現象化は、誰しもが常に選択をしているんでしょうか
常に選択をしているかどうかは、本当のところは分からない。
桑田さんが言ってる「チョイスする」という言葉を、そのまま「私がチョイスできるんだ」と受け取ってしまうと、いわゆるエゴのままだ。
そして、「なぜチョイスするのか」と聞かれれば、必ず、「今を変えたい」という願望があり、それはやはり、「今は不都合」というのが隠れており、結局「現実ありき」なんだ。
達人たちが言ってることを、まるで教科書のように「理解」しようとすると、ゴールに近づいている気がするが、それは違う、元々ゴールにいる。
だが、エゴの領域が本当の自分の居場所なんだという勘違いから、「なんとかしてこの状況を脱しなければ」、「理解しなくては」、「悟らなくては」、というものが生まれる。
そしてその、「コントロールしなくては」と言ってるのはエゴだ。
エゴは何かをしないと気が済まない。
「良いもの」に心を惹かれ、「悪いもの」は拒絶する。
だがそれは、自分自身ではない。
本当の自分は、身体も精神も持たない。
「私」は「意識」そのものであり、現実に生きている身体が「私」なのではない。
本当の自分は、現実をただ眺めているだけの存在で、全ての基盤であり、全てを受け入れている。
現実は直接的にコントロールできないけど、コントロールしたかった現象を、勝手に宇宙が用意してくれるってことなのかな。
そういう判断は、エゴによる判断で、つまりエゴは結果しか見えない。
それこそ、なぜかわからないけど、世界は良い方に動くとしか言えないゆえんである。
それを言葉にしようとすると「宇宙が用意してくれる」とかいう表現にするしかない。
エゴにはわかるはずがないから、「理由は分からないんだけど叶う」と言うしかない。
でもそこで、「この意味不明なパワーを理解しよう」とするのは、エゴ対エゴの不毛な戦い。
「この感覚を理解しないと、また苦しい現実だ」となってしまう。
「悟ろう」としている意識が、そのまま「悟っている」意識だから、エゴは悟れない、エゴはコントロールできない。
エゴによる格闘を諦めたそのとき、全ての存在が、「今」だったことがわかる。
全てのチョイスの背後に「今は不都合」っていうのが隠れているのはなぜですか
単純に、こんな楽しいこと、嬉しいことを経験したいって思うことないですか、例えば、「あそこのラーメンどんな味だろう」とかです。
チョイスというのは、単にチョイスだよ。
私は「願望をチョイス」して、「願望を叶える」って思っている人に向けて書いたつもりだ。
あなたみたいに「願望」というものを、「ラーメンうまそう」くらいに捉えている人には、今更の話だったかもしれない。
多くの人にとって、「願望」というのは、ラーメンどころの話ではない。
だが、残念ながら「ラーメンうまそう」というのも、やはりエゴだ。
願望はエゴではない、その通りだ。
エゴは、「願望を持った」と思っている視点だ。
誤解があるようだが、エゴは消すべきものではない、というか、消えない。
本当の自分は、判断することはない。
「ラーメンうまそう」と判断して、実際にラーメンを食べて、「幸せだ」と言っているのはエゴだ。
だが、そのエゴには自由意志はない。
あたかも、自由にラーメンをチョイスして、自由にラーメンにありつけたと思われるが、実はそうではない。
そのラーメンを食べた後、過程を思い出すと、腹が減る、おいしそうなラーメンを見かける、お金を確認する、バイクでラーメン屋へ行く、ラーメンを食べる、みたいな過程がある。
結局、「腹が減る」という取っ掛かりに、紆余曲折の末、「ラーメンを食べる」というのが引き出されたわけだ。
これを読んで、「いや、ただ単においしそうだから食べたんだよ」というのも同じことだ。
つまりは、肉体に生きる限り、エゴによる取っ掛かりによって動かされるわけだ。
「チョイスすれば何でも叶う」と言ってる人も、肉体一つで、空を自由に飛べない。
それは、「人間の体」という制限があるから。
それなのに、「いや・空を飛べるんだ、チョイスすればね」と思うところに苦しみが生まれ、それはエゴにとっては自由の選択かもしれないが、思いっきり制限に巻き込まれている選択であり、本物の自由とはかけ離れる。
だが、エゴを回避しろ、とは言っていない、それは不可能だ。
それよりも、受け入れるということだ。
「楽しそうだなー」も、「苦しいなー」も、「トイレいきたいなー」も、全て受け入れて、自然な行動に身を任せる。
「トイレに行きたい」と思うなら、そこに行く。
心に嘘をついて「便意を感じるけど、これはエゴだから行かないぞ」というのではない。
その行動は、自分が「している」のではない、「起こっている」だけだ。
「起こっている」のを見ている、経験しているのが、本当の自分だ。
エゴは「何もしない」、というより、「何もできない」。
それに気づいている視点は、もはやエゴとは無関係な視点だ。
全てを傍観するだけだ。
「受け入れる」というのも、意志が入ってないかな。
エゴが受け入れてるんじゃないのか、「受け入れ」が起こっているのかな。
全くその通りだ、私たちに自由意志はない。
常に、何かの刺激によって、行動が導き出される。
比喩で言うなら、私たちは上流から下流へと流れる水のごとく、流れに身を任せるしかないんだ。
だがここで、思い違いをする。
水滴一滴が、自分自身だと勘違いして、、どうしても上流へ戻りたいという。
水流一滴がエゴで、上流へ戻りたいというのが願望だ。
ところが、水滴一滴には到底叶わない夢だ。
だから「現実は辛い」。
そうして、水滴一滴は上流へ戻ることを諦めて、流れに身を任せることを決意する。
これが、「受け入れる」ということ。
全てを受け入れ、流されていくうちに気づく。
自分も水だったんだ、いや、川の流れそのものだったんだ、と気付く。
川の流れそのものというのが、(本当の自分)だ。
上流も中流も下流も、本当は全て自分自身だったんだ、と気付く。
一歩もそこから外れたことはなかったんだ、と気付く。
川そのものだったから、水滴一滴も存在できたんだ、と気付く。
私が「受け入れる」ということで伝えたいことは、ざっと言えばこういうことだ。
全てを受け入れたそのとき、エゴによる制限が消え、本当の自由が見える。
それを受け入れることに恐ろしく抵抗があるから、自愛するとかメソッドとか、受け入れやすくするような過程があるんですよね
そのとおりだが、メソッドなり自愛なりは、正直まわりくどいと思う。
だからこそ、方法がわからない人がいるのが事実だ。
あなたが言うような「受け入れることの抵抗」こそ、回避するべきではない重要なものだ。
それと向き合うことが目的なんだから、「受け入れやすい」ほうに避ける必要はない。
結局「受け入れやすい」のは、エゴの逃げ道だ。
私は受け入れることへの抵抗が半端なく強かった。
正面から受け入れようとしても負け続けたから、回り道でも自愛で受け入れたよ。
すぐ受け入れられるなら向き合えばいいと思うけど、
できないからダメではなく、回り道でも受け入れる方法はあるといいたいです
達観できている人ばっかりじゃないのだから、やりたいようにやってみたらいいと思うよ、成功も失敗も糧になるよ。
やりたいようにやってみればいいっていうセリフは、正論だけど一番困っちゃいます。
頭が柔らかい人や、素直な人には良いんだろうけど、自分のような人間は、どうすればいいのってなります
「自分がやりたいようにやる」、これは正しいようで正しくない、余計な混乱を招くだけだ。
そもそも、「やること」はない。
「やること」を推奨している人が、「やること」でたどり着くだろうと思っているゴールは、今ここさえあれば気づけるものだ。
メソッドについて書く。
メソッドを「受け入れるために」始めることは、心の奥では「受け入れ」ていないということだ。
自愛に例えれば、「愛している」と唱えることで、苦しい感情を抑えようとしている。
これは「受け入れる」こととは真逆のことだ
「抑えるつもりはない」というかもしれないが、では、何のために、突然「愛している」と唱えるのか、それは「苦しみを無くすため」だ。
「苦しみから脱するため」にやってみた人は分かると思うが、愛していると唱えることへの違和感、猜疑感を味わったことがあるはずだ。
何故、色々とメソッドがあちこちに溢れているのか。
そもそもメソッドは、そのメソッドの創始者であるただ一人が、自分のためだけの自然な流れで出来上がったものだ。
「自然な流れ」というのが肝だ。
彼は「やった」のではない、「後から気づけば」、そのように「やっていた」、ということだ。
だが、それを人に伝えると、それはまるで」、「公式なメソッド」であるかのように確立する。
公式であるから「ルール」ができるが、それは「自然」ではない、だから違和感を感じる。
メソッドをやっていて一時的に気分がよくなるかもしれないが、気分が落ち込んでしまうと、あわてふためいてしまう、
これは多くの人が分かることだろうと思う。
そして、メソッドをやったことへの「見返り」を求めてしまう。
これだけメソッドをやれば、達人が言うように、効果があるだろう、などと言う。
メソッドの創始者は「結果から、メソッドに気づいた、というのに、追従者は「メソッドから、結果を求める」。
「やらなければならない、やらなければ変わらない」、という思考は、ここから生まれるわけだ。
ただ単に、全てを流せばいいのに、わざわざ「流し方」を求める必要はない、流れを止めなければ、勝手に流れるものだ。
「苦しい感情」からも逃げないこと、流れていくものを味わい、見ること、それだけだ。
私は、完全にエゴが消えたと思えるような経験、実感がないです
実感を求めれば、実感から離れてしまう。
突き抜けようとすると、突き抜けられない。
それよりも、「ここに在る意識」を感じることだ
あなたは毎日幸せですか
幸せだ。
欲は無くならないから、やりたいならやればいい、やりたくないならやらなければいい。
やりたくないけどやらないといけないなら、気のすむまでやればいい、そのことに悩まなくていい。
それを「やっている」のはあなたではない、「やっている」が起こっているだけ、それを見ていればいい。
「理想の恋人をゲットしたいとき、理想の恋人ゲットするのに、どうすればいい、することはないなら、無理なのかな、願うことは無駄なのかな。
じゃあ逆に、「恋人ができる」と思い込めば、恋人ができるのか?
その方法でできていないから、未だにそんなことを言ってるんじゃないか?
「こうすれば叶う、叶わない」という方法論にしがみついて、あなたは本当に恋人ができると思うのか?
私が言いたいことは、「叶えるため」に、不自然な行動はしなくてもよいってことだ。
だから、願いたいなら願えばいいし、イメージしたいならイメージしたらいいし、行動したければ行動すればいい。
だが私は、ここに在る「意識」に気づくことを勧める。
本当の自分は、肉体でも精神でもない。
本当の自分は、欠乏や不安をもたない。
本当の自分は、純粋な意識そのものだ。
それに気づけば、幸せはすぐそこにある。
自分が幸せであるので、幸せだと感じることが、世界で「起こる」。
それをリアルタイムで体験するのも、本当の自分だ。
そして、私たちはいつも、意識としてここに在る、ただ在る。
達人と呼ばれている人が出てくることによって、どうしても「アドバイスする側」と「相談する側」に別れてしまっているようだ。
それが「覚醒している側」と「覚醒していない側」のような分裂が起きる原因である。
あなたは何のために、「達人」の言うことを理解しようとするのか。
それは「現実をコントロールするため」だ。
「分かったから叶いました」とか、「達人の領域を経験したから叶いました」などの報告に釣られて、あなたは俄然理解しようとする。
だが、根本的な部分では、延々と「私は不幸」ということに意識が飛んでいる。
よく聞いて欲しいのだが、「不幸」なり、「不足」なり、今自分が苦しんでいるのは、自分の勝手な思い込みの範疇を積極的に採用しているからであり、それらは中身がない空想なんだ、悩みに実体はない。
確かなものは「ここに在る」という意識だけだ。
それにもかかわらず、その「不幸」を克服した人たちを、自分達とは別格の「達人」と崇めることで、「今の自分には克服する力はない」としてしまい、自分を「問題のある自分」ととらえ続けてしまっているんだ。
私は「苦しい感情」から、長い間逃げずに感じ切ったり認めているのに、底なしのように、苦しみの感情が湧いてきてしまいます、
この感情が終わらないのです。
苦しい感情に気づけば、もう何もすることはない。
消えなくても問題はない、それは何もあなたに影響しない。
おそらく、気づけば苦しみが無くなり、幸せな気分になるはずだと思っていたのではないか?
そうではない。
苦しみや幸せに気づいている正体こそが、本当の自分だ。
苦しみや幸せが、イコール自分ではない。
気づいている立場、それが自分であり、実は常にそこにいるんだ。
あなたの場合、「幸せを感じること」が足かせのようになっている。
苦しみがあなた自身ではなかったと気づけばそれだけでいい。
だれしもみんな「苦しみ」から解放されたところにいるんだ。
なのに、それを認めたくないのはなぜだ?
それは誰がそうさせているのか?
今自分がそこにいるだけなのに、何が自分を苦しめているのか?
そのことを、苦しいときに問い続けてみたら、何かわかるかもしれない。
エゴについて書いておく。
まず、エゴは悪いものではない、消すべきものでもない。
そもそも、エゴを消そうとすること自体が、エゴを問題視してしまうことであり、そうしなければ、エゴは無害なままである。
私たちは人間の肉体に則っているので、常に、ある欲求、(刺激)に従って行動している。
そして、そこでは社会のルールや慣習なりが作用して、人間社会でうまくやっていくための行動を、意識的にも無意識的にも選んでいる。
それが人間としての自然である。
だが、個人には、必要以上に自分を制限してしまう思い込みも存在する。
「私はできの悪い人間だ」、とか、「私は貧しくて不幸だ」、とか、「私はニンジンが嫌いだ」、とか、過度に、自分を懲り固めてしまっている。
だが、本当の自分はそんな思い込みにも縛られていない。
あくまで自分は、それに気づいている存在だ。
だが、大抵の人が、「凝り固まった自分」が、真の自分であると勘違いしてしまい、本来の見ている立場を忘れてしまい、悩み苦しみ、またもや「苦しい自分」を本当の自分と同一視してしまう。
そうして、なんとかメソッドが必要だとか、愛が足りないだとか言って、わざわざ「悪役」として設定したエゴとの戦いを始めてしまう。
思い出して欲しいのは、本当の自分は、肉体も感情も持たない「意識」ということだ。
だから、最初から問題も起きていなければ、最初から、エゴで言う「完璧」なんだ。
自分の思い込みに気づけた時点で、自分とエゴとを一線引けているわけだ。
最初から何も失っていないし、何も持っていない。
このことが分かっても、人間から解脱するわけではない。
人間が自分自身だと思い込んでいた視点で、「お先真っ暗だ」と思っていたことが、「このやばい状況を楽しもう」という視点へと変わるんだ。
先程も言ったように、本当の自分には、一切の問題も起きていないからだ。
だから、そこからは無条件に幸せが選べる。
フィルターを通して、「苦しみ」しか選べないと思っていたのが、「幸せ」も選べる立場に変わる。
とは言っても、選ばなくても問題はない、選ぶかどうかは問題ではないからだ。
ここまでの話を、大雑把にまとめると、「エゴに従うことでエゴを超越する」、そして、「最初からエゴを超越していた」ということだ。
108以外質疑応答【7】
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356: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 11:35:22 ID:Si5wlr9o0