自己観察さんは「気付いている意識に気付く」と書かれていますが、私はそれが全然わかりません。
私は自己観察をもう三年位やっていますが特にこれっといった変化はありません。
「今○○だと思っている」と淡々と気付いているのですが、やり方に問題があるのでしょうか?
自分の思考に気付く事は出来るのですが、「気付いている意識に気付く」必要があるのでしょうか?
「気づいてる意識に気づく」ということについて説明します。
思考に気づいていると、様々なことに気づくことが出来ると思うんですよね。
何かに反応して、ポンッと出てきては、次の瞬間には違う何かに反応して、新たな思考が出てくる、といったように、
思考とは一時的なものであり、また、それぞれの思考が矛盾していたり、脈絡がなかったりする不確かなものです。
そんなふうに、思考は、コントロールや意思の及ばないものであること。
コントロールできないものを、コントロールしようとしてる思考があること。
或いは、思考や想像を通して見る現実と、ありのままの中立な現実とは、全く違うということ。
中立で何の方向性もない出来事が、思考によって、分離や不足に基づいたストーリーとして作り上げていること。
そういったことに気づくことは出来るでしょうか。
そして、そんな不確かな思考を、まるで自分自身の決定権を握っている主体であるかのように捉えて、その思考に従っているということに、気づくことは出来るでしょうか。
例えば、あなたはパソコンで私の書き込みを読んで、「天才だ」と思ったそうですが、実際に起きたことは何だったんでしょう。
実際には、パソコンの画面と、何か核心に触れる理解が起こったという経験があるだけです。
それは一つの経験として現れただけのことなんですよね。
でも、マインドは自分のことを、分離、独立した個人だと思っているので、「教えてくれる人」がいて「その人が書いた文章」があって、
それによって「私が核心に触れる理解」を経験したと解釈するんですね。
このへんで終わればまだいいんですけど、思考というのは、自動連続式に展開する習性があるので、
「いろいろ理解できたけどもっと理解しなくてはいけない」となってしまい、「理解できない何か」という、分離と・不足を作り出して、そこに取り組みます。
或いは、「他の人はわかってるのにどうして私はダメなんだろう」と思ってしまい、「わかる誰か」と、「わからない私」という、分離と・不足に、ますます固執したりもします。
実際には何も起きていないのに、思考だけがどんどんストーリーを展開していってるんですよ。
思考は対象がなければ成立しない仕様なので、分離が前提でないと思考が出来ないんですね。
思考では、ただ起こったままの直接的な出来事を捉えることが出来ないので、分離相対的に解釈して、さらに想像も加えて、
起こったこととは違うように解釈するようになってるんです。
いきなりこれらすべてのことに気づくのは難しい人も多いと思いますけど、取りあえず思考と同一化しないということですね。
そういったことに気づいていくこと、同一化しないことに気をつけていると、「このやり方じゃ悪いんだろうか」とかの思考に、かまう必要もないことに、気づくと思うのです。
「やり方が悪いんだろうか」という思考と同化しているから、「正しいやり方でやらなくてはいけないんだ」となってしまうんですよ。
そこに気づくことはできるでしょうか。
「納得したい」という思考に従ってしまうのではなくて、たった今、その思考に同化せずに、それに気づいていることは出来るでしょうか。
「○○と思っている」ということには気づけているというのでは、まだその思考にリアリティがある状態かと思います。
それは、ただの思考による架空のストーリーだということに、気づくことは出来るでしょうか。
思考が、ありのままの現実を覆っている虚構の作り話だと気づくことが出来ると、思考に対してリアリティがなくなります。
じゃあどこにリアリティがあるんでしょうか。
その思考が錯覚だと気づいてる「何か」に確かなリアリティがあるんではないでしょうか。
それを自覚するということが、「気づいている意識」に気づくということです。
自己観察スレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1359912334/
571 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2013/12/13(金) 00:47:34 ID:wX9UY6560