【方法論】「実践あるのみ」メソッドも瞑想も、別の領域に触れるも、充足を見るも全部、「認識を変更する」ためだけに行う必要がある。しかしこれは効果が絶大で、認識の変更途中でさえ、現象化が起こっていく。

体感・気づき・方法論
達人さん
達人さん

チケット7章の認識からいくと、「認識の変更をしたい」という思いも、すでに叶っていることになる」と、isaさんが書いていました。

この流れで、最近の自分の気付きを言います。
これまでに議論されてきた内容は、「願望を叶えるために」、というのが隠された主題となっていました。
少なくとも私は、チケットを知ってからのすべての行動が「叶えるために」になっていました。

むしろチケットを知らなければ、毎日の思い、心の持ち方、思考や思念、隅々までを、「願望実現」にどっぷり浸からせることは無かった。
「願望は努力して叶えるものである」と思い込んでいました。
勇気を出して、覚悟を決め、頭と体を動かして立ち向かい、幾多の障害を越えることで、「より大きく困難な願望が実現する、可能性が高まる」と思い込んでいました。

だから、今までの人生で、「そんな怖い事出来るか!」とか、「金が無いから無理だ!」とか、ある意味諦めていた願望がある。
だから、願望は叶ったり叶わなかったりしていて、叶ったものについては、「まぐれラッキー」と喜んだ。

しかし、今は「方法論」を知ってしまった。
だから、今まで諦めていた部分についても、「全部叶うかもしれないぞ!」という期待が出てきてしまった。
アファメーションなどのメソッドや、達人さんのアドバイスを真似る事も、勉強することも、全てが「叶えるために」行われている。
それに気づいたために、「叶えるために」というのを無理やりにでも引っぺがす必要がある、と感じていました。

しかし、最近徐々に、自分がエゴを眺める立場になってきたことに伴って、「引っぺがせるものなのか?」という思いがふと湧きました。
「叶えるために」というのはエゴの活動です。
エゴの活動を抑えたい、エゴをコントロールしたい、そうすれば願望は「叶いやすくなる」と、思っていたのではないだろうか。

「願望は叶うものではない」というのが、私たちの今の認識の元にあるのではないか、ということです。

つまり私たちは、「叶えるために何かする」必要はなく、「エゴを引っぺがして大人しくさせる」必要もなく、エゴがいっぱい引っ付いた自分の認識を袋を裏返すように、いとも簡単にクルッと変える。
ただただ、「認識を変える」必要はあるんだと思います。

「願望は本来簡単に叶うものではない」という認識を変更するために、チケットやメソッドがある。

分かってきたのは、「言葉は100%物事を表現できるものではない」ということです。
「認識を変更する」、このことが「頭でわかっていても、その深層心理では「認識を変更する=願望を叶える」、という定義になっているはずです。
ここの認識を変更してやるために、エゴを大人しくさせる必要はあった。
エゴから自分の主導権を取り返してやる必要があった。
でも、「エゴを取り払う」というのと「願望実現」はイコールではない。

私たちはともかく、「認識を変更する」、これだけに注力しなければならない。
これだけは、しつこく自愛するなり、しつこくエゴと踊るなりして、努力していい部分なんだと思います。

メソッドも瞑想も別の領域に触れるも充足を見るも全部、「認識を変更する」、このためだけに行う必要がある。
しかしこれは効果が絶大で、認識の変更途中でさえ、現象化が起こっていくのだと思います。

だから、「ここが分からない」、「あれがわからない」、「もう疲れた」と言う人は、なおさら「実践」をすることが大事です。
「叶えるために」という思いでもいいから、「今今メソッド」を実践し、「思考を止める」を実践し、「自愛」を実践し、「叶えたくないとひねくれる」を実践する。

理論でなく、体感でしかこれは得られない。
頑張って頑張って心を籠めて実践する。
するとあるとき、色んなものが繋がってくる。
ともかく、実践あるのみです、理論はあとからついてきます。

108以外質疑応答【14】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1454787925/
477 名前:428 投稿日:2016/04/06(水) 18:20:03 ID:s/ljsQrw0

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