自分は以前、事故にあったことがあって、停止中に後ろからぶつけられたから、明らかに「10:0」なのに、加害者や保険会社といろいろあって、納得できないことが多くて、いろんな感情が出てきたけど、許して、抵抗を手放したらすぐに思うようになった。
そのときは「マネーゲーム本」のことは知らなかったけどね。
抵抗を手放したとき、一番スムーズにいく。
それにはまず、「これは幻想だ」と見抜くことだ。
そして、コントロールしないことが、結果に執着しないことが、唯一、自らをコントロールできる道だ。
それを知識でなく、経験で得ることなんだよね。
これはお金を積んでも、いくら本を読んでも得られない貴重な経験で、一生失われない宝物だ。
キリストが「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」っていってるのは、それは、ホログラムを見抜くのに効率的だからだよね。
現実と感じている、外部、肉体の痛みとか、心の痛み、どれもこれも幻想なんだけど、それに気付いて、受け入れるとき、許すとき、ひとつの循環が終わり、新しいステージに行ける。
「相手がこんなにひどいことをした」とか、「自分は正しい」、「自分は被害者だ」とか、一切関係ないんだ。
だって世界には」、究極的には自分しかいないのだから。
別にいい人である必要はないし、聖人君子のようにある必要はない。
ただ、その循環から抜ける意志を持っているかどうかだ。
反応はカルマを作る。
なにかあったとき、それに反応すると、それが循環するんだよ。
加害者は別の局面で被害者になり、被害者は別の局面で加害者だ。
言い換えると、その人が被害者である限り、心にその意識がある限り、別の局面でその人は加害者になってしまう。
これは二元論の世界、ホログラムにフォーカスしている限り続く「枷」なのだ。
あなたが自由になりたいなら、許しや受容は、相手の為ではなく、自分のための、もっとも効率的な方法だ。
ホログラム同様、時間の枠組みも幻想だ。
3次元に生きるあなた、ホログラムに生きるあなたは、便宜的にそう解釈することしかできないだけで、本来のあなたの中では、すべての原因と結果は同時に起きている。
「過去も未来もなく、この一瞬しかない」っていうことだ。
何か嫌なことがあったとき、それに力を与えてはならない、プロセスしよう!
「これがこうだったから、こう反応するべきだ」という、一連の流れを捨てること。
物事に反応しないことは、その循環を断ち切ることになる。
たとえば、誰かに殴られて、それで殴り返して、これが自分としての正当な結果だと思っても、そのホログラムは、この一瞬に同時に起きてるんだ。
だから反応しないで、その循環を断ち切るんだ。
そういった「浄化」を進めていくと、「これは自分で作っているホログラムなんだ」という実感がわいてくる。
みんなで共有している現実」なんてないんだ」と感じる。
時に奇妙なことが起こり、どんな奇跡も起こりうることを感じる。
一方で、ホログラムとして、あなたが今までに溜めていたものが次々と現れて、一時的に悪化しているように思えるかもしれない。
孤独を感じることが多くなるかもしれない。
今まで、シンプルに外側に向けていた怒りが、行き場のない、自分への悲しみとなって向かってくるかもしれない。
ホログラムと認識してしまうことで、外部に対する力が落ちて、やりたいことを見失い、一時的に無気力になるかもしれない。
ただ、それはそんなに長くは続かない。
プロセスを進めて、浄化が進めば、すぐに本来の自分が姿を現して、自由に生き生きとできる。
別にホログラムを追いかけまわさなくても、「リアクションモード」とかいう、あの状態に近づきつつある。
プロセスを続けたら、自分のエゴも、感情も、思考も、なんか風景みたいに、ただ在る、そんな感じになる。
窓の外で木が風に揺れてるのと同じ感覚で、自らの中を眺められるようになった。
というか、自分の外にあるものみたいだ。
これが本来の自分視点なのかな。
だからもう、それらをまったくコントロールする気がなくなった。
たまに「しょうがないなあ」とは思うけどね。
そしたらエゴも、割と静かにするんだよね、「好き勝手やっていいよ」って思ってるんだけどね。
それと同時に、他人にもおおらかになれたよ。
今は、わくわくすることばかりだ、毎日が楽しい。
といっても、ホログラム的には、別に何もないんだけどね。
上手くいえないけど、体中にふわっとした甘い感覚がある。
子供の頃の夏休みの午前中みたいに、爽やかで、期待に溢れた、ドキドキする感じに近い。
マネーゲーム本の「プロセス」で、いろいろなものを手放せたから、本来のフィーリングを取り戻しつつある。
自分が幸せだったと思ってたことも、よくよくプロセスして感じてみたら、他の苦痛の感覚と近いものも沢山あったから、手放せたよ。
「自分自身がホログラムである」、っていうことに、経験として気付いたから、自分が楽になった。
「ホログラムである自分」は、人間的に成長しない」、ってことに気付いたんだ。
そもそも、自分がホログラムだからだ。
だから、成長を、努力を諦めたんだよ。
許して、受け容れて、完全ではないけど、判断を少なくした。
自分の思考の「嫌だ」と判断していた部分も、コンプレックスも、欲望も執着も、それから離れようとする気持ちでさえも諦めた。
というか、そのままあればよい、と思った。
そこから沸いてくる根本的なものをプロセスで手放した。
そしたら、もう変えようと思わなくなった。
結果的に、見た目も、雰囲気も、周りから、「すごく変わった」といわれる。
いわゆる、エゴって言われている部分は、ホログラムだから成長しないんだね。
エゴは、小さな自分は、ホログラムとしての自分は、自分を円環に閉じ込めるのが目的だから、不自由を自由と思い、執着を愛だと感じて、苦しみをホログラムへの反応に変える力なんだ。
それに気付いて、ホログラムであるエゴにも力を与えないことだ。
自分が努力して変わる必要はないし、それはそれで一つの風景なんだから、不可能だ。
そして、正確にいうと、成長しないわけではない。
成長しているように見えること、そう自分が感じることは、本来の自分視点に立ち返ることができる「エネルギー分量が多い個人」ということじゃないかと思う。
プロセスを進めるうちに、いろいろな判断を捨てていくと、絶対的な領域である、本来の自分視点でいられるようになる。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法2◆◆
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/esp/1331543443/
247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/27(火) 17:45:32.10 ID:Abbda60l