願望は既に実現されている。
迷えば、迷うが現れる。
探せば、探すが現れる。
迷うも探すも、すべて自分が創った、不足の「状態」だ。
無意識でもそのような「状態」を選択すれば、その状態がすぐに達成される、既に現れている。
今も目の前に現れていないだろうか?
では、叶えば、叶うが現れるのか?
叶えば叶うが現れる、とは言わない。
「叶えば」「叶う」はあくまで結果、外側の現象のことだ。
「叶う」私の状態は、「充足すれば充足が現れる」だ。
自分の創った外側に原因を求めてはいけない。
自分がこの世界の主人であり、創った張本人だ。
創ってしまったものを嘆いても遅い。
創ってしまったものを変えようと方法をまた探せば、「探す」が延々と外側に現れてしまう、不足がループする。
私たちにできることは外側をコントロールしようとすることではなく、自身の在り方だけ、「状態」の選択だけだ。
自分の創った外側の結果を基に、あれこれするのではなく、「理由なく」、ただ充足すればいい、そうすれば充足が現れる。
不足がないのだから、既に「叶っている」が現れている。
では充足とはなんだ、喜び、楽しみ、愛?
それもそうだが、ただ単に不足がない、不足を考えていない状態も充足ではないか?
静寂も充足とは言えないだろうか。
もし不足が起きた時、充足にしよう、変えようとすることは不足だ、それが現れるだけだ、そんな努力はいらない。
不足が起きたら、その言葉、感情をただ眺めていればいい。
どうにかしようとせず、ただ気づいていればいい、委ねていればいい、静寂に在ればいい。
「元々静寂(充足)の私が、不足という雑音を創り出しているんだな」と気づけばいい。
不足に気づく、不足を分離する=統合=充足だ。
願望とは、不足に覆われた意図だ。
まとわりつく不足が無くなれば、それはただの意図となる。
普段意図してることは、難なく現れていないか?
例えば「水を飲みたい」と意図すれば、蛇口をひねればいい。
ここで、「どうすればいいのか」、「難しいのではないか」などと、記憶を参照してしまうと、不足に覆われた「願望」を創り出してしまい、そしてそれが実現する。
元々私たち源泉は完璧がデフォルトなのだ。
何でも持っていて、何でも創り出せる。
今不足を感じているなら、充足というベースがある上で不足という雑音を創り出しているだけだ。
「ある」があるからこそ、「ない」を創っているのだ、そのことに気づけばいい。
気づき
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37: 幸せな名無しさん :2016/08/19(金) 23:25:49 ID:caDhVDoE0