなら、願望が叶っていないという不足を、常に感じてるからです。

彼は常に、不足を感じ続け、不足を願い、不足を呼び寄せています。
「不足なんか願ってない」と彼は思うかもしれません。
じゃあなんで成功本とか読むんですか?
不足してなきゃ読む必要が無いじゃないですか、不足が無いと困るんですよ、不足を克服する自分は、不足がいなけりゃ存在できないからです。

そして恐ろしい事に、彼が「願望(不足)を叶えたい」と思った瞬間に、これらの不足が、ピザ屋の出前の如く、速攻でやってきた、実現したという事です。

しかし、これらのストーリーは、全て彼が創り出したお話です。
不足という概念を創ったのも彼ですし、その不足を克服するために頑張ってる俺、というストーリーで主演をしているのも彼です。
映写機は、ただ単に映像をスクリーンに映し出しているだけです。
もうお判りと思いますが、彼の正体がエゴなんです。
そして、本当の自分が映写機なんです。

映写機は自分の姿は見れません、映写機が映し出しているスクリーンの映像を観ているだけです。
するとそこにエゴが、「俺に主演させてぇ」と出しゃばってくるのです。
そして映写機自身も、エゴの迫真の演技に騙されて、いつしか、自分が映しているだけの映像の方が自分なんだと勘違いしてしまうのです。

しかしながら、映写機には映像を選択する権利があります。
願望が、不足が湧いてきたら、「それを選択しない」と思えばいいだけです。


パラドックス的な感じになりますが、何も無いは、全てあるんですよ。
「何々が欲しい」と思った瞬間に、エゴが主演の、「不足を感じるでござるの巻」が始まります。
映像に見入ってると、いつしか映写機自身が映像に取り込まれてしまいます。
だったら、自分は映写機なんだという意識に戻ればいいじゃないですか、戻った瞬間に、不足を感じるでござるの巻、は終わります。
終わったという事は、不足が無くなったんですから、既に叶ってるじゃないですか。
まさに今この瞬間に、全て叶ったんですよ。
先ほどは不足を瞬間的に実現しましたが、今度は充足を瞬間的に創ったんですよ。
もう不足を感じるでござるの巻、は、永遠に終わりです。

例えば、悟った人や、引き寄せの天才など、そういった人の著書を読んだり、話を聞くと、「私は全てが完璧だと実感したのです」とか「全ての物に愛情を感じたのです」とか、大体似たような事言ってるんですよね。

だったら、「なにがあっても全てうまくいってると思えばいいのか?」とか、「なんにでも愛を注げば良いのね」と解釈するのが当然だと思います。

つまり単純に言うと、不足を感じたら完璧と唱えろ、あるいは、不足が嫌なら完璧を感じましょう、というように捉えてしまう事が多いと思われます。
しかし、これでは結局不足は存在しています。
エゴの最大の特徴は、分離の感覚を生み出す事です。

不足と戦うために完璧を感じようとする、これは明らかな分離です。
つまり、お釈迦様の掌で暴れる孫悟空の如く、エゴから一歩も動いていないと言えます。

監督、脚本、主演、共演、全部エゴ、ついでに客もエゴの「不足を感じるので、感じないように戦うでござるの巻」が、新たに始まるだけなのです。

そこでは、不足が現れると忍法、完璧の術、とか忍法、愛してるの術、とか、忍法、何だかわからんが、ワクワクするでござるの術、とか、不足を感じるエゴと、不足を感じたくないエゴが、終わりなき戦いを繰り広げているだけなのです。
もちろん、効果があったり無かったりを、繰り返すでしょう。
そしてまた、強力な術を求めて旅立つという、壮大な大河ドラマが、繰り返し行われています。

色んな忍法が出てきて面白かったけど、もう飽きちゃったよ、となったら、どうすれば良いかというと、それは「映写機の意識に還ろう」となるのです。

そもそもなんで不足を感じるのか、というと、生きたい、という、根本的な欲求、そして死の恐怖があるからだと思います。
金が無くては死んでしまう、メシを食わねば死んでしまう、だからこそ、不足を何とかしなければならない、生きなくてはならない、と考えるのだと思います。
まず「生きるでござるの巻」が始まり、「生きるには金やメシがいるでござるの巻」になり、「生きるために足りなくなってきたでござるの巻」になり、「不足を感じるでござるの巻」にどんどん話が進んでいきます。

ある人は、「とにかく足りない」と思い悩み、ある人は「不足を何とかしたいので色々と頑張ってみるか」となるでしょう。
もしかしたら上手くいって、不足を克服できるかもしれませんが、でもまた新たな不足が必ず出てきます。

不足を克服したいという事は、克服すべき不足を、欲しがっている事と同じなのです。
バットマンもスパイダーマンも、倒すべき悪役がいなければ、単なる変態コスプレイヤーになってしまうのです。
結局は同じところを、グルグル回っているだけです。
しかし、この「生きるでござる」という概念すらも疑ってみたらどうでしょう。
そもそもなんで、生まれた、とか、生きている、と認識しているのでしょうか。

次の質問の答えを考えて頂きたいと思います。
自分の両親が生まれる前、自分は何処にいたのだろうか?
何処にもいなかった、違います。
何処にもいなかった、と認識できる意識が在るじゃないですか。
間違いなく自分は意識として存在していたんです。

現実世界で生きているという思い込みは、生まれたばかりの写真があったからとか、呼吸しているからとか、適当な理屈をつけて生きているでござる、という概念を、エゴが作っているだけなのです。

「生きるでござるの巻」が始まったと同時に、じゃあ誰が、となり、「私=エゴが生きているでござる」となるのです。
「生きるでござるの巻」は、エゴが主演しているストーリーだったのです、それに気が付けば「生きるでござるの巻」は消えて無くなります。

生きる」が消えるという事は、生まれてもいないのです。
「生まれてもいない」という事は、死ぬ事もないのです。

生きてないのですから、生きるために何々が不足している、という概念は偽りだったとわかるのです。
生きるでござるの巻、というエゴの作った話の中で、願望を叶えたいと思っていれば、エゴの手の中にいるのですから、どんどん不足が現れ堂々巡りになります。
しかし「生きていなかった」と気付けば、エゴによって作られた自分は消えていきます。
つまり、世界には自分なんて最初から存在していなかったのです。
俺とか私とかは幻想だったと気付けば、最後に残るのは意識(=本当の自分)だけです。
そしてその意識は、ハッキリと世界を認識しているはずです。
意識が無いと周りの世界は出てきませんから。
という事は、世界は意識そのものだったんです。
というか、自分(=意識)が世界であり、宇宙であり、全部を創造していたんです。
自分も他人もいなかったんです。

このような認識の変化が起これば、もう今度こそ「不足を感じるでござるの巻」は感動の最終回です。
常に世界(=自分)は完璧以外の何者でもない状態で、存在していたんです。
それは「生きる」というエゴによる捏造で隠されていただけで、本当はもう最初から既に存在していたんです。
なんで既に存在していたんでしょうか?
それは本当の自分が望んで創ったから存在していたんです。
自分が望んで創り出したんだから、不足なんて存在しないのです。

創造者としての意識に気付けば、「これは不快だから、不足だから、改善しなくては!」とかは思わなくなります。
全部自分が創ったもの、これも自分、あれも自分、気がつけば全ては叶っています。

というか、認識が逆転するので、叶えるという感覚が無くなります。
例えば、何かが欲しいなと思えば、もう「それ=自分」になってしまうので、何々を得る、という感覚や考えが消失してしまうのです。
認識が逆転していないと、「その欲しいものをどうやって自分の物にするでござるか?」とエゴが騒ぎ出し、再び不足を感じ出すと思いますが、エゴが騒ぎ出したのを感じ取れれば十分です。

そこでまたテクニックを求めて、終わりなき旅に出ては行けません、本当の自分に気が付けば良いのです。
その感覚を文章で説明しろと言われれば、私は全て完璧だと認識したんです、とか、全てが愛に包まれていたんです、とかになるでしょう。
認識の変化は、簡単に言えば、エゴ視点ではなく、周りの空間や状況視点になる事です。

小学校の工作か何かで、ベニヤ板みたいなものに仕切りをつけてパチンコ玉を転がす迷路ゲームみたいなのを作った経験がある人もいるかもしれませんが、転がってるパチンコ玉がエゴで、板を動かしてる腕が空間です。
パチンコ玉(=エゴ)は、すごいスピードで板を転がっていきます。
そして、前方に分かれ道が見えてきました。
俺は右に行きたい、絶対に行くんだ、そのためなら願望実現法でも、成功哲学でも、瞑想でも、お祈りでも何でもやるんだ、とエゴは思います。

そして、パチンコ玉(=エゴ)は、見事に右へと曲がる事に成功しました。
やったぞ、俺は成功者だ、才能があるんだ、ナントカメソッドは効果があったんだ、とエゴは思います。
そうこうしていると、パチンコ玉(=エゴ)の前に、またもや分かれ道が見えてきました。
今度も右へ行くぞ、俺は才能があるんだ、ナントカメソッドを唱えれば大丈夫だ、まずは気持ちを楽にして、語尾をござるにして、願望を叶えるでござる、とエゴは思います。

しかし、今度は残念ながら左へ転がってしまいました。
何故だ、メソッドは完璧に実行したのに、何が悪いんだ、ござるとか言ってんのが悪いのか、それとももっといい方法があるのか、どうすればいいんだ、誰か教えてくれ、とエゴは思います。
こうしてエゴの戦いは続きます。

なにやらエゴは勝手にエキサイトしていますが、板を操ってる腕(=空間)は、エゴの感じている葛藤や苦しみなんて知りません。
何故なら、右に傾ければパチンコ玉は右に転がるし、左へ傾ければ左へ行くのは分かりきった事だからです。
分かれ道に入る前に、あらかじめどっちかへ傾けとけば、そちらに行くのは当たり前です。

この例え話で何を伝えたいのかと言いますと、受け入れ難く感じる人もいるかもしれませんが、エゴに掴まってる時には、自分には自由意志がある、と錯覚しているという事です。

エゴは必死に右へ行きたいと願い、自分の意志で願望が達成するように頑張り、自分の意志で右へ曲がったと思っていますが、空間の立場からすれば、自由意志も何もありません、
右へ傾いてんだから、右に行くに決まってんだろ、ていう感じです。

質問さん
質問さん

桑田さんはいつも、意識(=本当の自分)で生活しているのでしょうか

達人さん
達人さん

文章で書くなら「自由意志が無いと認識している状態」、「周りの全てが自分であると認識している状態」で生活しています。
個人としての私という感覚は薄いです。

質問さん
質問さん

それで、どうすれば願望が叶うんですか?

達人さん
達人さん

答えとしては「何もしない」という事になります。
といっても、これでは「そりゃないよぉ」と思われるかもしれないので、私がやっている事を一つ書かせて頂きます。
それは、「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を、自分から周りに対して行う」という事です。
本来は、周りの空間、状況が自分なのですから、それらに対して良い気分で何かを行うのは、文字通り、自分への愛が成せる技です。

逆にエゴと自分を同一視している場合、目の前に壁がある部屋で、その壁を拳を血まみれにしてぶん殴り続けているのと同じです。
「この壁を壊せば何々が達成できる、この壁は俺を邪魔している、不愉快だ、ぶち壊してやる」、本来は壁が本当の自分なのですから、これは自分自身へ憎悪を向けているのと同じです。
結果として、憎悪に満ちた事が降りかかるでしょう。
まさに文章で書けば、引き寄せの法則です。

しかし、結局は認識の変化が起こらないとあまり意味がありません。
メソッドの類だけを書いてしまうと、エゴがそれを鵜呑みにしてしまう危険性があるわけです。
起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う、これだけを読んで突然明日から、周りの人に金品を配ったりしても何も変わらないでしょう。

重要なのは、「周りの世界、空間が自分であるという認識になる事」です
そう思う、そう思い込むのではなく、そうであるという状態です。
そうすれば、世界が、現実世界での取りあえずの形であるあなたを通して、動き出すでしょう。

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