あなたたちが必死に囚われている概念について、話してみようか。
掲示板で交わされる文字だが、そこには文字という、直線や曲線で構成された、形状があるだけだ。
会話にしても、音波が繰り返し行き来しているだけだ。
そこに内容が入るから、それぞれの無機質な形は色を持つことになる。
それこそが、概念といわれるものだ。
あなたの目の前には、様々な物体があるだろう。
パソコンという名前を与えられ、使い方を与えられ、役割を与える。
ティッシュという名前を与えられ、役割を与える。
だがそれら、内容がなければ、単なる物体である。
さらに物体という視覚情報すらも内容であり、それすらも認識しなければ、何もない状態となる。
これが無である。
掲示板の意見の交わし合いも、所詮は文字という形状が並んでいるだけである。
だが、この文字の羅列は青という内容であるらしく、こっちの文字列は赤という内容らしい。
だからそれぞれが違うものであると主張をしているようだ。
だがどちらも単なる文字だ。
黒い直線や曲線が重なり合った絵のようなものだ。
これは何を意味しているのか。
どれだけ分離を作り出しても、しょせんは大きな枠組の中であるということだ。
日本語が読めない外国の人がこの掲示板を観れば、日本の文字であることは知識としてあるかもしれないが、どこに対立があり、どこに色の違いがあるのかは理解できない。
ただ、日本の文字らしいものが、調和として目に映るだけである。
だから一段、さらに一段、抽象的な視点で物事を観ていくと、どんどん調和されていき、最終的には必ず無にたどり着く。
町にいる、東京にいる、日本にいる、アジアにいる、地球にいる、太陽系にいる、これはどれでも同じ意味を指しているが、細かな内容がどんどん破棄されていき、
抽象化=調和していくのが理解できるだろう。最上階にあるのはワンネスだ。
つまり概念は分離の象徴であり、仏陀のいうく、以外のなにものでもない。
ちなみに、幸福というそれ自体も概念である。
だから幸福すらも苦なのである。
行き着いた先には、幸福すらもない、だから至福の世界なのだ。
次は時間について語ろう。
時間は存在していない。
わかりやすい例として、あなたが最近読み始めた漫画があるとする。
面白くて読みふけるあなたは、
主人公が様々な四苦八苦をし、山あり谷ありの展開を乗り越え、期待や不安にこの後どうなるんだと目が離せない。
感情移入が高ければ高いほど、どっぷりその漫画の世界にのめり込む。
そして最終話がやってくる。
すべての物語が決着し、その漫画の最後のページを閉じる。
しばらくして、あなたはまた同じ漫画を読み始めた。
最終話も、物語のオチも知っているあなたは、どんな意識で様々な展開に四苦八苦している主人公を観ているだろうか。
結末を知っている状態で、まだそこに至っていない主人公や、物語を観ている。
つまり、すべて内包した世界を、時間の概念を飛び越えて認識しているのだ。
主人公が苦悩しているシーンを読んでいても、結末を知っているあなたは、
そうそう、ここで苦しむんだな、でも大丈夫なんだよねと初見の時とは違う意識で捉えることだろう。
つまり、常に安心しているのだ。
これをそのまま、あなたの人生に置き換えて考えてみてほしい。
今日のあなたは、昨日までの結末を知っている。
3ヶ月前でも昨日でも、5年前でも、まるで夢の中のような記憶があるだろう。
それらは過ぎている。
夢のようではなく、本当に夢なのだ。
だから、あなたがいまいるそこも、夢の中なのだ。
理解できるかな。
今日のあなたが過去のあなたをすべて内包しているわけで、つまりノンリニアだ。
記憶の連続性により、錯覚しがちな時間は、実は存在していないことになる。
あなたが花瓶を買ってきて、窓際に飾っていたが、落として割れて、いまは無い。
そこには何もないが、あるのだ。
無から生まれ、無へ消える。
本当にあったのか、本当にないのか。
どちらでもない。
そういうことを探しても無駄だ。
海の中で海はどこにあると探しているかのようだ。
だが、いったん気付けば、もの凄く単純なものである。
目の前にパソコンやティッシュがあっても、それらが本当は何なのか、誰もわからない。
前にも言ったが、外的に付与される幾多の概念の組合わさりにより、内容を認識するが、それ自体を指し示してはいない。
それらは無であるがゆえ、本質はないのだ。
森羅万象、すべては無である。
生物も、感情も思考も、ないのではなく、無なのである。
あと、金持ちや恋愛にこだわる人が多いが、あきらめなさい。
あきらめれば、いずれ手にしている。
どういう意味かは、実際にそれを体験すればわかる。
嘘でもなければ、ナントカ体験でもない、リアルな話だよ。
無限の富の意味もわかるだろう。
たぶん、今の認識で理解しているものとはかけ離れていると思うが、最高の満足を得られることは間違いない。
前にも言ったように、どんな状態でもそれこそがあなたの人生だ。
これも文章では、非常に伝えにくいが、すべてあなたなのだ。
通り過ぎる車も、やかましいファミレスの若者も、テレビの可愛いアイドルも、ギターも服も、資産家も政治家もそれら概念が、あなたの認識世界の中で組合わさり、重なり合った隙間こそが、あなたなのだ。
要は、それらがあなたである。
たくさん眠りたい、もっと寝たい、それが夢だ、
という人は、たくさん睡眠できることに視点が行きがちだが、
実際は、眠りたくなるような疲れる毎日があるからこそ、眠りたいのだ。
ラーメン好きも、ラーメン以外のものも食べているから、ラーメンが好きなのだ。
それはそれ以外で構成されている。
暑いは、寒いがなければ存在できない。
これが、あなたとは、普段自分と思っている以外のすべて、ということである。
一元論がどうこうと主張する人が多いが、一元論が存在するためには、それ以外が必要だ。
だが、それらもしょせん、概念を超えることができず、
実際は、どちらもなく、ただそれがあるだけなのである。
だが、単一ではそれを認識できないから、我々は夢を見ている、(夢を見させられている)。
1-1=0。
あなたの見ている世界のすべては、あなたを通して、初めてその世界を認識できる。
だから、あなたは生まれたのだ。
そのために、あなたはいるのだよ。
あなたは私という存在を見て、なんらかの概念を持つだろう。
その概念こそが、隙間であり、あなたを構成しているパーツのひとつだ。
あなたの部屋の明るさ、気温、音、物体、すべてに、あなたが意識を向けたとたんに、概念を持つ。
だが概念はそれを指し示しておらず、単なるあなたの印象だ。
つまり、そういうありもしない幻で我々は構成されている。
体に意識を向けることで、概念を持たずにそれを感じることができる。
つまりパソコンと言われるものをパソコンとは認識せずに、それを感じることができるのだ。
それらは常にあなたの周りにあるよ。
概念レベルならばそれをどう観るか、ということになる。
まあ、貧乏でも幸せと感じる人もいるし、金持ちでも苦しいと感じている人も多い。
結局はそれ自体が何かを生み出しているわけではなく、すべては切っても切れない概念に支配されてしまう。
だが概念は変容できるものだから、都合良く解釈していればいいんじゃないかな。
結局は、こういう精神世界の話は忘れてしまうに限るのだ。
そして、瞬間瞬間に訪れるすべてを感じきりながら生きることで、永続した充実感を得られるだろう。
上から目線で説教されてるみたいな書き方で気分悪い
書き方に印象を持つことこそ、概念の象徴たるものだな。
アインシュタインに上から目線で理論を説かれるのと、満員電車の座席で寝転んでる学生に上から目線で文句を言われるのでは、何が違うのか。
つまり、アインシュタインも学生も、私も、それらは何も力を持たない。
あなたが作り出した概念により、あなたは振り回されているのだ。
体を意識するのもいいよ。
意味がよくわからんので、簡単に説明して
つまり、誰かが何かを話している、それだけのことなのに、あなたはその人の、話し方態度肩書きにより、印象を作り上げている。
それが苦しみを生んでいるんだよ。
マネーゲーム本のプロセスとは、そういう印象=概念を客観的に観ることで、本来のそれを感じることが可能になる。
それを続けていると、いかに自分が印象で世界を判断し、その作り上げた枠組みの中で苦しみ続けていたかを気付くことができる。
付け加えておくが、概念を持ってしまっているあなたに罪は無い。
例えばある人が、幼少時代、赤い下着を着けていたことでイジメに遭い、
顔が四角いという理由で異性から笑われた。
その人が今、郵便ポストに怒鳴り散らしている。
その人からすれば切実な拒絶反応だが、周りから観ればクレイジーである。
これが概念の愚かさだ。
だがその人に罪は無く、その人の記憶=概念の元ネタによる支配であることがわかる。
誰かに苛立つとき、過去に嫌な思いをした記憶が、その誰かの言動によって、蘇らせられるからである。
つまり、その目の前にいる誰かは、何も悪くない。
マネーゲーム本のプロセスでいう、本来の自分とは、単に自分のことである。
すべてでっち上げというのは、自分で作り上げた概念に振り回されているから、ということである。
だから世界は自分なのだ。
じゃあ、それら概念を取っ払ってしまえばどうなるのか。
いや、五感がある以上、概念は取っ払えないから、(つまり、五感の認識自体が概念であるから)、概念を都合の良いように変えればいい=世界は自在に変えられる、ただそれだけのことだ。
なんか押し付けられてる感じがするんだよね
自分で押し付けていることに、早く気付きなさい。
あなたから見えている私は存在していない。
でもあなたには、あなただけの私が見えているだろう。
そのまま生きていくのもいいし、何か変えたくなったら、変えてみてもいい。
マネーゲーム本の著者も、その他のスピリチュアルな伝道者も、金儲けが交わることで、誰もが印象を変えてしまう。
この意味に早く気付きなさい。
すべては、あなたがたのために、ただ存在しているのに、あなたがたが、すべて灰にしてしまっているのだよ。
プロセスの目的は、物事の価値を作ってる、全ての幻想である観念を崩壊させる事により、実在に辿り着くというのが、作者のやりたい事ではなかろうか。
実在というのは、ヨガでの呼び方で、本来の自己であり、仏教の空、老子のタオと呼ばれるものです。
その通りだが、現実的には概念は崩壊できない。
脳=五感は、概念を認識する器官だからだ。
認識が消えてしまうということになる。
それは確かに、あなたの言う、空やタオである。
だがそれだと、あなた自体も概念であるがゆえに消失する。
熟睡中は感情も思考も記憶もないのに、心臓も動いていれば呼吸もしている。
それが境地である。
だが、あなたはそうなりたいのか。
それはつまり、脳死状態だ。
いずれ死という、安楽の境地に至るわけであり、概念の完全崩壊は、その時に任せよう。
幻想の世界で生きているならば、幻想を、大いに楽しむこと=概念を都合良く書き換えることがベストであると、私は思っている。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12◆◆
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/esp/1367946032/
750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/14(金) 21:12:24.95 ID:gF9MI9z/