別の領域を感じることを自覚してから、7章の認識になるまでどのぐらいかかりましたか?
後から気づいて、あれ、なんか前とちがってる、とかそんな感じで、劇的に変わった感じはしないので、自分でもよくわからない。
別の領域を自覚し始めた時点で、そこに在る心地よさに焦点を置いていたので、今となっては思い出せない。
別の領域が信頼できるようになるまでは、エゴの抵抗もあるだろうし、いろんな情報に惑わされたりして不安になったりもしますよね。
別の領域について、無になる感じしかわからないってかたがいらしたけど、透明な光の中にすべての色が含まれているように、その無のなかに愛とか無限とか、そういった性質が含まれてます。
だから、愛を感じたり、無限の広がりを感じたりというのは、無色の中から赤や青を拾い上げるような、ある意味、一つの側面を切り取ったものでしかないともいえます。
私はそういうバリエーションを意識して感じるのがたのしかったのだけど、漠然とした感覚に浸るだけでもいいと思います。
イライラしたり不安になったり、その時の感情を感じ取るというのが難しいです。
イライラしたり不安になったりしたときに、その感情を感じとろうとか許そうとか、そういった働きかけをする必要はないです。
○○について不安に思ってるなーと気づいたら、あー私いま、自分の反応に気づいてるなっていう自覚があればいいだけです。
それだけでその感情が収まるときもあるし、収まらなくて感情に巻き込まれて苦しいときもあるかもしれないけど、それを観察してる自分さえ意識できてれば段々それも出てこなくなります。
感情ってパターンなんですよ。
いろんな出来事を通してその感情を味わうことになるのでなかなか気づけないんですけど、元になる観念が解消されれば、以後そのパターンに反応することはなくなるんです。
自分の感情に気づき続けていると、ある時ふと、自分が何に反応してるのかとか、自分の観念に気づくときがあるんですけど、それに気づいた時点でその観念が消えていくんです。
感じきるというのは、それを集中的にやることなんじゃないかなと思います。
観念を手放すのに、セドナメソッドの手放しますか、はい、いいえのプロセスは、別に重視する必要はないって事でしょうか?
セドナに限らず、観念を手放せるときというのは、自分の深いところでの気づきがあったときなんじゃないかと思います。
手放しますかで自分の反応を探ることで、自分に気づきを促すためのアプローチじゃないかな。
で、セドナをやってると簡単に手放せるときと、なかなか手放せないときがあると思うんですけど、なかなか手放せない観念というのは、深い部分で気づきたくない、認めたくない観念が絡んでいて、無意識にスルーしているので、そこに気づけないうちは手放せないんです。
その部分に気づくまで繰り返し取り組んでいくのもひとつの方法だとは思うんですが、そうなると観念探しゲームが始まって、しんどい人もいるんじゃないかな。
自分を観察していると、自分の反応パターンに気づくことで手放せるんですが、これも結局は深いところでの気づきが必要だと思います。
なので、何かをすることで実感を得たいなら、セドナは良いと思います。
でもせっかく別の領域イコール自分に気づいている意識に気づけたなら、お任せしてみてはどうでしょうか。
別の領域に浸っているとわかると思うんですけど、問題に取り組めないんですよね。
なら問題の側から気づきをさがすよりも、喜びや心地よさの側にいて、自分に気づいてるほうが楽ですよ。
別の領域で感じる無にはすべてが含まれているんですが、その無でありすべてというのは、実は本当の自分のことです。
別の領域では何も起こってないとか既にあるとか愛、無限、完璧……なわけですが、そこは絶対性の世界で、そこで全部完結してしまっているので、創造のプロセス(願望が実現する)、というものが存在せず、願望イコール実現の領域なのです。
で、本当の自分は、その創造のプロセスを体験してみたくて、私という個人意識のフィルターを使って相対性(分離)の世界を体験することにしたわけです。
この本当の自分が海で、私が波ということになります。
すべては幻想で、実際は何も起きていないけれど、フィルターを通すと様々な出来事が起きているかのように見え、そして実際にはすべてがあるけれど、フィルターを通すと何かが足りないように見えます。
そうでないと、出来事を体験したり、なにかを得たりする経験ができないからです。
なので、私たちがそれぞれ体験している世界というのは、何も起きていない実相を、私というフィルターを通して投影したそれぞれオリジナルの世界です。
だから私イコール世界になるんです。
私たちは、この私というそれぞれの個人意識を通して見る世界を知りたくて、○○という人間として生きているというフィルターを装着しました。
このフィルターというのは観念のことで、人それぞれにオリジナルのフィルターをたくさんつけています。
私たちは長年肉体が自分自身だと思っていたので、自分の体が気に入らないと思ったり、起きてるように見える出来事を体験して、多くの場合は苦しんだりしてきたわけですが、本当の自分から観ると、そのプロセスを経験することは喜びだったりします。
退屈なストーリーよりも、悲劇的で複雑なストーリーのほうが面白いという感覚です。
エゴはそのことを知らないので、もっと違う体がよかったとか環境を変えたいと思って、投影の現れである現実の中で、あれこれ試行錯誤し続けてきたんですが、もう投影されてしまった結果を変えようとすると、そこは分離の世界なのです。
ダイエットしなきゃきれいになれないとか○○するにはもっとお金が必要だとか、さらに分離に基づいたフィルターを増やし続けるしかなかったんです。
○○が欲しいと思うことは、○○がないというフィルターを通して世界を見ているんだけど、さらに○○を手に入れるためには××をしなくてはというフィルターを追加して、どんどん制限を増やしているだけです。
それらのフィルターを外していけば、既にあるように世界が見えてくるよってことで、リリースしようとするんだけど、結局、分離にいながら分離から抜け出ようとすることになるので、それがまた観念をリリースできなきゃ○○は手にはいらないという新たなフィルターになることも多くて、停滞してしまう。
日常の中で、お金を支払うときにこれ買って後で困らないかなと思ったり、ケーキを食べた後に後悔してしまったり、顔を見ただけでムカつく奴がいたり、自分にとって当たり前になりすぎてると気づきにくいかもしれないけど、たいてい同じシチュエーションを体験するときは、思考プログラムが起動して、自動的に思考が再生されています。
そしてその自動再生された思考に反応して、感情ではこの環境のせいで不快なんだと感じています。
だから不快な感情やよくない思考をしていると、その通りの嫌な現実が起きてくるというのは正確ではなくて、元々そういう体験をしたくてそのフィルターを選んたのに、エゴではそれを体験したくないと否定してしまうので、それは完了されずに再配達されて、何度も繰り返してしまうんです。
ここでその不快な感情を感じつくすことで体験を完了させることができると、本当の自分はもうそのフィルターに興味がなくなるので、それは消えていきます。
すると、同じ場面でも不快な感情を感じなくなるし、出来事自体も変化してきます。
で、この方法とは違う方法で、リリースしなくても別の領域で気づいていれば自然と消えるよといっているのは、別の領域は、私というフィルターをつける以前の領域だからです。
それは、分離する前の、すべてである領域です。
気づいた時点で消えるという表現は、他にどう表現したらいいかわからないんですけど、手放そうとか消そうとか何々しようとするような性質のものではないという意味で使用しました。
別の領域では何々しようとすることはできないのです。
そこにとどまっていると、段々、自分が今まで自分だと思っていた分離の思考が、自分のものではないということがわかってきます。
そして、体験するフィルターを選べる立場である本当の自分であることがわかってきます。
なので、現状を受け入れろといわれているのは、現状で我慢しろという意味ではなくて、この現状は、「本当の自分」が体験したくて選んだんだということを受け入れろという意味です。
自分が体験したくて選んだんだということを受け入れられなければ、自分が体験を選べる立場であることを否定していることになるので、エゴのなかで制限された体験しかできません。
だから今の肉体も、周りの環境も、本当は自分で選んだんだと認めて受け入れるんです。
現実は自分が選んだとおりの完璧な結果だということを受け入れていると、起きているすべてのことが愛おしく思えてきます。
エゴから見れば不足を感じる現実だとしても、もう現実の中で格闘する必要がないことがわかるし、本当の自分という立場に立てば、すべては愛からだったということがわかるからです。
そしてもちろん、自分の望む現実が選べるということがわかるからです。
ずっと分離されてたと思っていたので、別の領域に気づいたからといってすぐさま何もかもが変わるわけではないです。
今までのエゴの習性がすっかりなくなるわけでもないです。
問題によっては簡単に解除されるものもあれば、時間がかかるものもあると思います。
人それぞれつけてるフィルターが違うので、本当の自分を信頼できるようになるまでには個人差があると思います。
この世界で生きることを選択している限り、個人意識を完全になくすことは難しいし、まだまだ個人として楽しみたいこともたくさんあると思うので、なくす必要もないのだけど、個人でありながら、世界であるためには、別の領域で自分を観ている存在でいることなんです。
エゴが出てきても、気づいていればいいんです。
気づいているイコール本当の自分に意識をおいているということは、エゴにはなんの力もありません。
何か起きているように見えるのは、自分を深く知るためにそう見えてるだけで、実際はそれも愛なんだと思います。
エゴが出てきても焦らないでいいですし、ときにはエゴに巻き込まれることがあっても、あ、今巻き込まれてたわ、まだ人間だから仕方ないよね、でも私はエゴじゃなくて別の領域の感覚を信頼するわと再確認するようなかんじでいいんじゃないかなと思います。
思考停止は私もあまり長くできないですし、どうでもいいような雑念が沸いてくるときは無理にとめようとしないで、その思考に捕らわれないように流していくような感じです。
毎回出てくるような自動思考なんかはまたプログラムか、って感じでバッサリ削除する場合もあります。
あと強い感情を伴うような思考だったら、離れた位置から眺めてる感じです。