例えば、自己観察をしているのも、それは私という自己であり、どれだけ観察をしても、自分という存在が 無限ループするようにくっついてるはずです。それに気づければ話は終わりなんだけど、そこでいわゆる本当の私だとか、潜在意識だとか、真我だとかが出てくるとややこしくなっちゃう。
本当の私とかいう意味の分からんものも、真我だとかいう実体の分からんものも、潜在意識とかいう範囲の不明瞭なものも、全部同じ。
どれもそれを認識する私が居るから、あるように感じるだけ。
どこからどこまでが非力な自分で、どこからどこまでがその不思議な力を持った本当の私とやらなのか、それを決めているのも、また自分です。
結局全ての認識の土台となっていて、あたかも平然とそこにあるものに気づけばいいだけで、そうなれば神も、潜在意識も、願望も何もない。
つまり、全部自作自演だし、全てが私って訳です。
潜在意識も、顕在意識も、自我も、真我も、世界も、私も、あなたも、全て自分と感じるよく分からない認識の上に成り立ってるように感じてるだけ。
だから、あらゆる可能性も存在も、思考一つでどうにかなると勘違いしちゃうくらいに、グラグラに揺らいでるって感じです。
座禅していたら、思考はあるんだけど、その時、それだけ、意識だけがあるっていうか、広がりがあるっていうか、それが私なんですか?
意識の広がり、何も気にならない境地、色々気づきはあると思います。
でもそれが私ではなく、全てが私です。
どんな不思議体験も、大きな気づきも、それを認識する自分が居るからこそ体験できて、気づける訳です。
その仕組みに気づいたなら、おのずと自分なりの答えは出ると思います。
何でも叶う人は、座禅中みたいな感じで、いつも過ごしてるのかな?
そんな感じの日もありますけど、その感覚じゃなきゃ駄目って事はありません。
その意識の広がりのような体験は、とても素敵ですけれど、その体験自体を求めない方がいいかもしれません。
それを体験した自分に気づく。
ちゃっかり普通に紛れ込んでる自分の、どうしようも無さに気づくって感じかな。
全てが自分でも、頭がフサフサになる方法が分かりません。
その方法やメソッドを求める事をやめちゃいましょう。
自分を認識しているのはどこまでも自分です。
それをどうにかしたいと思う所が、最大の勘違いというか、悩みの原因になってるわけです。
その認識をやめるという事は、フサフサになりたいだとか、どうやったら自分を変えられるんだとか、そういうお馴染みの認識とは一番遠い所に行くこと、すなわち、その答え探し自体をやめることです。
どうしたらいいのか?、何をしたらベストなのか?、方法は?、道すじは?、といった、ずっと続けてきたその答え探しをやめてしまうことです。
それは、とても不安になると思います。
願望が叶わないんじゃないか?、もっと不幸になるんじゃないか?、進展しなくなるんじゃないか?、とかね。
しかし、思考も感情も幻、自分という認識も幻です。
そもそも、そうやって何かしたがっている、不安になっている自分すらも幻ってことです。
それはまるで気の狂った考え方だと思うかもしれませんが、そう思うことすら、自分ありきです。
今、こうして色々と考え、悩んでいるのも、全部自分という存在ありきです。
全ての答え探し、原因探しをやめる。
よく、諦めたら叶うなんて言われてるのも、これに近いからかもしれません。
あまり特定の願望の話はミスリードの元になるんでしたくないんですが、例えばそのフサフサになりたいっていう願望ですが、何かを学んで、いわゆる潜在意識的にアクションを起こしてから、叶えたいと思ってる訳ですよね。
願いを持つのも自分で、そのアクションの結果、叶えるのも自分です。
その答え探しや原因探し自体が、実現の先延ばしになってる訳です。
だからどうすればいいのか?ってなると思いますが、それを思っているのも自分です。
達成したい願望が大きければ大きい程、メソッドに力入れちゃうよね
願望が大きいほど、全てが自分だって事は認めづらくなるかもしれない。
大事な自分と、自分の大切な大切な願望、これも全て幻だっていう事に、激しい抵抗を感じる人も多いと思うんです。
でも、それを幻だって認めたって不幸にはならないし、悪い変化は何も起きない。
っていうかむしろ、良い方向にしか動かないと思う。
本来、叶えたいものは100%叶うからね。
願望達成と、悟りとか真理とかは混同しない方がいいんじゃないかと思う。
あえて混同してます、というかそもそも分かれてないと思う。
僕が、メソッドや方法を捨てて、自分のあり方そのものに気づく事を勧めるのは、どう考えても、願望実現の延長線上に、引き寄せや潜在意識っていう仕組みに対する疑問の壁があるからです。
やり方でも在り方でも何でもいいんですが、もしやり方だけに絞るとしても、その土台となってるものを無視する事は無いんじゃないかなと思います。
別に願望達成のメソッドも、やりたきゃやればいいし、何でもすればいいと思うんです。
ただ、それを叶える力とやらも、結局最後は自分という認識それ自体に繋がってると思うし、そこを避けては通れないと思うんです
全ては幻、全ては私、私は幻、世界は私、世界は幻、何も無いけど全てある、全ては私の中にある、私が願望を産み出して、私が叶えている、ほんとだ、自作自演だ、なんかわかったかも!
グッドです、いっぺんそこに辿り着いたら、願望実現にも実感と確信が沸くよね、おめでとう。
従来の願望実現のいわゆる正道の流れがあります。
私には願望がある、そして、私が叶える為に何かする、その結果、何らかの作用で叶う、という流れです。
この分かりやすい流れと、その各種メソッドが、分かりやすいゆえに、方法やメソッドがあふれて、迷子になっている人が多いんじゃないか、と思っています。
というのも、僕自身がこのメソッドのたぐいで大混乱したからなんです。
本を読んだり、ブログを読んだりして、知識だらけになっちゃったんです。
願望とシンプルに向き合うこと、それが出来れば、もちろんそれに越した事はないですし、それが楽だと思います。
正道を否定する訳ではありません。
ただ、僕と同じ混乱をしている人って、そのシンプルに願望と向き合うことが出来なくなってると思うんです。
自我が幻だと気づこうが、僕も普通に願望を持ってますし、変わらず日常を過ごしてますし、別に何か消え去る訳じゃない。
要は方法に縛られず、ゴールを見つけちゃっても損は無いよ、方法で叶えてもいいし、それに関係なく叶えてもいいし、超自由だって気づけるよって言いたいだけなんです。
正道ではなく、邪道というか、裏道を教えてあげてもいいんじゃないかなって思っています。
潜在意識を使いこなす達人が集うスレ26
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1406792429/
13 : 幸せな名無しさん :2014/07/31(木) 23:30:05 g5AEl5jg0