ある達人が言っていましたが、メソッドの「なる」の実践方法は、起こってくる不足の思考を「ただスルーして、無視していればいいのでしょうか。
達人と呼ばれる人の言葉の「上面だけを捉えて、思考でこねくり回して、自分の経験に基づかない考えを垂れ流す人がいるけど、それが「読む人の誤解を生んで、難民をさらに深刻化させ、増加させていることに気づいた方がいい。
「不足の思考をただスルーして、無視するだけ」というけれど、自分主体で世界を見ている人は、間違いなくこのような表現をしないはずだ。
なぜなら、不足をスルーするためには、その前提として、不足に意識を向けないといけないからだ。
そもそも、不足をスルーすることに意識を向ける必要もない。
「叶った自分」でも、「叶う自分」でも「なんでもいいから、「望む状況」に意識を向け続けるだけでいいんだよ。
慣れないうちは、意識の片隅に、不要な感情や、不要な思考が湧くかもしれないが、それでも望む状況に意識を向け続けるだけだ。
「主体としての意識」であり続けていれば、いずれそれは」無意識になって、気がつけば本当に叶ってるよ。
「つべこべ言わずにやればいいんだ」という趣旨の表現をたまに見るけど、言葉と思考の世界で「戯れているよりも、そのほうが「余程有意義だと思う。
それって結局は」、「なる」は、「なればいいんだよ」というのと同じじゃないですか?
それとは全く違う。
「なればいいんだよ」というのは、「ルビンの壺」の「壺を見たい」と言っている人に、「壺を見ろ」と言っているようなものだ。
私は「白い部分だけに意識を向け続けていたら、壺が見えるようになるよ」と言っている。
「壺を見るためには、人の顔や、黒い部分を無視し続ければいい」という意見については、否定しているよ。
あなたは不足がまったく起きないんですか?
私にも不足は当然湧くよ。
壺に意識を向けたからと言って、人の顔が存在しなくなるわけではないからね。
ふと人の顔に意識を向けそうになる時もあるが、その時は壺に意識を向けなおすだけだ。
私は意識の主体性に気づいてから、1000万円の借金返済や、復縁、資格の取得、事業の成功、マイホームなどの願望を叶えることができた。
過去にお世話になったから、多少でも恩返しになればと思っているよ。
達人と呼ばれる人たちが、どのような意識状態であったのかは、結局のところ、知るすべはないんだ。
それなら、それを推測して、思考に明け暮れることに意識を向け続けるくらいなら、「意識の主体性に気づいて、叶えたいことに意識を向けてあげたらいいよ」ということが言いたいんだ。
「不足をスルーする」というのは、「不足ありき」だから、「わざわざ不足を創り出す必要はない」という事でしょうか。
不足は創り出すものではなく、自然に生まれるものだ。
不足そのものは悪でもないし、あえて「それをスルーしよう」と意識しなくても、「見たいものがあれば、見たいものにだけ意識を向けたらいい」と言っているんだ
不足をスルーすることが願いであるなら、話は別だけどね
たとえば、絵の具箱から赤を取り出す時に、「緑や黄色を見ないようにしよう」とは「意識しないだろう?
ただ単に、赤を意識するだけだ
メソッドの「なる」が難しい人は、たとえば「緑色や黄色」に意識が向かい過ぎていて、自分の望みの「赤」を見るレベルにまで行けてないのだと思います
達人さんから見れば、緑や黄色をスルーすることへ重きを置く行程は、無駄でバカバカしく思えると思うのですが、難民にとっては、大切な階段ではないでしょうか。
難民が「赤」を見ろ」というアドバイスを、一時的には「なるほど」と思えても、基本がブレブレなので、執着や不安などから、何度もスタートラインに戻ってしまい、わけがわからなくなることを繰り返しているのだと思います
あなたの仰りたいことは、経験上、非常によくわかるよ。
特に、借金や失恋の時などは、24時間と言っていいほど、不足・不安と戦って、なだめすかせようともがいていたからね。
感情や思考という心をコントロールするために、宗教書や、潜在意識関係のまとめに答えを探し求めていたよ。
あまりにも苦しみが続きすぎて、ある時「こんなに苦しい」「心の声はうんざりだ、もう聞きたくない」とばかりに、「あーあーあー」と心の中で声を発し続けていたんだ。
今となっては笑い話だけど、少しおかしくなってたのかもね。
そしてふと疑問が浮かんだんだ。
「あーあーあー」という心の声を発しているのは一体誰なのだろうか、この心の音は、どこから発せられてどの空間に響いているんだろうか、この音を聞いているのは誰だろうか」っていう疑問だ。
その答えというのは、「創造主」や「神」と呼ばれる存在しかわからないことなんだろうけど、あることに気がついた。
「自分の意志で心の声を発して、それを聞くことができるし、自分の意志で心の声を聞かずに鳥の声に意識を向けることもできるし、自分のお腹だろうが指先だろうが、自分の好きなように意識を向けることができるし、自分の意識はこんなにも自由じゃないか」って思ったんだ。
それと同時に、「自分の肉体はもちろん、自動で発せられる思考や感情というのは、鳥のさえずりや、遠くで走る車の音と何ら変わらない、ただの自然の一部にすぎないじゃないか、「コントロールしよう」と思っていたのが最初から間違っていたんだ、鳥のさえずりを聞きたければ、それに意識を向けるだけでいいし、月明かりを見たければ、それに意識を向けるだけでいいし、意識を向けたいものに意識を向けるだけじゃないか」ということに気づいた。
この内心的な体験を、これ以上言葉で伝えるのは、今の私の能力では厳しい。
ともあれ、私の一連の言葉で伝えようとしている要点というのは、次の2つだ。
その1」、思考や感情はコントロールできないし、する必要もないが、意識はコントロールできるということ。
その2」、在りたい姿があれば、在りたい姿に意識を向け続けること。
あなたが言っているような「緑や黄色のほうに意識がいってしまう」という疑問は、「意識はコントロールできる」ということに気づけたら、そういった思考は自ずと生まれなくなると思うよ。
【701式他】『なる』について語ろう!14
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1495559443/
611 : 幸せな名無しさん :2017/06/05(月) 13:05:59 kflhFjgc0