自愛って自分に言い聞かせているだけで、あまり実感がない感じです。
しっくりくる言葉や方法を探して、自分にしっかり向かい合ってみるんだ。
自分にありがとうと言うのはどうかな。
第三者から言ってもらう感覚ではだめですか?
最初はそれでも構わないよ、自分が出来る、自分が喜ぶ事をすればいい。
今私は絶望と思われる状態にいて、今もその状態が内面で作られてしまっている気がして、それがまた現象化してしまうのではないかという怖さがある。
自愛に集中してみたら?
何度も言うけどテレビにかじり付きながら、見ていません、ありますって器用なマネは無理だから諦めろ。
それをし続けて作り出した世界だろ、きみはテレビから離れるのは無理だろう、だからかじり付きながら、自愛してみろと言ったんだよ。
自愛の時間を増やせばいいよ。
願望が変わるとは言っていないよ。
そもそもきみは放り投げてるけど、きみの本当の願望は、きみ自身に今よりも愛される事だ。
今願望だと思っているものは、その今の自分よりも自分に愛されたい、という願望達成の手段の一つだときみは思っているんだよ。
だから、きみに愛されたい、という願望が達成されたあと、その手段は少なくとも必要なくなるだろう。
つまり、手放せるんだよ。きみは今、手段にガチガチに執着しているんだ。
手放したら手持ち無沙汰だから、またつかもうとしている。
ただ、それは手段に過ぎず、本当の願望は自分に今よりも愛される事だと頭に叩き込んだらいいよ。
手段は取り合えず横において、騙されたと思って自愛をやってみるんだ。
今よりももっと自分を愛している私にクレシフトしたらいい。
悲しむ事、辛いことを味わう事は、自分を大切にしているといえるか?
細かく言えば不快になる思考の選択そのものが自分を傷つけているだろ。
自分を心地良くさせるために、思考さえも心地良いものを選んでやるのも自愛だろ。
快、不快の選択は、自分を大切にする為だ。
今の叶っていない現状を、願望だと認識するのはしんどいだろう。
ひねくれ者のは、その表面上の願望から叶っていない現実と一致する願望を炙り出すからエゴも納得する。
そこではじめて願望=実現を理論じゃなくて体感して採用するんだよ。
ひねくれ者のやり方も、なぞったらいずれ7章にたどり着くよ。
ひねくれ者を読んだだろ、メソッドは魔法じゃない。
現実だと認識しているものを自分の恐怖が作り上げたものではなく、自分自身の心からの願望が叶った状態である、つまり、自分が喜びを持って作り出した世界なんだという事を、思い込むんじゃなく、認識する為に、ひねくれ者のメソッドはあるんだよ。
叶っていない、いや叶っている、いや叶っていない、のループは、自分で切らないといけないんだ。
叶っていると思う事で、気持ちを一時避難した時に、叶っていないという現象を見ると激しく打ちのめされるし、まだなのかという気持ちが先走ったり、不安が爆発するんだろ、でその繰り返しをずっとしているのだろ。
叶っていないを現実として動かせていないんだから、叶っていない現実を作り上げた願望を見つけた時、力が抜けただろ、ホッとしただろ。
叶った状態というのは、不足がある事がありえないんだよ。
叶えたいとも頑張るとも思わない。
叶った状態の私はそもそも願望に対しての不安がないんだよ、条件をつけている訳じゃない。
恐怖や不安がいっぱいの人には、しない事は難しい。
自愛すらも、願望実現のために何でも結びつけるもんな。
最初はそれでいい、叶えるためという名目は取り外せないだろう。
叶えるために何かをする事は、何かができないと叶わない、と自分で決めているんだよ。
でもそれはそれでいいじゃないか、まずは自愛を完璧にやればいい。
中途半端に7章とひねくれ者の甘いところだけをいったりきたりしているだろ。
行き着くのは7章、併用はできない、というより、ありえないんだよ。
だから叶えるために必死に自愛をすればいい。
自愛がうまく出来ないと7章に救いを求める、でも叶える為にを手放せないから、7章はどんな状態でもなんでも叶うって言っているから救われる、と逃げてしまうのだろ。
ひねくれ者も、7章は自然に取得するのだから、7章はとりあえず忘れろといっているだろ。
自愛のポイントだが、無償の愛だ。
恋愛が願望なら、好きな相手と自分に子供が生まれるとして、その子供への感情を自分に向けろ。
親を愛していて両親の仲が良ければ、自分が今まさに人を愛しているのと同じように、両親が愛した相手との子供である自分、と考えればわかりやすいだろ。
しかし、不仲であったり親から愛を感じた事がない、という人もいるだろう。
オカルトな話になるけど、肉体だけじゃなく魂も一つにしたい、みたいに、誰かと一つになりたい、と思った事はないか?
魂っていうのは複合体だろ。
だから私の魂は誰かと誰かが深く愛しあって一つになった結果かなとも思うんだ。
つまり自分は愛の結晶だろ、いかようにも自分の価値は考えられる。
自分を自分と相手の子供だと思ってみる。
一歩ひいて、母親な自分もいる。
インナーチャイルドとかとは違う、取り合えず1人二役だ。
親のスタンスで見てみれば、きみが恋焦がれて結ばれた相手との子供が、恋愛で傷ついている。
親のきみに頼れないでいるが苦しそうだし、子供が影で1人で毎日泣いているのをきみは知っている。
きみの最愛の子供に対して、君はどうする?
子供の相手については怒りが止まらないと思うからそれは横においておいて、子供に対してなんと言うか、どう接するか、どんな気持ちがするか、ということだ。
叶える為に何かをする、というのは、何かをしなくちゃ叶わない、になるのはわかるだろ。
叶える為に何もしない、というのは、何もしないから叶わない、というのではないし、何もしないし叶わない、というのでもない。
叶える為に何かをする必要がない、という意味だ。
つまり何もしなくても叶うだ。
叶える為に必要なものは何もないだ。
だがきみは何もしないから叶わないと認識しているし、それを採用したがる。
何故ならば今まで生きてきて学んできた事がパーになるから、全てが覆るからだ。
受験に受かる為に勉強する、痩せる為に食べない、稼ぐ為に働く、など、何かをする為に何かをしてきたわけだ。
ひねくれ者は真面目なんだよ。
今まで規則正しく行ってきた事をすぐに捨てられないだろう。
受かる為に勉強したから受かった、痩せる為に食べなければ痩せた。
でもよく思い出せ、受かる為に勉強したけど落ちたり受かったりしたろ?
痩せる為に食べなかったけど、痩せたり太ったりしたろ。
でもそのあと、勉強が足りなかったから落ちたんだとか失敗した理由を探して納得し、また何かを叶える為に、何かする必要がある法則、を適用するだろ。
何かをしないと叶わない法則の魅力は、叶わなかった時に何かが足りなかったからだ、何かさえできれば叶う、という逃げ道ができる。
何もしなくても叶うを採用する恐怖は、叶わなかった場合、逃げ道がないからだ。
この法則には叶わなかった場合の対処法がないからだ。
だから適用するのが怖いんだ。
叶わなかったらどうすればいいのか、なすすべがない、となる。
そんな状態では適用できるわけがない、怖すぎるからだ。
でも何か気づかないか、何故後者の法則が叶わなかった場合の対処法がないのだと思う?
ちなみに、私は理論を書いているが、この道を経て7章にたどり着いたわけじゃないよ。
たどり着いてから出てきた理論だ、まさに辻褄合わせだろ。
ほとんどひねくれ者やクレさんや108さんがいっていた事を言葉を変えているだけだ。
でも適用できる人は少ないし、出来ていたらループはしていないだろ。
でもひねくれ者は理論から入ってとにかく実践して7章にたどりついたろ?
だから、きみの認識が少しでも変わればいいと思ったんだよ。
後者の法則が叶わなかった場合の対処法がないのは、対処法以前に叶ってるからでしょうか。
もっと細かく言うと、何をしてもしなくても叶う法則ということだ。
じゃあ叶えるためにしたっていいじゃん、と言われそうだが、叶えるために何かをする事はすでにまた何かをしないと叶わない法則を適用した、という事になるのがわかるかな?
何をしてもしなくてもというのと、叶えるためにというのは無関係なんだよ。
そっか、何もしてもしなくてもというのは、叶えるためとはまったく関係ないんだね。
だからきみが叶える為に自愛をすればする程、自愛が条件になりハードルがあがる。
叶える為に何もしない、に関しては7章に詳しく書いてあるよ。
叶えるために何かをする事は、その願望に叶っていない、という属性を与えているだろ、それは何もいいことないじゃん。