私は何年間も、自分がエゴと一体化していることに気づけなかったです。
というか、気づいていて、見ないふりをしていたという感じです。
エゴのいうことが本当かもしれないから、エゴに気づいても、見ないふりをしていました。
叶っている」ということを信じても、現実を見て「あ、違ったんだ、叶ってない」ってなるのが怖すぎたんです。
今までにも、そういうことが何度もあったからです。
やっとそれに気づいてから、エゴから本気で離れる気になったので、自己観察を始めて、少しエゴと距離が置けるようになりました。
これが別の領域なのかはわからないけど、ホッとすることもあります。
でも、思考や感情を見ているつもりでも、一向に苦しさが収まらない時があって、これは何だろうと思っていたんだけど、今日気づきました。
自己観察のときに、「何何と感じている」、「何何と思っている」、ということを実践していて、エゴを客観視できていると思っていたけど、その一瞬の後に「それが本当だろうね」、「現実はそうなっているだろうね」、「それが事実だろうね」、という思考・感情が、こっそりと、気づかれないように、狡猾に、挟まっていることに気づきました。
これは、エゴを採用するエゴを選択している、ということなんだと思います。
今までずっと、自分が、エゴのいうことにリアリティーを与えていて、現実になることを許可していたんです。
特定の現象にリアリティーを感じてしまった時に、自分でやってることじゃないし、感じてしまうものは感じちゃうんだからしょうがない、操作できない、と思っていたけど、自分が何にリアリティーを与えるかを選択していて、その結果、感情を感じていたんです。本当に自作自演ですね。
あと、エゴのいうことが現実だったときのために、ポジティブなことにリアリティーを与えることを、自分に絶対に禁止していることもわかりました。
アファをしていても苦しかったのは、その裏で、ステルス的に、エゴが、「それは現実じゃないから」と言っていて、それを自分が「そうだよね」みたいに同意する、というプロセスが挟まっていました。
苦しみを感じているときは、いつでも、エゴと自分が同調しているときなんです。
それは、今まで当たり前だったことで、ひそかに行われていて、気づきにくかったです。
私の立ち位置は、一歩も動いていなかったんですから、いくらアファしても効果ないわけですね。
自分を愛しているかどうかとか、快であるかどうかとか、観念とか、本当の願いなのかとか、魂がどうとか、そんな精神性は何も関係ないですが、それらによって、選択肢が限定されたものだけになってしまったり、自分がリアリティーを与える方向を操作されやすくなってしまうだけです。
自分がリアリティーを与えたことが現実であり、現象として起こる、というのが真実です。
エゴというものは、ネットワークビジネスとか宗教にハマっていて、勧誘してくる人に似ていると思いました。
エゴに同意するとつけあがり、勧誘を激しくしてきて、仲間を呼んで来たりしてしつこいです。
エゴに否定すると、むきになって反論して、ヒステリックになって、よりヒートアップします。
例えば、自分が人の話を聞いた時に、その話を本気にしていない場合に、なんて言いますか。
自分が人に何かを話したときに、どういうふうに返事されると、「この人私の話を聞いてくれてないんだな」と思いますか。
私の場合は、「へー」という返事をされると、「この人私の話を聞いてくれてないんだな」と思います。
これからは、エゴに対して、そのリアクションで行こうと思っています。
すごく自己観察ができてるなと思います。
「思考を徹底的に漏らさず観ろ」っていわれるけど、観察してても、ステルス的に隠れているエゴがいるものですね。
そこに気がつくと、一気に前進するから、そうやって気づきを深めていくんですね。
私は願望に対する執着がハンパなくて、今思えば、自分の内面を変える気なんかなかったんだと思います。
アファなどの願望実現メソッドを優先して、何年も経ってしまいました。
アファもエゴに思考をさせないことに意義があるのですが、おまじないのように考えていたんだと思います。
これからもステルスエゴに気づいて、本来の自分に戻りたいです。
なんの制限もなく、生きたいように生かしてあげたいと思います。
数年前からずっとある胸の痛みも、「今エゴに同意してるよ」と言うセンサーだと思えば、わかりやすいアイテムを搭載していてラッキーと思えてきました。
認識の変更のみを目指すスレ4
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966 : 幸せな名無しさん :2018/01/20(土) 11:41:19 PRRFmqF20