究極的には、特になる必要性もないんですよね?
必要があるともいえるし、ないとも言えるかな。
「願いは叶う」という観念を持って、生きてきていない限り、認識の変更は、必ずどこかでされるはずだからね。
なるについて質問です。
なっている私になっても、なっている気分になれない時は、どのように考えたりすれば、なってる私の気分になれるのでしょうか?
私は「なっている気分になれ」とは言ってません、「なれ」と言っています。
なるになりたい、というのは、「本番のためにする練習のための練習」みたいになってしまっています。
一つだけポイントを言います。
「なる」とは、現実に対する認識、レッテルの変更、レッテルの張替えです。
あなたがそうやって、認識の変更を現実に依存させる限り、認識が変わるわけがない。
つまり、「望む私になる」のは難しい。
現実とは関係なく、なる、というのはそういうことです。
そして、ポイントを押さえたら、肩の力を抜きましょう。
真剣であることはいいですが、深刻にならないようにしましょう。
必死さは、なることの気軽さとは相反します。
なった、けど、現象化が気になる自分に、何かアドバイスください。
それはなってない。
なった時点で、望みが自分の前提となり、望みは実現する。
実現と現象化を、分けて考えていては意味がない。
実現と現象化を分けるっていうのは、どういうことですか
今叶えて下さい、といっても、叶えましたけど現象化はいつですか?みたいなものです。
それは言葉を変えただけで、いつ叶うんですか?というのと、何も変わらないでしょ。
みんなが躓くのは、なる感覚っていったいどういうのかな、というところだと思います
感覚は表現しようがない。
自分の性別についての感覚ってわかるか、わからないだろう。
それと同じレベルで、当たり前の感覚になる。
願望について考えてしまっても、別にいいだろう。
本当に「なった」ら、あまり考えなくなると思うけど、私はたまに思い出していたよ。
「ああ、金は今度入るなあー」とか、「ああ、今度はああいう人と出会いたいなあー」みたいな感じで思い出していたけど、別に何の問題もなかったね。
そこまでしなくても、「いつ叶うのかな」などと思ったときに、「いや、それは叶っている前提だったな」と反応していれば、問題に感じることはないだろう。
なるってめっちゃ簡単に、しかもすぐに現象化しそうだから、みんなマスターしたいんだと思う。
わかるよ、確かに「なる」は魅力的だ。
中途半端に胡散臭いが、それ故に夢中になってしまう。
一方で、自分で実感できないと、不信感も残ってしまい、いまいち実践しずらいし、そしてループにハマって、疲弊しやすいだろう。
だから、私は繰り返し繰り返し、「心のゆとり」が必要だの、「そこまで価値のあることではない」ということを主張した。
叶えることに夢中になって、逆に疲弊するほどバカらしいことはないだろう。
でも、一応言うけど、「なる」って、すげー簡単な話なんだよ。
質疑応答を重ねるほどに、徐々に迂遠になってる気がするよ。
なるの感覚を、一度つかみ掛けたのに混乱してきた、難しく考えすぎなのかな
なるとは、レッテルの張替えであり、あとは迂遠な説明だ。
なるで疲れるなら、私の話は捨て置いた方がいい。
なるに振り回されては意味がないからな。
悩みごとは、悩むのをやめたら解決するのと同じで、なるも、なったとか、なっていないとかを考えるのをやめたら解決するっていう、単純で・簡単なことだと思う。
私もそう思う、それを気にしなくなればいいだけだ。
神様にお願いできたかどうかを手放せればいいのと、同じことだ。
というか、なると、それについて考えなくなるね。
彼に惚れられている私になったのに、うまくいかないのは、期待してしまったらダメなんでしょうか
「望む私」になったのに、「期待する」ということはありえない。
現実をシフトしたら、彼に惚れられているのは当たり前だから、不安になることも心配することも、期待することもない、ただただ望む私に焦点をあわせ続けるということでしょうか?
堅苦しく言えば、まあそんな感じかもしれないけど、もっと単純な話だ。
「期待する」ということは、「ない」ということだ。
「望む私」になるということは、「ある」ということだ。
「望む私」になったのであれば、期待するということはありえない。
「ある」と「ない」は両立しえないんだよ。
期待しているということは、「なっていない」と言っても差し支えない。
ただ、別に期待するなと言ってるわけじゃない。
今「ない」と認識している自分に気付いて、その認識が変更されれば、それでいいんだ。
メソッドは、その認識の変更を促すものだ。
私は「なる」を、メソッドと言ったことはないと思うけど、別に新しいものでも特別なことでもない。
在り方のうちの一つだと私は思ってる。
それがたまたま、メソッドと同様の効果を発揮しているだけだ。
なるということと、なりきること、振る舞うことの違いがよく分からない
「なりきる」とか「振る舞う」っていうのは、「今はそうじゃないけれど」、というのを前提にして、「そうであるかのように振る舞う」わけでしょ。
それは言わば、擬似体験みたいなものだ。
これに対して、「なる」は、それそのものになれ、ということ。
「今はそうじゃないけど」というのを前提にしない。
今、まさにそれになることだ。
実際にモテるようになったわけでもないのに、モテる自分になれっていうのが、意味わからないのかもしれない
「実際にモテるようになってから、モテる私になる」、というのは,当たり前のことだろ?
引き寄せの法則がなかったとしても、当たり前過ぎる。
引き寄せの法則という前提で話をするときに、「証拠を見つけてからそうする」というのは、極めてナンセンスだ。
「現実は内面の投影である」というのと、「認識の変更により、現実が変わる」というのが、少なくともチケットの内容のはずだ。
それならば、望む自分そのものになれば、現実がそうならないはずがない、ということだ。