
潜在意識の世界では、「エゴに悩んでいる」と言っている人が多く見受けられますが、そういう人は自己観察が自然にできているんでしょうか。
つまり、「思考を、自分とは別物であると認識できているのか」ということです。
「エゴ」というのは、「普段の私と感じているもの」ですよね。
では、「普段の私」である「エゴ」というのは何なのでしょうか。
多くの方が気づいておられますが、要するに、「経験の記憶」ですね。
私たちは、様々な経験を通して、「これはこういうものだ」というレッテルを作ります。
例えば、「箱の形で、ツヤツヤしてて、黒くて丸いものが下についている物体」を見ては、「車だ」というように、瞬時に記憶と照合してレッテルを貼ります。
「あ」という文字を見て「あ」というレッテルを貼ったのは、記憶と照合しているからです。
私たちは、「あ」という文字をみたときに、当たり前のように「あ」と認識できます。
しかも、照合している瞬間など捉えられないくらいに、瞬間的な早業ですが、確実に照合作業はしているのです。
この照合は、実は、普段の「私自身」に対してもしています。
自分自身に「これこれこういう人物である私」というように、レッテルを貼っています。
これも、記憶から瞬時に照合しているのです。
私に関すること」全てに対して、レッテルを瞬時に貼っています。
私に関することとは、すべて五感から認識しますよね。
五感で捉えたものすべてに、レッテルを貼っています。
しかも、五感自体にもレッテルを貼っています。
「目に風景が映ること」イコール「視覚である」などです。
つまり、「視覚」もレッテルです。
これらを突き詰めていくと、あえて言うなら、私とは「意識」、「存在」みたいに表現できます。
だから、達人さんや、悟ったひとは「私とは意識である」などと言っていたりするのです。
この「意識」も、レッテルなのですが、これ以上は言葉では表現できなくなります。
超高速のレッテルを、ほぼ無意識に私たちはしているわけですから、エゴは「手強いんです。
普段、記憶の照合をしているなんて、自覚も何もないですからね。
しかし、自己観察を極めれば、レッテルを貼る瞬間が見えるようになるのです。
この部分が、自己観察が他のメソッドとは違うところであって、抜きん出ているところです。
自己観察を極めれば、完全にエゴから自由になります。
ここまで行けば、達人どころか「仏陀でしょうが、近いところまでは誰でもいけます。
なので、私は自己観察をおすすめしています。
自己観察の初心者の方は、まずは思考を捉えてみましょう。
普段、思考を「私である」と思っていませんか?
思考とは、手足と同じく、私の「道具」みたいなものです。
思考を捉える方法としては、まずは、何も考えない瞬間を見つけます。
それは、「思考と思考の間」ですね。
そこに気づいてみたら、そこに「留まってみます。
そこにいても、私は消滅することなく、在りますよね?
つまり、思考は私ではないのです。
そこに留まって、思考が湧く瞬間を捉えてみます。
そうしてるうちに、思考が、「物体」というか、「漫画の吹き出し」というか、「頭の中の雑音」のように感じてきます。
そうなると、「思考と思考の隙間の私って何なんだろうか」と思うかもしれません。
それが、いわゆる「別の領域」なんですね。
「思考」と、「思考とは別の領域」の違いに、気づいてみましょう。
思考とは道具のようなものであり、「私ではなかった」ということに気づきます。
思考がなくとも、在るこの隙間、「ここ」、この「場」こそが、本質の私であり、エゴはこの領域に湧いていた幻想であると気づきます。
元々「私」とは、「この領域だった」ということです。
そして、この領域に様々な現象が起きて、それが経験となり、経験が束となって、記憶となり、エゴが作り出されていた、という気づきに繋がってくるかと思います。
そして、この気づきが起きるだけで「充分だと思っています。
自己観察スレ3
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407 : 幸せな名無しさん :2017/05/13(土) 03:31:35 DUrXm0Po0