チョイスするということについて、詳しく教えてください
肝心なのは、今まで色々と願望を叶えようと頑張ってきたのは、エゴの作った世界に対してだったということに気づく事です。
全ての概念や思考を全て止めれば、本当の自分とは全ての源だという事がわかります。
それに気づいた時に、ワクワクするに近い感情が自然と湧いているでしょう、というより、最初からそれしかなかったのです。
肉体や、時間や、その他の様々な概念に隠されていたのです。
実は自分は、肉体も時間も無い、ワクワクさんだったのだと気づく事です。
今までの世界(=エゴ)に誤魔化されてきた世界が気に入らないからこれを選ぶ、というのではないです。
これだと、エゴに騙されたままで何も変わっていません。
ただ単純に、こういう世界にしよう、という意図があるだけになるのです。
桑田さんは世界を自分が作っていると途方も無い話をされているのですから、100億円くらい簡単に手に入れられても、不思議は無いように思います。
お金というものに物欲を満たすための物、という役割を与えていると、それは自分で望んだ事ですから、お金はそのように世界に現れてきます。
空から100億円が降ってくる呪文があるとして、それを実践してみたら、何をやっても絶対に開かないが、100億円入ってる金庫が降ってきたら、ふざけんなボケ、となると思うんですよね。
つまり、お金そのものを欲してるんじゃなくて、お金によって物や安全を得られるのだという世界を、自分で創っているという事ですね。
「物欲を満たしたい、だからお金が欲しい」というのは「生きたい、だから呼吸をしたい」というのと、ほぼ同義です。
当たり前のように「生きる」という願望は達成しているわけですから、いちいち呼吸の事なんて気にしてないのと同じです。
普段生活してる時に、呼吸を求めて生活している人は、あまりいないと思います。
「何故お金を引き寄せないのだ?」という質問は多いですが、「何故呼吸を引き寄せないのだ?」と質問する人が少ないのは、お金が必要であるという世界を創っている人が、それだけ多いという事で、呼吸は必要であるという世界を創っている人は、少ないというわけですね。
ただ幸せになりたいだけなんですが、どうして上手く行かないのかな
ただ幸せになりたいと思うなら、その幸せになりたいと思っている自分、幸せになりたいと思っている心は、何処にいるか探してみてください。
自分に愛情を注いでくれたり、笑い合ったり、罵ったり、憎んだりする彼らは、私なのかな、私が私を憎んでいるから、彼らは私を憎むのかな?
認識が変わると、お金に限らず、「全てのものが、在るんだけど無い、無いんだけど在る」状態になります。
「私」というものも、在るけど無くて、無いけど在るので、「私」が無ければ、あなたの行動がどうのこうの自体が無くなります。
自分=世界というのは、まだ違和感があるんだよね
自分=世界の、初期の段階は、アイデンティティーの変化を体験すれば、何となく感覚が掴めます。
呼吸の音や、心臓の音を聞いて、自分の呼吸音だとか、勝手に判定しているのはなんですか、その判定を取り除いたら、どうなるでしょうか、音しかありません。
じゃあ、音という概念を作っているのはなんでしょうか?
概念が作られ、そこに「自分の(何何)」とか、「自分は(何何)」となっていくと、そこからまた、終わりの無いお話が始まります。
自分なりに実践してるのですが、かえって試練が多くなる気がします
色々とコントロールしようとすると、試練をどんどん作ってしまいます。
「願望は何故叶うのか?」、或いは、「願望は何故かなわないのか?」と理由を探して、色々とコントロールしようとすると、どんどんエゴが増殖します。
ですから、全てのコントロールを放棄してしまえばいいのです。
エゴからすれば、「命綱無しでバンジージャンプをしろと言うのか!」といった感じの、殆ど絶叫に近い悲鳴があがると思いますが、全てを放棄して、バンジージャンプした時に、真実が顔を出します。
病気の時に、「医者に行かなきゃ」とか、そういう行為を全てやめるということでしょうか
あなたは今、別に病気ではないでしょう。
「病気になったら薬を飲まなくては!」というのは、もちろん間違ってはいません。
しかしそれは、「願望を叶えるには○○をしなくては!」、または、「○○をやったから、願望が叶ったに違いない!」というエゴを作り出しているのと同じなのです。
願望実現を追い求めると、二つの欲求が起きます。
一つは、願望が叶って、「このやり方でやっていけば大丈夫だ、もっと叶えよう」というコントロールの欲求で、もう一つは、「このやり方ではダメだ、もっと他のやり方を探そう」という、やはりコントロールの欲求です。
思考がコントロールの欲求を呼び、コントロールの欲求が更なる思考を呼びます。
ですから、コントロールを手放した時に、何かが見えます。
もちろん、エゴは絶叫に近い悲鳴で、コントロールを手放す事をやめさせようとするでしょう。
しかし、その絶叫が聞こえるということは、既にエゴに気付いている、認識が変わりつつあるとも言えるのです。
あなたが幻想だと頭ではわかっているというのであれば、何故幻想をいつまでもコントロールしようとするのですか、という事です。
断崖絶壁で、崖から飛び込めずに泣いていた者ですが、結局コントロールを一切諦めましたが、その後、事態は好転しています
自分なんかが右往左往しなくても、自然に好転しています
以前なら偶然だ、と済ませたけど、今回は違うと、意識して言い聞かせています。
これからは、コントロールしない自分を、もっと実感していきます
好転しているのでしたら良かったです。
別に偶然ではないと言い聞かせる必要はありません、偶然でも何でもいいじゃないですか、偶然ではなく、必然じゃないと何か困るんですか。
これは偶然じゃない、と意識するのは、前にも言いましたが、コントロールしたいという欲求があるからです。
偶然だろうが必然だろうが、知った事ではないんですよ。
そもそも、なんでコントロールしたいのかと言うと、結局そのコントロールしたい事柄が、自分にとってあまり良くないものであり、もっと言えば、敵として認識している事が多いのではないか、と思います。
それを敵と勝手に認識すれば、その敵と終わり無き戦いが始まります。
抽象的な表現で申し訳ないですが、オーケストラの指揮者は、多少音がずれていても、その音を敵としては見ずに、うまく調和させていくはずです。
バイオリンの音がズレてるからといって、いきなりバイオリンの奏者にパンチする指揮者はあまりいないでしょう、そんな事をしてたら怪我人続出で、演奏もちょくちょく中断する事になってしまいます。
調和させていけば、意識している自分、意識を向けている事柄といったものが、実は存在せず、一つである事に気付けます。
一つである、という事は、結局の所、最初から一つだったんです。
わざわざ分離させていたのは、エゴの仕業だったという事です。
調和ってなんだろうと感じるなら、とにかく敵を勝手に作るなという意味に、とりあえず取って頂いて結構です。
コントロールしない自分をもっと実感していくことは、とても素晴らしい事ですが、観察者としての自分を意識し出すと、結局観察者としての自分という、エゴを作り出してしまう可能性もあります。
自分は観察者だから、何事にも参加しないでござる、という、妙に達観したエゴが登場する事になります。
観察するものと観察されるものは、本来存在しないものです。
エゴが極端に、現実と認識しているものを大袈裟に表現するんで、「何とかコントロールしなくては!」となってしまい、コントロール出来ないと判断すると、今度は「観察者でいなければ!」となるわけですね。
結局表現が違うだけで、奥底には「強大な敵を操作したい、でも無理っぽいから、過ぎ去るまでは傍観するでござる」という、「敵を何とかスルーしたい」という欲求があるわけです。
つまり、「強大な敵が迫る、人類は生き残れるのか」という、エゴの作ったストーリーに積極的に参加しているのか、それとも、傍観者として参加しているのか、それだけの違いです。
演じる役が変わっただけで、エゴから少しも動いてはいません。
こういったエゴの動きに気付けば、本当の意味での一つである事を体感できると思います。
思考に惑わされずに、今の瞬間と一つになってください。
でも、私の話していることを理解しようとしないでください、結局、全部後付けなんです。
「今の瞬間と一つ」なんて、カッコイイ事いってますけど、これも後付けです。
これは、グーグー寝てる人が、「私は寝ている」と、その時は認識出来ないのと似ています。
起きてから、「ああ、今日はよく寝たなあー」とか、「テレビ見てたけどあの辺から記憶が無いから寝てたんだなー」とか、後付けで言っているのと同じ事です。
私の話なんて、ざっと聞き流して、あとは忘れてしまえばいいのです。