メソッドを実践することも、しないことも、どれも関係ないけど、どれも関係ないんだって言うと、エゴが「わけわからん」って騒いだりします。
「何かをしようとする」のが、エゴの性質なら、色々なメソッドや、誰かの体験談って、赤ちゃんをあやすために与えるおもちゃのようなものだと思ってます。
なんにもしなくてもニコニコしてるような赤ちゃんなら、何も与えなくていい。
でも、意図を取り下げてしまうクセがあるようなエゴなら、(自己観察)でよく見張ったり、(自愛)で満足させたり、(何らかの実践)をした方がいいのでしょうか。
もちろん、あれもこれも関係ないんだけど、それって認識の変更をして、初めて腑に落ちる事なのね。
自己観察も自愛も瞑想も、エゴの「何かをしようとする」活動を全て停止してる状態、つまり、「何もしてない」をしているというか、エゴの「何かをしよう」とするという活動とは真逆の状態なのね。
エゴが騒いでも関係ないけど、認識の変更がされるまでは、エゴと一体化して、一緒になって騒いでしまって、意図を取り下げちゃうから、それじゃ認識の変更には至れないよね。
認識変更してない状態、エゴと同化してる状態だと、何かをしたくなっちゃうんだから、それなら認識の変更のきっかけになり得る「何もしない」の実践、自己観察、自愛、瞑想を実践してた方がいいよね。
今日、とある機会があったんだけど、エゴの思考がうるさくて結局行動できませんでした
行動をしようがしまいが、本当はその願いが叶う事には一切関係ない。
したければすれば良いし、したくないならしなければ良い、したくなくてもしてみても良い。
本当の気持ちを、エゴが覆い隠していて、本当の気持ちだと錯覚させているのはよくあることだから、自分の素直な気持ちは分かりやすくなるかもね。
その上で、やりたきゃやるし、やりたくなかったらやらない。
どっち選んでも正解なんだから心に従って気楽に行けば良いんだよ;
自己観察しても、現象化がないってなっちゃうんだよね、叶えるためにやるのじゃないんですか?
叶えるために認識の変更を目指すのは、まあ良いんだけど、自己観察は願望を叶えるメソッドじゃないよ。
あくまで認識の変更のキッカケとなるメソッドであり、正確には他のメソッドとは根本的に違うんだけど、認識が変わった結果として願望も叶うようになるってことね。
だから自己観察してれば願望が叶うわけじゃないから、そこは誤解しないようにねってことです。
「別の領域」というのは、エゴが何も言ってない状態のことで、不安でもなく、安心でもない、無の状態という感じでしょうか。
そうだね、別の領域というのは、「エゴとは別の領域」ということだから、エゴを取り払ったら、そこにあるのは別の領域。
エゴに気付いて、別の領域に浸る事を続けていれば、その感覚が定着してきて、エゴがなんか言ってても、「あぁ・エゴがなんか言ってるな」くらいにしか思わなくなるよ。
なんとなく、別の領域を感じられたので、そこに上手いこと浸っていたら、いつもは頭の中にガンガン響くエゴの声が小さくなり、やがて消えました。
エゴは単に、目の前に広がる映像に対して、リアクションを取ってるだけで、映像は絶え間なく再生されているので、エゴがジタバタしようが、勝手に再生されているだけだったんですね。
これが皆さんが言ってた「エゴに力はない」という意味で、「メソッドはやってもやらなくてもいい」という事だったのですね。
これはたとえですが、別の領域は、エゴを見ている第三者視点から、エゴが反応する様子を後ろから見ていて、エゴの意図を淡々と映してあげていただけだった。
映したものに対して、エゴがリアクションマシーンと化していただけの事だったんですね、気がついてみれば凄くシンプルな事でした。
そうです、エゴに力は全くございません。
今までは知らずに、エゴと一体化して自分で力を与えてただけ。
エゴがどんな反応してようが、「あぁ、またエゴが反応してるわ」って、別の領域から見られているなら、それで終了だからね。
良い報告が聞けるのを楽しみにしてます。
認識の変更(チケット)のみを目指すスレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1467386279/
685 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2017/12/17(日) 10:16:34 ID:T.lNsm.c0