私は愛し愛される恋人が欲しいんです。
たまに本当に寂しく感じる時があり、将来も不安です。
自分に愛を送ったりするのが良いのでしょうか。
あなたが今、時間に追われてるとかじゃなくて、心にゆとりがあったら試してみて。
今、モテる私に変身する。
変身した瞬間からあなたはモテる私として生活する。
108さんの直結メソッドに近いかな。
そのために何かをするんじゃなくて、そのまま「モテる私」にスライドする感じ。
なりきるとか、振る舞うとかとは違うよ、なるだ。
抽象的で意味わからんかもしれないけど、これは基本的に外れない。
手放すとかのプロセスをすっ飛ばして、文字通り今叶えるから、そりゃ外さないわけだけど、マジでオススメだし、応用もできる。
もし意味わからんと思ったら、あなたの言うように自分に愛を送るのはいいと思うよ、人間関係の悩みには特にね。
具体的には、あなたの恋人があなたを愛するように、あなたが恋人を愛するようにね。
私は昔、目を閉じて自分自身を抱擁するようなイメージで愛してるって言いながら愛を送ってみたりした。
愛を送るといい気分になるよね、
そうやっていい気分な時間を僅かでも増やしてやると、不思議と自分が愛されていると、必要とされていると、感じられる出来事が増えてくる、というか、そう感じざるを得なくなる。
出会いは用意されているから、軽い気持ちで構えているといいよ。
なるについては、ただ単になるのでしょうか?
そう決めると言うのと同じでしょうか?
ただ単に、なるんです。
そう決めるという表現を、誰がどういう意味で使ったのかわからないけど、おそらく微妙に違う。
それは、モテる私になるとか、私はモテると決めるって感じでしょ?
そうじゃなくて、モテる私になる。属性をモテるに変える感じ。
モテる私として、今までのように普通に日常を生きる、するとマジでモテる。
属性を変えるには、どのようにすれば良いのでしょうか。
属性を変えるというのを、敢えて別の言い方にすれば、
レッテルを張替える。
設定を変える。
自分に対する認識を変える。
人は他人にこの人はこういう人と、レッテルをくっつけるでしょ。
それを自分にもしているから、それを変える感じね。
別の具体例を使うと、例えばあなたが何か問題を抱えているとする。
だけど、「自分にはどうしたらいいか……」って時に、解決した自分になる、なって、日常を生きる。
するとどうなるか。
問題は解決した以上過去のものになり、もう頭を悩ませる必要性はない。
解決したのに改めてどうしようなんて悩まないでしょ、改めて悩むとか意味がわからないしね。
だから普通に日常を生きる。
モテる私の属性になった私に、あとで現実が追いついてくるのかな
現実が追いつくといえば、まあそうなんだけど、厳密にはなった時点でもう現実も変わってる。
いわゆるタイムラグを介在させない場合もある、もちろん度合いはあるけどね。
属性が変わったら、こう考えなきゃ、こうしようとかはない。
変わった以上、それが前提だから、自分の考えることがモテる私になった私が考えることだ。
まあ私は、自然に考えや行動とかも変わったよ
特定の人とかの場合は、自分は○○さんの恋人になるというのもありなのでしょうか?
特定の人や、ものになると、いきなり難解な感じがしてしまいます。
アリかなしかなら、アリでしょう、
そうなる以上、難解とかそういう認識は不要でしょ。
まあでも私もなろうとしたら困難さが付き纏うかな、そういう時、私なら表現を変えてみるかな。
「○○に好かれている私」になる。
これなら困難さは無いでしょう。
私の場合、「なってねーじゃん」って思考が邪魔するんだけど、なった自分だからいいのかな
なったらそれでおしまいだ、だって、なったんだからね。
将棋の成金も、斜めに進めるけど、前にだけ進んだっていいじゃん。
なりきるわけじゃないから、何か枠を決めて、そこに収まるように自分を調節するのとは明確に違う。
ぶっちゃけ、引き寄せは、究極的には何を考えたっていいのさ。
なりたい現実のレッテルに張り替えるのは抵抗と違和感があるんです。
私にはそうは思えないが、あなたは困難に感じるんでしょうね。
軽い気持ちであればあるほどやりやすいけど、困難に感じるのに無理をするほど必要性の高いものじゃないよ。
私が最初に「心にゆとりがあれば」といった言葉を添えたのは、その辺も加味したからだよ。
というわけで、軽い気持ちで、遊びでやってみようぐらいの感覚でやるといいと思う。
なった私になっても、いちいち、なっている私はそんなこと考えないはずだ、と自分で制限してしまい、まるでなっているフリのような感じです
それは確かになったフリと言えますね。
「叶った私とはこういうものだ」という枠を作り、それに自分を当てはめるように思考・行動するというのは、私が最初に言ったこととは違う。
叶った私と、今の私、2つに分離・対比して考えられていたものを、統合する感じだ。
調節して、一方に合わせるのではなく、そのものズバリ、叶った私になる。
あなたがそうなった以上、なっている私とはあなたであり、そのあなたが考えることがなっている私が考えることであり、自由にものを考えて全然構わない。
叶った私と今の私を、別のものとして捉えるのをやめてみるといいかもしれません。
そう言いつつも、私もなっているフリの感じはあった。
叶った私になったはずなのにどうすれば実現できるかを考えてしまっている。
しかしその都度、改めて叶った私に戻ってみたんだよね。
叶った私に戻ってみると、正直叶った願望はただの事実だから、それについてウハウハするくらいしか考えることはなくなり、そのうち当たり前になった。
そのあと、ほかのことにも応用するようになると、もう経験として、変身すればもうそうなってるということが観念みたいになっていて、何か困ったり望んだりする度に解決しようーとか、なろうーで、実際にそうなって終わるので、もう忘れてしまう。
何を言ってるのかわからないと思うけど、ありのまま話せば、叶った自分に変わってみたら・叶ってた、ということ。
ちなみに、なったフリじゃダメって言ってるんじゃなくて、私が話していたのはそういうことじゃないよってことで、世の中にはメソッドとして、そういうものもある。
さっき私も、なるでシフトしてみたんだけど、存在ごとズレてしまう感じだ。
そうです、存在ごとシフトです。
今日はいつもと違う道から帰ろうー、みたいな感じでシフトです。
寝ながら稼ぐ億万長者になった私になっても、現実の私は会社に行かないといけない、どうすればいいんだろう。
今すぐなるっていうのは、困難さを感じると、なる前にストップかかりやすいんだよね。
好きなことだけして生きていけるというのは抵抗ないけど、寝ながら億万長者にはちょっと抵抗がある。
そこで一つ思い付くのは、とりあえず億万長者になってみる。
多分すぐ元に戻ると思うけど、でもその都度億万長者になる。
それを無理ない範囲でやり続けて、自分が億万長者でいる時間を増やしていってみる。
それがちまちましてると感じたら神様、私を億万長者にして下さいーと、伝家の宝刀を使って後は放っておくこと。
まあぶっちゃけ、やっていることは究極的に、どっちも一緒かなと思う。
叶った私になってるなら、そうなっているってのは、ただの精神論な感じでわからない。
いや、実際精神論だよ、
私はメソッドと言われるものは、全て精神論で括れると思う。
私は、プチハーレム作ろうと思って、女の子が常に寄ってくる自分に「なった」のが最初だけど、なった瞬間、目の前にはパソコンしかなかったし、翌朝起きても、隣に女の子なんかいないけど、それだけのことで、女の子が常に寄ってくる自分に変わりはないと、そう思った。
今は隣に女の子が寝ているけど、ただそれだけのこと、女の子が常に寄ってくる自分には変わりはない。
あなたは、会社にいながらにして自由な億万長者でいることは可能だ。
一つポイントを言っておくと、自由な億万長者とはこういうもんだというイメージがないのが、私の方法論だ。
私の方法論を用いるなら、イメージなど不要だ。
叶った私とは、今の私以外の何者でもないし、物理的・現象化などは関係ない、全て関係ない。
私がすることが、考えることが、叶った私のすることであり、考えることだ。
私はどんな状態だったか、現実がどうであれ、女の子が常に寄ってくる自分に変わりはない。
私は常に、女の子が常に寄ってくる自分でいた。
私は存在ごと、体ごと、望む私になった。
そこに、いかなる他の事情も介在しない。