私は仕事でよくムカついてて そのムカついた感情を受け入れて、感じきることをしてるんですが、あぁ私はやっぱりムカついてるなー、って感じで、ムカつきの再確認するだけになってしまってます。
私はやっぱムカついてるな、これに気付けるだけですばらしいです。
私は怒るような人間ではない、っていう具合に、我々は自意識で自分を飾ります。
そして、感情を抑え込むんです。
抑え込まれた感情は、凝固して、或いは停滞して、恒常的な気分を害するようになります。
これが、感情障害の例です。
感情を再認識できたら、それを体で感じてください。
勿論、怒りなら、声を出すとか、モノを壊すとか、直接外へぶつけるのもアリですよ。
時には、相手に表現することさえ、自然な場合があると私は思います。
体で感じる、そして、じーーっと見ている、そして、動きが止まったらトントン叩いて終了です。
自分を愛そうとするとき、自分より劣っている人、不幸な人を引き合いに出してきて、自分を愛そうとしてしまいます。
あの人に比べたら、私の方がマシだよねっていう感じです。
こういう愛の感じかたはまずいですか?
まずくはないですが、ただ無条件になっていない、ってことだけです。
私は○○だから愛する。
私は○○だから嫌だ。
実は、これらは同じなんです。
○○というのは、条件です。
つまり、条件付きの愛です、そして条件付きの嫌悪です。
自分を愛する、というのは無条件に愛するのです。
何もなくてもいい、金も、地位も、美貌も、才能も、何にもいりません、そのままそっくり愛します。
何何だから愛する、といううのではありません。
理由もなにもいらないのです、寧ろ邪魔です。
あなたの場合は、まずは他人と比較した状態で愛を感じて、その感じを維持したまま、だんだんと比較した条件を取ってゆく、という感じでもいいかもしれません。
○○という条件が無くても、愛を感じることができるといいです。
私は自分を愛するのに、条件を必要としてしまうのです。
何故なら、今のままの自分では好きになれないから、つまり自分が嫌いなんです
今はまだ、無条件の愛の感覚はわからないけど、チャレンジしてみます。
暫くこんなことをやってみて下さい。
自分を愛してあげているとき、何か愛せないと感じる部分が出たら、それでもいいんだよ、と言ってあげる。
愛せない部分がまた出たら、それでもいいんだよ、と言ってあげる。
どんな自分であっても、愛している。
嫌だと思う部分も、良いと思う部分も全部、愛している。
ああ、嫌だ、それでもいいんだよ、と、ひたすら心地よくある。
難しく考える必要はありません。
お母さんに抱かれているように、自然に抱かれているように、全ては私を抱いています。
他の人に対する劣等感はどのように解決したらいいでしょうか。
劣等感はどのように解決したらいいでしょうか、というマインドでは、劣等感に焦点が当たりっぱなしです。
従来のやり方、つまり、劣等感の原因を究明し、その心理を分析してそれから解放される、というのは、どうも違うようです。
まず、その劣等感を感じたとき、その瞬間、その感じを感じてみる。
これは、あなたが劣等感を克服するためにやるのではない。
おおー、これが劣等感という感じなのかー、と、興味を持って見てみる。
すると、瞬間、あなたは劣等感からの呪縛から離れることが出来る。
先ず、その感じを感じて、受容して、いらなければありがとう、と共に、それを捨てる。
モノを捨てるとき、まず手に掴むことが先決です。
手で掴まないと、捨てられません。
手で掴み、感じて、捨てる、この順序を覚えてください。
すると、その劣等感は、一種の観念で、最初から問題にすることでもなかったということが解る。
嫌だと感じるものが来たときは、一旦抱擁してください。
抱擁すればツンデレがデレになります。
「劣等感」が沸き上がるたびに、興味をもって接して、その後さよならしました。
そうしたら、今まで感じた事のない、雲が晴れたような解放感を味わう事ができました。
嫌な感情を拒絶するんじゃなくて、まずその存在を認める事が大事だったんですね。
今までとは違った心境が起こりましたよね。
何かにさよならするときは、キャッチ&リリースです。
一度キャッチすれば、後は自由です。
願いを簡単に叶えられる、簡単な方法があったら教えて欲しいです。
私が望んだものは、全て実現しています。
さらに、望んでいないものは、全て実現しておりません。
だから、目の前にあるもの、今の仕事、人脈、環境、その全ては、私が望んだものです。
たとえどんなに、自分が嫌だぁ、と思うものでさえ、私が望んだものです。
いま私にないものは、わたしが心底、望んでいないものです。
たとえどんなに、欲しいと思っているものでさえ、望んでいないものです。
こう言ってしまっては、身も蓋もないように聞こえると思いますが、ここが基本なんです。
まず、いまあるものは私が望んだものである、ないものは望んでいないものである、と、チューニングをします。
ようするに、いまある全ては私である、ということを見ます。
これで、今あるものを、自分にピッタリさせるのです。
今あるものを嫌っていたり、遠ざけたり、否定していると、なかなかうまく稼動しません。
バシャールがよく言っていますが、解らなくなったら、いまここで出来ることに集中してください、というのが、即ち、チューニングなのです。
自分を見失ったら、今、ここで出来ること、今、ここにしっぽりと身をおくことです。
これが急所であり、秘伝です。
私は、メソッドを意識的に使ったことはあまりありません。
私の場合はフォームを決めることです。
つまり、あり方を決めることです。
自分は、自分として、どんな自分であるか、とことん自分に正直になる。
すると、こうありたいというフォームが見えてくる。
それになるんです。
それになっても、自分が消えるわけじゃないです。
自分は自分として、そうなるのです。
すると、環境があとで整ってきます。
どうあっても結構です、それは、それぞれの創造なのです。
苦しいです、願いが叶わないので死にたいです。
やっぱり八方塞がりで、死ぬしか無いと思う淵まで、自分を追い詰めてしまう。
一言だけ、端的に言います。
苦しみを手放しちゃってください、苦しむ必要はありません。
これを頭で理解せず、ただ手放してください。
手放そう、と決めてください。
あなたはメソッドをやれば願いが叶う、と言うふうに、メソッドを条件として使っていました。
まずは苦しみを手放して、自分は心地よくあっていいんだ、と思ってください。そして、心地よくあってください。
もう一度繰り返しますが、我々には苦しみなど不要です、無価値です。
何もしなくていい、あるがままのあなたであればいい、ってことは、
願望が実現しようがしまいが、あなたは幸せなんです、ってことでしょうか?
その通りです。
願望の有無、実現の有無が、あなたの幸せを支えているのではなく、願望が実現しようがしまいが、あなたは幸せである、ということです。
幸せなあなたが、どんな願望をもってもいいのだ、と言うことです。
あなたは幸せに満たされていても、望みを持っていいのです。
逆に、幸せなあなたが意図する願望こそ、無条件で取引関係のない、そのままの願望なのです。
このロジックを理解してください。
あなたが願望の実現の有無で、幸せになったり不幸せになったりするということは、その願望の実現そのものが、あなたの幸せを支えることになります。
実現しなかったらあなたは不幸になってしまうなら、あなたの幸せの条件が、願望実現になってしまい、あなたは願望を手放せなくなります。
叶わなかったらどうしよう、と言う不安に、焦点を当ててしまい、とてもイライラしてしまうでしょう。
そんなことでは、願望の実現にウエイトが掛かってしまい、余計に叶いづらくなるわけです。
気楽な願望は叶うけど、本願は叶いづらいという理由は、そこにあります。
気楽な願望なら、あなたの幸せを左右しないが、本願は、あなたの幸せに直結していると、あなたが認定しているのです。
幸せは無条件であり、幸せな人も、何かを望んでいいんです。
寧ろ、それが願望なんです。
幸せな人の願望は、とても叶いやすいんです。
願望実現と幸せをとりひきしている人の願望は、叶わなければどうしよう、という不安に、焦点を当ててしまうので叶いづらいんです、そういうロジックです。
私が幸せなうえに、願望を持ってよいなんて、人生素晴らしすぎです
あなたは何を望んでもいいし、その望みは、あなたをより輝かせてくれるものです。
あなたは何かが欠けているから、何かを望むのではありません。
そんな望みは叶いません。
何故ならば、あなたはどこも欠けてないからです。
あなたは無条件で幸せであり、尚且つ、何を望んでもいいのです。
これが望みです。
あなたは何も矯正することはないですよ。
そのままのあなたでいてください。
出来れば、あなたに気づいてください。
いつでも、どこでも、誰とでも、そこにいるのは、あなたなんです。
私の一番の願望は結婚ですが、結婚しなくてもハッピーな自分を見つけたら、結婚は必要ないんでしょうか
そのままでハッピーな人は、よりハッピーな現実を見てはいけないのでしょうか。
幸せな人であっても、何かを望んでいてもいいのではないでしょうか。
その望みこそ、影に支えられていない、純粋な望みです。
結婚を幸せの条件だとすると、結婚しないと幸せになれないということになります。
そうではなく、結婚していなくてもハッピーだから、結婚したらもっとハッピーなんです。
これは、影が支えていない、純粋なハッピーです。
今、ハッピーであればハッピーな結婚ができる。
今、ハッピーでないと認定すると、ハッピーでない結婚ができる。
このくらい単純な話です。
あなたは、結婚を達成しなければ幸せになってはいけない、
こんなふうに思っていませんか?
散々語られていることですが、これは逆です。
幸せであることが、達成をもたらします。
何かがあるから幸せだ、というのは嘘です。
確かに現実は、そんなふうに営まれていますよね。
志望校に合格したから、幸せだ、憧れの彼と結婚できたから、幸せだ、って具合にね。
勿論いいんです、それが幸せであってもね。
しかしそれらが、幸せの条件になると、それらが具現化、現実化していないあなたは不幸せである、と定義されてしまいます。
そして、まだ達成していない、わたしはダメだ、となってしまう。
このわたしだめという気持ちが、具現化に抵抗する勢力になっています。
だからといってこの、わたしだめという気持ちを絞め殺せ、というわけではありません。
ダメな思いがあるなら、あってもいい、何があってもOKで、そのまま無条件に幸せであることを選択するんです。
私は何もなくても幸せであってもいいんだ、と、そんなふうに考えてみてください。
そう、条件なしで幸せであってもいいんです。
幸せの主導権を、あなたに取り戻してください。
現実があなたを支配して、願望の達成が、幸せの認定証をくれるのではありません。
あなたがそれを選択するとき、それらは来ます。
その選択とは、幸せのために渇望することではなく、今、幸せであることです。