自分を許しきれてないのか、どんな自分でも許す、愛す、って、頭の中で声にしているだけで、実感ができていないです。
僕も同じような経験をしました。
許しても許せた感じがしない、
自分を愛することがよくわからない、
メソッドを実践してるとしんどい、
こんなことが頭をよぎりますよね。
でも、考えてみたんです。
自分を愛そうとしてくれているのは誰なのか、
自分の全てをありのまま許してくれているのは誰なのか、
自分のどんな側面でも受け入れてくれているのは誰なのか、
自分のために何かを成し遂げようとしてくれているのは誰なのか、
お気づきだと思いますが、ほかでもない、自分ですよね。
全部、あなたがあなたのためにおこなっていることです。
あなたはあなたを愛そうとして、悩んでいて、これからもあなたは、あなたのために何かに悩み、何か辛いことでも乗り越えようとすると思います。
そして、今までもそうでした。
それを考えてみたら、充分なほどに愛されていることがわかりますよね。
自分が自分を変えようとしていることは、ほかならぬ自分の為であり、言うならば、自分への愛そのものであります。
自分がどれほど自分の為に尽くしてきたか、尽くしているのか、知る必要があります。
今までの悩みは、自分が自分を想うが故であったのです。
僕たちは生まれてこのかた、愛を欠かしたことは無かったんです。
さらに言うなら、僕たちは自分の為に、愛するが故に、ここに存在して何かと動きまわっているのです。
愛という言葉は崇高なものではありません。
今ここに在ることが、愛なんです。
まさに今、愛されているし、自由を許されています。
それを知ることが、自愛でありました。
それでは、愛がわからないと悩んでいたのは何故なのか。
結論から言いますが、最初から存在していた、自分への愛に気づいていなかったからです。
言い換えれば、世界から分離していたということであり、エゴによる・願望獲得ゲームに没頭していた、と言うことだと思います。
無条件の愛、といいますが、無条件であることが、何故か難易度を上げてしまいます。
このことは、自愛をしようとしている人にとって、最大のネックになりがちなものだとおもいます。
僕たちは無条件というものに対して、今までの習慣から、警戒心または遠慮、疑念を抱いてしまいます。
○○しないと××できない、
××するためには○○する必要がある、ということが、ごく当たり前になっており、習慣、常識であり、これを無視しようとすると違和感を感じて、無条件には○○できない・となるわけです。
自愛する場合、無条件には自分を愛せないぞ、どうやって愛せばいいんだよ、あぁ、こういう自分も愛さないといけないぞってなるわけです。
この違和感の正体、それがいわゆるエゴであります。
あえてエゴと言いますが、自分以外のものが自分の中にいるわけではありませんし、それが勝手に動きまわってるわけでもありません。
ここで言うエゴとは、今まで凝り固まった習慣や、常識や、自分の意志と反するものや、自分を押し留めようとするもの、と定義しておきます。
エゴに自由意思はありません。
エゴにとって無条件と言うものは馴染みが無く、それを採用しようとすると、違和感、罪悪感となってざわめくわけです。
そのざわめきは、無条件には自分を愛せないという思いを誘発するわけです。
さっきも言いましたが、エゴに自由意思はありません。
あなたがエゴによる見解を採用することで、初めてエゴの方針が実行されます。
エゴが自力であなたを苦しめていることなんてありません。
あなたがエゴを選び、わざわざ苦しんでいるわけです、まさに自作自演です。
これが分かればこっちのもんです。
どんな感情も現実も自分とは無関係だ、俺は完全に自由だ、願いも即叶えるんだ、と宣言してみると、そんなわけない、ありえない、現実は現実だ、などといった声が聞こえて来ることと思いますが、このエゴによる声が聞こえなくなるまで、エゴを無くさなければならないということではありません。
と言うのは、エゴが何かに反応することは、全く問題ではないからです。
大事なのはエゴによる判断をすぐに採用しないで、自分の意志を採用するということです。
簡単に言うと、抵抗感などのざわめきは、気の済むまで言わせておくが、願望達成とは何ら関係の無いものだと構えておくということです。
そこには、エゴによる制限はありません、完全に自由です。
そうすれば、五感を超越して、願望達成することができます。
それはつまり、ありのままを許せ、手放せ、何も関係ない、最初から幸せ、別の領域、既にあるに言い換えることができると思います。
あるがままで、もう自分に愛されてたんですね。
悩み苦しんでいたのも、自分を幸せにしてあげたかったからなんですね。
まだ執着と願望に取り組んでしまう自分ですが、自愛に対する意識が変わった気がします。
願望を持つことは悪いことではありませんし、無くさなくて良いものです。
むしろ、あなたがせっかく何かを得ようとしているのですから、肯定的に受け止めるといいですよ。
願望、欲望は、自分が世界と分離しているから生まれるというのは、真っ赤な嘘であります。
それらは自分の人生を謳歌するための付属要素的なものです。
それを叶えたいと思い、叶えることで喜びを味わうことは、決してダメなことではないでしょう。
禁欲するのも良いですし、願いを叶えることも良いのであります。
ですが、ここで知っておきたいことは、ここに在るだけで100%幸せであるということです。
願望が叶わないから不幸だと思い込むことは、今在る幸せをないがしろにしてしまっています。
そうではなく、今この瞬間、ここに存在していることを祝福しながら、願望を持ったことも祝福するのです。
だから幸せは100%と言いましたが、%も何もありません、幸せしかないということです、
それしか有り得ないわけです。
その幸せに気づくか気づかないか、これを知ってもなお、自分を幸せだと認めるのか認めないのか、ここの違いで、
何もなくても幸せと言えるか言えないか、ということに繋がるのだと思います。
自愛もチケットも潜在意識も、結局本来の自分自身の在り方を思い出すことに行き着きます。
ここにいるだけで愛されていたんだ、
いつも自分を愛していたんだ、
最初から完璧だったんだ、
不可能なんて勘違いだったんだ、
願望というものは本来単なる意図だったんだ、
それを否定してるのは自分だったんだ、
固定された私なんていなかったんだ、それを思い出すことです。
認識の変更を、厳密に言えば、本来の自分を思い出すということです。
本来の自分とは白紙の状態であり、完全に自由です。
だから私たちは、毎瞬毎瞬、新しい私、新しい世界をつくりだしています、
そのことを思い出すのです。
それを知れば、スピリチュアル的に言えば、感謝、愛、完璧を感じざるを得ないのです。
だから難しい思考のテクニックが必要なのではありません。
ましてや現実から目を逸らす、精神安定剤のための、いわゆる悟りではありません。
今ここにいることが、既に悟りであることを思い出す。
潜在意識をエンドレスに使っていることを思い出す。
既にこの上なく愛されていることを思い出す。
表現は違えど、すべて同じことです。
だから、チケットは必要無かったわけです。
スタートラインがゴールラインだと気がつけば、
いつが終わりなのか分からないフルマラソンに、わざわざ参加しなくてもいいんです。
やめたいならもう走るのをやめても構いません。
もうとっくの昔にゴールテープはあなた自身が切っています。
そして走るのを終え、喜びを体全体で表した途端、
周りの世界が精一杯祝福してくれるだろうと思います。
*108以外*質疑応答【6】
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1320250673/
588: もぎりの名無しさん :2011/12/24(土) 09:47:13 ID:pp9Xb/UY0